ヤップ島回想記

太平洋戦争末期のミクロネシアでの奮闘記

月刊誌「ゆたか」年金と生活の情報誌11月号に掲載されました。

2012-10-19 17:05:57 | 月刊誌「ゆたか」雑誌掲載の全文公開

雑誌の取材を受けました。(平成13年の7月)
私のホームページを見て取材したいと申し込みがあり、ホームページを立ち上げてから間もなかったので、こんなに反響があるものか、と大変驚きました。
厚生年金の雑誌ということで、老後の生活の取材をしたいとのこと。一人でも多くの人に私のホームページを読んでもらいたいと思っていたので取材を引き受けました。
当日取材スタッフがやってきて、インタビューをする人とカメラマンとそのアシスタント3人で現れ、思った以上に物々しくてびっくりしました。取材中エレクトーンを弾いてほしいと言われ、自信がなかったので少し緊張してしまった。写真はものすごい数を撮ったと思われる。カメラマンの仕事も大変そうであった。
2001年の11月号に掲載され、内容は「ヤップ島回想記を公開する」という題で、76歳にしてホームページを立ち上げた事、ヤップ島への想いなどが紹介されていた。ちょっと有名人になったようで気分がよかったので、知り会い何人かに配ってしまった。貴重な経験でした。


掲載ページの全文を載せたので是非お読み下さい。

---------------------------------------------------------------
月刊誌「ゆたか」2001.11「さらに人生」というコーナーより 文/渡辺広之
「ホームページを開設し ヤップ島回想記を公開する」 高橋 英二さん(76歳)


昭和18年から~20年までの思い出をテキストにする

 今回紹介する東京・杉並区に住む高橋英二さん(76歳)は自分史を書いていますが、過去のある時間、上手く思い出せない部分があるため原稿を書くのを途中で休んでいます。 しかし興味深いのは、途中までの原稿をしまっておかず、インターネットのホームページで多くの人たちに向けて公開いしていること。
 ホームページの魅力は印刷に時間がかかる本と違って、最新の情報を次々と載せることが出来ること。違った見方をするなら、完成形のない状態がっずっと続くという特性をもっています。
 本の場合、未完成の原稿を載せることは違和感がありますが、ホームページの場合は、そのような性質があるため、未完成の原稿を公開することは問題ありません。というより、書かれていくものが随時公開されていくというほうがインターネット的だともいえます。


 高橋さんのサイトをのぞいてみましょう。タイトルは「ヤップ島回想記」。高橋さんは昭和18年から20年までグアムの南西にあるヤップ島の会社に勤務していました。その時の思い出を綴ったのが「ヤップ島回想記」であり、そのテキストを中心に構成されているのが高橋さんが作ったホームページなのです。


「仕事は、注文住宅や建て売り住宅団地の開発にたずさわってきました。手掛けた住宅の数は3000戸くらいになります。昭和50年代から輸入木材で建築する2×4工法の仕事をしました。自分の家もその工法で設計してあります」


--------------------------------------------------------------------------
南国の島、ヤップではこのように暮らしてきた

 大正14年、高橋さんは北海道美唄(びばい)で生まれました。父親が学校の教員だったので村の小さな小学校が高橋少年の住まいでした。しかし父親が早く亡くなったこともあり、高橋さんは苦学して札幌工業学校建築科に通うことになります。そして大学への進学を断念して就職することを選択します。
「そこで、当時日本の委任統治領になっていた南洋群島の小さな島、ヤップ島にある南洋拓殖株式会社という国策会社に就職しようと思ったのです。南洋諸島の農園、農場の開拓や鉱山の経営などをしていた会社です」
 ヤップ行きの船は、神戸港から出航。パラオ経由、約20日間の船旅でした。やっと着いたヤップ島。高橋さんの文章ではこう書かれています。
「海の色が紺青の色から淡い緑そして珊瑚礁の白い海とハッキリ色分けされて、やがて島の椰子林がいっぱい目に飛び込んできた。船は水路近くに投錨する。海岸には迎えの人達が並んでいるのが小さく見える、盛んに手を振っているのがわかる、迎えの艀(はしけ)に乗り、間もなく上陸する。パラオと違って出迎え人は島民が多く、日本人が少ないのに驚いた。一見してパラオとヤップでは大分違うのがわかった。これは私にとって本当の南の島に来たという安堵感があり、それと同時にえらいところに来てしまったと変な感情が入り交じったのが第一印象だった」
 この島での高橋さんの仕事は、会社で使う施設の設計、建設現場の監理でした。たとえば銅抗から掘り出した鉱石を日本へ積み出すための倉庫を作りました。
「男達は小屋組みの上に登って屋根を葺く者と、下から編んだ椰子の葉を差し出す者二手に分かれて作業が進められた。女性達は昨日と同じように、賑やかにおしゃべりしたり歌を唄いながら椰子の葉を編んでいる。編んだ椰子の葉は一枚でも重く大きい。それを2、3枚突き出すように下の者が、屋根に向かって投げ上げる。上の者はそれを受け取り、見事な手さばきで葺いてゆく。すばらしい手仕事である。村中総出で行われたこの作業が、島民の先祖伝来の知恵と技が巧みに織りなした、男女のチームワークで進められてゆく様は見ていて感銘を受けた」


 こうした南国的な楽しげな日常に戦争の影が忍び寄ってきます。そして昭和19年3月、アメリカ軍による始めての空襲を受け、島は相当な被害を被ります。テキストでもその事態は描かれていますが、実はそのあたりで高橋さんは、「ヤップ島回想記」を中断しています。
「この時期から終戦の日までの記憶が曖昧になっているんですよ。空襲の記憶も、後になって読んだ資料に書いてあったことと食い違っている。これがはっきりしないと、その後がやはり書けないものなんですね」
 アメリカ軍からの攻撃や食料不足などの苦しい経験が、記憶を曖昧にさせているのでしょうか。高橋さんはホームページに「(当時の島の)どんな小さなことでもかまいませんので、メールでお知らせください」という文章を載せています。


「大切にもっているヤップ島時代の南洋拓殖株式会社の記念写真と、現地で徴用されたため、渡された海軍行員手帳」

-----------------------------------------------------------------------------
娘さんの勧めもあってホームページを開設

 平成9年、高橋さんに大きな事態が。健康診断で肺ガンがみつかったのです。
「宣告されたときはショックでした。しかし、早期発見だったので回復も早かったのです。しばらくして原稿の後編をまとめ初めたのですが、なかなか進まない。娘も心配して『これを機会に一度思い切ってヤップ島に旅行しない?』といってくれ、2年前に行ってきました」
 さらに娘さんの勧めもあって、コンピュータを使って今年の6月からホームページを開設しました。
「戦後は住宅建設専門の会社に就職したのです。主として木造住宅の設計と管理の仕事をしてきました。そこで最後のほうは、設計をするときにコンピュータを使っていましたが、ホームページ作りはけっこう大変でした。(笑)」
 阿佐谷駅の近くにある高橋さんのお宅は、ご自身で設計したとても素敵な住宅でした。そこで高橋さんがコンピュータを動かしているところなどを撮影したのですが、「もうひとつ自分が熱中していること」も見せてくれることに。それがエレクトーン演奏でした。
 音楽が「まったくできなかった」高橋さんですが、実際に鍵盤楽器を演奏できたら、どんなにいいだろうと急に思うようになり、今から約10年前エレクトーン教室に通うようになったのです。
「最初はぜんぜんできなくて、簡単な曲も終わりまで弾けず、本当に大変でした。何度も何度も練習しましたよ」
 という高橋さん。今年の夏の発表会で演奏した映画『もののけ姫』からの曲を聞かせてもらいました。これが壮大な展開の曲なのですが、なかなかの腕前。
 その音楽を聴きながら思ったことは、あの「ヤップ島回想記」のことでした。「最初はぜんぜんできなくて」も「何度も何度も練習」することによってエレクトーン演奏ができるようになった高橋さんは、きっと文章も何度もチャレンジして、しっかりとそれを完成させるのではないかと思ったのです。
「私は大正14年生まれですから昭和18年から20年というの18歳から20歳のとき、一番感受性が豊かな時期でした。自分の人生にとってとても大切なときです。そのときのことは、文書で残しておきたいと強く思ったのです。そしてホームページで公開したのは、自分の記憶の欠落部分を埋める手がかりを得るためであると同時に、このネットワークの世界に書き込んでおけば、その文章はずっと残っていくような気したからです」
 高橋さんは回想記の原稿書きにまた挑戦しています。高橋さんが演奏する壮大な展開の音楽のように、それは大いなる物語となるでしょうか。「ヤップ島回想記」全編が公開される日も近いはずです。