ヤップ島回想記

太平洋戦争末期のミクロネシアでの奮闘記

ヤップ島回想記 パート2

2012-10-19 17:05:45 | ヤップ島回想記 パート2
 長年書かれることがなかった「ヤップ島回想記 part2」を始動いたします。(2001.6.18)
「はじめに」にでお知らせした通りこのホームページの筆者である高橋英二は昨年(2002.8.17)永眠してしまいましたので、パート2においては私、長女のミホが書き進めて行きたいと思います。
 パート1のような形ではなく、父が生前私にヤップ島での生活について語ってくれた話を思い出しながら進めていくつもりです。
 私は文章を書くのが苦手なので、読み苦しい部分が多々あると思いますがご了承下さい。父から聞いて覚えている事柄はとても断片的なので、上手く表現することができるか不安なのですが、とりあえずまとめてみますので、よろしければご覧下さい。


Part2 目次
第一章 これからが大変
第二章 ヤップの戦況
第三章 終戦までに生活
第四章 幼い特攻隊


つづきはしばらくお待ち下さい


ヤップ島回想記part2 第1章 これからが大変

2012-10-19 17:05:33 | ヤップ島回想記 パート2
---------part1 第17章 二度目の裸より-------------
此の初めての空襲の日から数日してヤップ島に続々と日本の軍隊が上陸してきた。 これからが大変。後編に続く。

「後編に続く」とあるが、この後約5年間後編が書かれることはありませんでした。
以下 文 長女



part2 第1章 これからが大変

昭和19年3月31日に受けたヤップ島への空襲の後、人々はサバイバル生活を余儀なくされた。
 父はこの後徴集令状を受け取り軍事に関わらなくてはいけなくなってしまった。
もともと戦争嫌いで軍人を毛嫌いしていた父だが拒否できる状況ではなかったであろう。
 余談ではあるが父が工業学校での軍事訓練の時間に教官に歯向かって日本刀で切られそうになったことがある。この戦争は間違いである、絶対にアメリカに勝てるはずはないと心の中で思っていたことを口にしてしまったのです。それで教官の怒りを買ってしまったらしい。それ依頼「非国民」というレッテルを貼られてしまったとか。なぜ戦争に反対で負け戦だと信じていたのかという根拠は聞けなかった。
 話は戻って、まずは空襲を受けた飛行場の復旧作業、滑走路の修理・倉庫などの建設をした。この頃にはものすごい数の日本軍が来たそうだ。ただ事じゃなくなったという実感が湧いてきた。
 父は車の運転免許がないにも関わらず、トラックにいっぱい爆弾を積んで何度も運んだそうだ。この事についてはとても楽しそうに話をしていた。晩年も運転するのが大好きで自動車のない生活は考えられないと言うくらいだったので、初めて運転したのがトラックでしかも山あり谷ありのようなデコボコ道だったらしく、ジェットコースターにでも乗っている気分だったのだろうか?爆弾を落っことして爆発するのでは?などということは考えなかったのか?無免許だろうがこの時代には関係ないのか?
 そして緊迫感があるのかないのか、夜中に軍曹達が眠っているすきに何人か連れ立って倉庫にあるビールを盗み飲みして息抜きもしていたらしい。これが格別においしかったらしく何度も挑戦してしまった。のんべえはこの頃から始まったのか?この時代にしたっぱの者がこんなことをしたら拷問でも受けそうなものなのに、無鉄砲者である。
ここまでの話では戦争まっただ中にも関わらず、生きるか死ぬかというより、むしろ楽しそうな体験である。

ヤップ島回想記part2 第2章 ヤップの戦況

2012-10-19 16:25:44 | ヤップ島回想記 パート2
父がパート2を書くにあたって一番悩んでいたことは、ヤップへ上陸した日本軍兵隊の数と戦闘機の数でした。なぜここにこだわっていたのかよくわからないのですが、様々な資料を調べたがそれぞれ違うらしく、どれが正確なのかわからなかったようだ。
最近になってヤップの戦況の情報が載っているという「南拓誌」を頂いたので、引用させていただきます。
 
< 南拓誌>より引用
・守備兵力は陸軍約4,000名
・海軍約1,400名
・海軍設営隊約400名(昭和19年2月航空基地建設のため)

ヤップ事業所の南拓社員全員が徴集され、父は上記の海軍設営隊に属した。
3月31日の空襲の時>>にも朝から一同飛行場建設のため作業していた矢先のことだったのです。

ヤップ島回想記part2 第3章 終戦までの生活

2012-10-19 16:23:24 | ヤップ島回想記 パート2
これから終戦までヤップでの生活はあまり語られませんでした。断片的ですが、私が聞いて記憶していることを書き留めておきたいと思います。

まず、やはり空襲後はヤップの人々と共に、ジャングルに身を潜めてただひたすら事態が治まることを待っていたそうです。すぐそこに海があるのに、食料の魚を獲ることは出来ません。海に出れば敵軍に見つかってしまうからです。
ジャングルの中では、作物はなく、葉っぱやトカゲを食べて飢えをしのぎました。皆は栄養失調で痩せていったそうです。父は運良く、もともと体格もよかったので、ひどく衰弱するほどにはならなかったそうです。
終戦間際には他の玉砕にあった島々と同じように、青酸カリが皆に配られたそうです。


ヤップ島回想記part2 第4章 幼い特攻隊

2012-10-19 16:21:07 | ヤップ島回想記 パート2
空襲がひどくなってからでしょうか、今までにない数の戦闘機(日本軍)と兵士がヤップに続々と上陸してきたそうです。父はこれはただ事ではないと察しました。
父が飛行場にいたある朝、特攻隊の出動ェありました。次から次へと青い空に向かって特攻機が飛び立っていきました。その中にとても幼い顔のパイロットを見たそうです。当時父も19歳という若い年齢でしたが、父から見て幼いと思うくらいですから、たぶん15,6歳くらいだったのでしょう。
父はこの光景が焼き付いているそうです。アメリカのことがさらに憎くなっていきました。

父達南拓社員が当時作ったヤップの旧飛行場
つい最近まで使用されていました。
戦後使用されていた時、路面がデコボコなので、着陸時などは事故があったそうです。
1999年2月 高橋英二 撮影


旧飛行場のすぐ脇には、当時の日本軍が使用していた大砲や戦闘機の残骸が今も残っていました。
1999年2月 高橋英二 撮影


ちょっと見にくいですが、戦闘機の残骸です。おそらくゼロ戦。
1999年2月 高橋英二 撮影