延岡というまちをアーカイブ化していくには。

延岡というまちについての記憶を考えていく。

文化財の価値と信仰のはじまり。

2010-12-28 14:16:57 | 保存

職場のすぐ近くに南方古墳群(みなみかたこふんぐん)という所がある。5世紀を主体に無数の古墳が点在しており、周辺を道路が走る。国指定の標識を見ながら通勤する毎日でもある。

この古墳は、大正2(1913)年から昭和初期にかけて鳥居龍蔵が発掘調査を実施し、WW2中の昭和18(1943)年には国指定史跡になっている。この鳥居による調査、あるいは鳥居にこの遺跡を知らしめる事となった在野の研究者による調査が、地域のアイデンティフィカルな存在としてこの古墳を表象化していく重要な役割を果たす事となった点が大変興味深い。

20101123dsc_3829 例年11月末に、この古墳群のある南方地区では"古墳まつり"が催されている。史跡公園の活用という事からイベントとしてのまつりが開催される事例は全国でも多く、例えば県内の西都原古墳群でも例年、市民のまつりとして同じ11月に古墳まつりが開催されている。

20101123dsc_3837 20101123dsc_3836 だが、南方の古墳まつりはこうしたイベントではなく、祭神を祀った本来の祭の形態を今でも保っているのだ。保っているという言い方をしたが、それは新嘗祭でもなく、伝承された伝統民俗芸能が繰り広げられている訳でもない、決して古くはない祭りである。

20101123dsc_3835 大正2年、前方後円墳の後円部を削平した上に建てられた神社(天下-あもり-神社)の社殿改修時、平坦面を拡張しようと墳丘を削っていった際に石室が検出された。これを切っ掛けに鳥居らによって実施された発掘調査の結果から古墳の概要が明らかになり、この祭が始まったのだと言う。

社殿改修時の逸話が残る。石棺の覆土を剥ぎ取る際にカラスの大群が押し寄せて、作業を妨害したという話だ。このカラスがキーワードである。すなわちそれはヤタガラスに繫がり、天皇家との関係をイメージさせる。ニニギノミ コトを祀るこの神社において、キリスト教の「奇跡」のような現象が発生したというのだ。

当初は地権者が祠にお供えをしたような小さなものだったが、次第に規模が大きくなり最盛期の昭和40年代後半から50年頃には福岡あたりから客が来たり、神楽を別の地区から呼んで舞ってもらったりしていたという。古墳顕彰会は昭和50年に発足しているが、この年は文化財保護法の第2次改正が行われ、埋蔵文化財と民俗文化財の保護に大きな変化があった。詳しく調査はしていないが、もしかしたら保護法・保護条例の改正の動きを受けながら補助事業の受け皿となるべき団体を組織した可能性がある。

この時期には既に、祭りが古墳のある南方(みなみかた)地 区におけるシンボリックな存在として機能してそこそこの年月が経過しているのだ。現在、祭りの規模は以前に比べて小規模化しているが、それでも地域住民が多数参加している。

すなわちこの様相は、考古学的調査によって見出だされた文化資源が、地域社会の象徴的秩序として機能しているのではないだろうか。

実は先にはイベントと化したと書いたが、西都市の西都原古墳群のまつりは、本来はとても古い。元々は近くの三宅神社に応永年間から伝わった山稜祭であった。ところが祭りが衰退した事でこれを観光イベント化し、どちらかと言うと地域コミュニティにおける象徴性は失われてしまった状況にある。この意味で西都原古墳群の古墳祭りは、南方神社の古墳まつりとは対極にある。

20101123dsc_3857 近代の文化財保護にかかる伝説の誕生が祭りの発生を促し、地域社会における紐帯たる存在として機能してきた。一つはこのプロセスを明らかにし、もう一つは今後の文化資源を活用した地域社会の活性化とどう関連付けていくかという点で、南方古墳群の例は極めて興味深い対象であろう。

さらに面白いのは、この南方地区が、「ヤマ」と「マチ」との接点に存在するという点だ。伝統的な祭祀が現在も色濃く残る宮崎県北部山岳部における伝統的社会と、城下町以来地方都市として発展してきた延岡市街地との丁度中間に位置するムラ、旧南方村という行政区分に存在するこの古墳-神社において、近代化が進行していった過去のある時点において都市化と伝統的な地域コミュニティーの維持との間で揺れ動いた結果が、この祭りを誕生させたのではないだろうか。

そんな事を、想い巡らせている。


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2 コメント

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Unknown (ととろん)
2011-01-05 23:46:36
すごく興味深い記事ですね

先日、高鍋の持田古墳を見ながら

実は、西都原の古墳祭りならいらないな、

と、思っていたところでした

でも、南方の神楽といい、祭りといい、

現地では思いもつきませんでしたが、

考えたら、このほうが自然な発想

のような気がしてきました

何だか、少し灯りが見えてきました

高鍋、ご一緒してくださいね、是非!

誇れるものが、牡蠣と時計台しかない

なんてことないはずですから・・・
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>> ととろんさま (yamatosh)
2011-01-07 04:33:31
>> ととろんさま

長い間続いている"祭り"と、すぐに飽きられて終わってしまう"イベント"の違いって何なのかなと考えていました。

そしてそれは、伝統的な祭りに存在するカミのような象徴的な対象を祀る事によって、秩序が保持されているというメカニズムをどうやって現代においてカタチ作っていくのか、という事なんだと思います。

高鍋町ですが、先日本町から十日町辺りを歩いてきました。なかなか面白い町ですし、ポテンシャルは高いと思っております。
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