延岡というまちをアーカイブ化していくには。

延岡というまちについての記憶を考えていく。

紙面診断、11月3日。

2013-11-21 06:57:35 | 其れ以外
一つ一つを観てみるととてもいい素材なのに、それが十分生かされていない状況を様々な場面で感じる。それは横のつながりの希薄さや情報発信力の不足、さらには周囲の理解や評価される場があまりないといった側面が大きいからなのであるが、それにしてもこうした個々の素材をある観点から拾い上げ・まとめなおし、多くの人に知らしめる力の存在が、この世の中には渇望されているのではないかと思う。すなわち、キュレーションと呼ばれるこの仕事は、本来は美術館を含む博物館において使われてきた用語であり、欧米ではキュレーターと言えば学芸上級職の事を指している。

伝統的な美術評価に関する様々な問題が表面化してきた今日において、自ら主催する公募展の問題点を綿密な取材から追求した連載、「ビテンの行方 宮日美展65年目の秋に」(9月からの連載、全8回)は大変興味深い内容であった。

若年層の応募離れやマンネリ化、表現の多様化と募集内容のズレ、学校指導者の減少といった公募展をめぐる停滞要因に対して、新しい審査・募集の試みや昨今の美術展示の状況をわかりやすく紹介しながら、今後の同展やさらに内容が似ているとされる春の県美術展への一層の期待と改革を促している連載である。

そもそも価値の相対化を表現の大きなウェイトとして占めている現代美術が一般にも受容され、ビエンナーレ・トリエンナーレ方式の地域社会を巻き込んだ大規模な美術展覧会が各地で開催されるようにもなった今日においては、美術家が求めているのは変化の少ない固定的な権威からの評価ではなくなっているのではないか。連載3回目の「表現の多様化」で触れられていたように、特に公募展の場合は作品個々や決められた手法の評価になるため、観る人の共感を場の空気全体で表現しようとする作家には魅力が感じられないのだ。

評価者が求める制作者の力量もさる事ながら、制作者が求める評価者像が再考されるべきなのだろう。連載5回目「都城市美術展」において紹介されていた評論家主体の審査方法は、今後の作品評価をめぐる重要な観点を捉えている。すなわち評論家の視点は時代を捉え、この空気感の中で作品と制作者を見出す事ができる。そしてそれは、一般からは切り離されやすい美術家と社会との関係性を連結させる役割をも持っているのだ。

諸企画の谷間を縫うように開催されている宮崎県立美術館の「チャレンジギャラリー」、みやざきアートセンターの「ワンダーアートスペース」は、若手美術家の制作の場だけでなく、美術作品を観る側が必要とすべき感覚のボトムアップをも図ろうとしているようにうかがえる。だがさらに、こうした流れを継続し加速化させていくのならば、必要となってくるのは冒頭に述べたキュレーションの視点ではないだろうか。例えば全国各地の美術展覧会は美術館等の施設だけでなく、まちなかの空き店舗や空き空間を活用して開催される事例が多い。これは社会の空気観を敏感に反映させた作品を、そうした場でこそ開花させる美術家が存在するのを、展覧会をまとめるキュレーターが理解しているからに他ならないだろう。作品は場から切り離して存在してフレームに収めるものでは、もはやなくなっているのだ。


#平成25年11月3日、宮崎日日新聞に寄稿した「紙面診断」の文章を一部追加。


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