延岡というまちをアーカイブ化していくには。

延岡というまちについての記憶を考えていく。

ドキュメントとアートとアーカイブ。

2014-06-12 06:24:00 | まちづくり
特定の場所で写真サークルの展示を毎年続けて開催していて気付いたのは、土地の人々は作品の一つが市内の何処かで撮影されたものだとわかると全ての作品をドキュメント、すなわちある時空間を記録したモノとして読み取ろうとする点である。なんとか作品から時間や場所を捨て去ろうとしても、読み手はもはやそれを許してくれなくなっている。

そうなってしまうといくら面白い切り取り方をした写真を展示してみても、読み手は自分の土地への関与の経験から写真の価値を決定してしまうのである。これに対し、こうした固定化を完全には否定せず、少し違う次元にシフトさせていくという試みは結構あるだろう。全国で行われている『美少女図鑑』なんかはそうした特定の土地での価値の読み替えをやろうとしてるのが分かりやすいのだけど、さらに、古い建造物をある『聖地』としてみたてたコスプレ撮影会などというのは、この土地の価値読み替えを先鋭化したものだろう。

ドキュメントとアートの境界線を狙ってみても土地の人はどうしても「これはどこ?」という方向性に傾いてしまうのがよくわかったのが今年。写真展で小さな小さな写真を配置してその位置関係をわかるようなわからないような感じにしてみたら、人々は全体の雰囲気ではなく細部を読もうとしていた様子。

昨年の博物館実習での企画展示において、市内だがどこを撮影したものなのかを曖昧にしたまま写真を展示する事で、それがまち全体について考える事なんだという事を認識してもらおうとした展示を学生が行ったのだが、客のクレームで学生が個々の写真に場所を示すキャプションを付けてしまったのがとても残念だった。本当はそこから来場者と対話する事の必要性に気付いて欲しかったのだが。 こういうのは事前にどこまでその意図を指示するべきかしないべきか。その判断は難しいものだなと思った。

ある画家が描いた作品を読み取る時に、最初は単に作品としての素晴らしさに感情の抑揚をおぼえるものだけど、その作家の来歴を知れば知る程技法だとか制作した場所だとかに拘るようになってしまうのは、全てが善とだけ考えるべきではないのかもしれない。 そしてその側面からのみ考えてみると、アーカイブは必要ではないのかもしれない。


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