小さな旅を愉しむための情報PLUS

生活圏での小さな旅を愉しむために、暮らしの歴史に目を向けた情報発信を目指します。

矢彦神社😐😐😐「小野神社」と合同で行われる「御柱祭」が衣装の煌びやかさで語られる神社

2020-09-04 16:00:00 | 神社仏閣
国道153号線沿い、JR中央本線「小野駅」から徒歩約15分の「矢彦神社」(上伊那郡辰野町)は、かつて一つの神社だったと伝えられる隣接「信濃国二之宮」の「小野神社」(塩尻市)と同じ社叢に鎮まる「信濃国二之宮」旧社格「県社」の神社で、「上伊那郡」五十四ヶ村の総鎮守だという。
◇ ◇ ◇
創建については不詳だが、伝承にその「建御名方命(たけみなかたのみこと)」が、諏訪の土着「洩矢神(もりやのかみ/もりやしん)」のため諏訪へ進めず、この地で暫く留まったことに由緒があるともいう。
◇ ◇ ◇
両社の分割は、飯田城主「毛利秀頼(もうり ひでより)」(1541/天文10年~1593/文禄2年)と、深志城(後の「松本城」)主「石川数正(いしかわ かずまさ)」(1533/天文2年~1593/文禄2年)による領地争いに遡るという。争いは、「小野」を「南小野」と「北小野」に分割という1591(天正19)年の「豊臣秀吉」裁定で、神社も「矢彦神社」と「小野神社」に分割され、分けられた「矢彦神社」の境内は、「北小野」における「南小野」の飛び地になって現在に至ることとなった。
◇ ◇ ◇
なお、同社維持へ氏子の尽瘁が感じられる「矢彦神社」境内だが、神職非常駐の寂しさは広がる。折屈ある参拝者が増え、境内の輝きを取り戻してほしいものだ。
 ❖ 正殿・副殿・南殿・北殿  祭神は、「正殿」に「大己貴命/大国主命」と、「大国主命」「神屋楯比賣命(かむやたてひめのみこと)」の間に生まれた「建御名方命」の兄神「事代主命」、「副殿」に「大国主命」「高志沼河姫」の間に生まれた「事代主命」の弟神「建御名方命」と、その妃神「八坂刀賣命(やさかとめのみこと)」、「南殿」に「天照大神(あまてらすおおかみ)」の曾孫神で尾張氏の祖神とされる「天香語山命(あめのかごやまのみこと)」と、その妃神「熟穂屋姫命(うましほやひめのみこと)」、「北殿」に「神倭磐余彦天皇(かむやまといわれびこのすめらみこと)/神武天皇(じんむてんのう)」と、「誉田別天皇(ほむたわけのすめらみこと)/応神天皇(おうじんてんのう)」、ほかに「明治宮」に「明治天皇」が祀られる。
◇ ◇ ◇
縁起について年代は明らかでないとされているが、「社伝」では「大己貴命」の国作りにおいて、「事代主命」「建御名方命」を従え当地に立ち寄ったことに始まり、欽明天皇年間(539~571)に祭祀が整ったとされる
 ❖ 拝殿 廻廊  1987(昭和62)年、「長野県指定有形文化財(長野県宝)」に指定された「拝殿・廻廊」は、寺社建築「立川(たてかわ)流」の代表建築とされる建物だ。「諏訪大社下社秋宮」の社殿建築において、競合する「大隅(おおすみ)流」を圧倒する評判を得た「立川流」棟梁の初代「立川和四郎冨棟(たてかわ わしろう とみむね)」(1744/延享元年~1807/文化4年)によって、1782(天明2)年に完成したという。
◇ ◇ ◇
木地のままの材でつくる「白木造り/素木造り(しらきづくり)」、屋根最上部の大棟から両側へ斜めに葺き下ろす屋根の形式「切妻造り(きりづまづくり)」、「銅板葺き」で、「三つ巴」紋の幕が張られ、多くの彫刻装飾を見る拝殿は、棟木と直角の面の「妻」ではなく平行の面の「平」に入口のある建物「平入り(ひらいり)」、正面は軒先の三角形部分に装飾としてつけられた中央部が凸形、左右両端が凹形に反り返った曲線状の造形「軒唐破風(のきからはふ)」で、廻廊の前面は壁がなく内部空間が外部に開放されている「吹放ち(ふきはなち)」になっており、「諏訪大社」に類同する社殿だ。
 ❖ 神楽殿  1987(昭和62)年、「長野県指定有形文化財(長野県宝)」に指定された「神楽殿」は、「諏訪大社下社秋宮」の社殿建築において、競合する「大隅流」を圧倒する評判を得た「立川流」棟梁「立川和四郎冨棟(たてかわ わしろう とみむね)」(1744/延享元年~1807/文化4年)の子どもで、二代「立川和四郎冨昌(たてかわ わしろう とみまさ)」(1782/天明2年~1856/安政3年)によって1842(天保13)年に完成したという。「立川和四郎冨昌」は、卓越した彫刻技術により、単なる装飾彫刻を芸術性高い彫刻へ押し上げたと言われる棟梁で、この「神楽殿」も「立川流」の代表的建築に数えられるという。
◇ ◇ ◇
「切妻造り(きりづまづくり)」で、棟木と直角の面を「妻」平行の面を「平」といい、「妻」に入口のある建物「妻入り(つまいり)」「銅板葺き」の見事な社殿だ。
 ❖ 勅使殿  「神楽殿」後面で「拝殿」手前に位置する「勅使殿」は、674(白鳳2)年の「天武天皇(てんむてんのう)」(不詳~686/朱鳥元年)勅使下向を受けて造営されたのが始まりだと伝えられるが、「切妻造」「平入」「白木造/素木造」「銅板葺」の現存する同殿は、江戸中期の完成で、1987(昭和62)年に「長野県指定有形文化財(長野県宝)」の指定を受けた社殿だ。
 ❖ 御柱  周知「諏訪大社」の「御柱祭」は、寅と申の年の七年に一度行われるが、ここ上伊那の総鎮守と呼ばれる「矢彦神社」の「御柱祭」は、隣接の東筑摩の総鎮守と呼ばれる「小野神社」とともに、翌年の卯と酉の年に行われている
◇ ◇ ◇
社伝によれば、第38代「天智天皇(てんぢてんのう)」(626/推古天皇34年~672/天智天皇10年)弟で、672年「壬申の乱」において第39代「弘文天皇(こうぶんてんのう)」(648/大化4年~672/天武天皇元年)を倒し、翌年即位した第40代「天武天皇」の時代の674(白鳳2)年に、勅使下向を受けて、御遷宮と御柱祭を七年に一度の式年祭として行うことに定められたという。
◇ ◇ ◇
かつて「人を見るなら諏訪御柱、綺羅(きら/華やかで美しいこと)を見るなら小野御柱」と、その煌びやかな衣装が両社の「御柱祭」として語られたと伝わる。

 ❖ 阿像(獅子) 吽像(狛犬)  「獅子と狛犬」は、神聖な場所を邪気から守る役割をもつという空想上の守護獣像で、向かって右の角がなく開口するのが「阿(あ)像」の「獅子」、左の角があって(簡略化され角がないものも多い)口を結ぶのが「吽(うん)像」の「狛犬(こまいぬ)」だ。現在は「獅子と狛犬」という呼称が、魔除けのために置かれる像「拒魔犬(こまいぬ)」から、単に「狛犬」という言い方で定着して来ているという。
◇ ◇ ◇
起源は古代オリエントの「スフィンクス」まで遡り、ガンダーラを経由して中国に入り、遣唐使が我国に持ち帰って、寺院山門の仁王像の影響を受けながら、平安時代までに対の獅子像が「獅子と狛犬」という独自の「阿吽」形式に変ったのではないかとも言われている。
◇ ◇ ◇
神社によっては、著名彫刻家による作品に出会うこともある「獅子と狛犬」だが、その意匠が通俗の範疇になる石製も多い。しかし、この「獅子と狛犬」は愛敬があり、そういうことで言えば石製でありながら、他にあまり類を見ない印象に残る個性を持っている。ちなみに沖縄の「シーサー」は、「獅子」を沖縄語で発音した伝説の獣で、災厄をもたらす悪霊を追い払う魔除けとされている。

小野神社😐😐😐かつて一つの神社だったと伝えられる「矢彦神社」に隣接し同じ社叢に鎮まる神社

2020-09-02 20:00:00 | 神社仏閣
国道153号線沿い、JR中央本線「小野駅」から徒歩約15分の「信濃国二之宮」の「小野神社」(塩尻市)は、かつて一つの神社だったと伝えられる隣接「矢彦神社」(上伊那郡辰野町)と、同じ社叢に鎮まる旧社格「県社」の神社だ。
◇ ◇ ◇
創建については不詳だが、「建御名方命(たけみなかたのかみ)」が、諏訪の土着「洩矢神(もりやのかみ/もりやしん)」のため諏訪へ進めず、この地で暫く留まったことが由緒だという伝承がある。
◇ ◇ ◇
両社の分割は、深志城(後の「松本城」)主「石川数正(いしかわ かずまさ)」(1533/天文2年~1593/文禄2年)と飯田城主「毛利秀頼(もうり ひでより)」(1541/天文10年~1593/文禄2年)による領地争いに遡るという。争いは1591(天正19)年、「小野」を「北小野」と「南小野」に分割という「豊臣秀吉」の裁定で、神社も「小野神社」と「矢彦神社」に分割されたという。分けられた「矢彦神社」境内は、「北小野」での「南小野」の飛び地になって現在に至っている。
◇ ◇ ◇
「小野神社」社殿は1672(寛文12)年の焼失を受け、松本藩主「水野直忠(みずの ただなお)」(1652/慶安5年~1713/正徳3年)により再建されたが、「御柱祭」に際して遷座するため、「一間社流造(いっけんしゃ ながれづくり)」の同規模の本殿二棟が建てられている。その「本殿」に並列する「一間社流造」の「八幡宮本殿」と、「本殿」前方中央に「切妻造(きりづまづくり)」「四脚門(よつあしもん/しきゃくもん)」の「勅使殿(ちょくしでん)」が位置している。
◇ ◇ ◇
なお「御柱祭」は、寅年と申年の「諏訪大社」の「御柱祭」翌年に、両社合同で行われるが、「人を見るなら諏訪御柱、綺羅を見るなら小野御柱」と、その煌びやかな衣装が現在でも語られる。
 ❖ 本殿 副本殿 八幡宮本殿 勅使殿  主祭神は、「古事記」において「大国主命(おおくにぬしのみこと)」の御子神で、「事代主命(ことしろぬしのみこと)」の弟神とされ、「諏訪大社」主祭神でもある「建御名方命(たけみなかたのみこと)」だ。
◇ ◇ ◇
社殿は焼失した1672(寛文12)年に、松本藩の第3代藩主「水野忠直」により再建・寄進されている。水野家大工頭「中村四郎右衛門」らによる造営は、右「八幡宮本殿」中央「本殿」左「副本殿」の三棟が、母屋正面の柱間が一つの社殿「一間社(いっけんしゃ)」、屋根の前が長く伸びて向拝を覆い庇と母屋を同じ流れで葺く建築形式「流れ造り(ながれづくり)」、屋根を木の薄板で葺く「杮葺(こけらぶき)」(現在は銅板葺)だ。手前中央「勅使殿」一棟は、屋根最上部の大棟から両側へ斜めに葺き下ろす屋根の形式「切妻造り(きりづまづくり)」、2本の本柱の前後に2本ずつ4本の柱がある「四脚門(よつあしもん/しきゃくもん)」、「杮葺」(現在は銅板葺)で、何れも1992(平成4)年に長野県宝に指定されているという。
 ❖ 拝殿  左右に廻廊を備えた「拝殿」は、「本殿」を奥に控えて中央に、神道の祭祀に用いられる幣帛の一種「御幣(ごへい)」を納める。張られる幕は、松本藩主だった水野家の家紋「丸に沢瀉(おもだか)」を標し、粛然たる社殿に華を添える存在となっている。
 ❖ 神楽殿  「拝殿」手前右にある建物が「神楽殿(かぐらでん)」だ。「神楽殿」とは、神の来臨や神託を願い、神と人々が酒食をともにして歌舞する鎮魂呪術と、このとき行われる神事芸能「神楽」を奏するために、神社境内に設けた建物を言う。
 ❖ 鐘楼  境内の「鐘楼」は、「武田信玄」次子で、諏訪氏を継いで「高遠城主」となるも、信玄の没後家督を相続した「武田勝頼(たけだ かつより)」(1546/天文15年~1582/天正10年)が、戦勝祈願で1564(永禄7)年に寄進した梵鐘を納めるため造られたという。
◇ ◇ ◇
現地掲示に、梵鐘は「青銅製、周五尺二寸、丈三尺」で、鐘銘について「刻字は針刻で浅く、細い楷書で、その書体は素朴で美しい。文章も立派であるといわれ、この文中に武田勝頼の寄進した鐘であることが記されている。」と案内される。なお、梵鐘は1974(昭和49)年「塩尻市指定文化財」に指定されている。
 ❖ 境内摂末社(稲荷社 など)  「拝殿」に向かって手前左に境内社の摂末社が、左から「天神社(てんじんしゃ)」「宗像社(むなかたしゃ)」「子安社(こやすしゃ)」「稲荷社(いなりしゃ)」の順に並ぶ。
◇ ◇ ◇
「天神社」は、天界の神霊「天津(『つ』は古語で所属・位置を表す語)神」を祀る御霊信仰として始まったという。「菅原道真(すがわらのみちざね)」の憤死後、その怨霊を鎮める信仰と結びつき、やがて学問の神として崇める信仰になって広まったという。「菅原道真」とは関係がない神社もあって、「あまつかむやしろ」の読みもある。
◇ ◇ ◇
「宗像社」は、旧社格「官幣大社」の「宗像大社(むなかたたいしゃ)」を総本社とする「多紀理毘賣命(たきりびめのみこと)」「市寸島比賣命(いちきしまひめのみこと)」「多岐都比賣命(たぎつひめのみこと)」の「宗像三女神(むなかたさんじょしん)」を祀る海上交通の守護神として信仰されて来たが、現在は陸上交通安全の神としても信仰されている。
◇ ◇ ◇
「子安社」は、「天照大神」の孫「瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)」の妻で、神話の中でもとりわけ美しいと語られる女神「木花之開耶姫(このはなのさくやびめ)」を祭神とする安産子育ての信仰の神社だが、現在は「子安観音」「子安地蔵」などの信仰と結びついたものが多い。
◇ ◇ ◇
「稲荷社」は、稲を象徴する穀物・農耕の神だが、現在は商工業の神としても信仰されている。

諏訪大社下社春宮 境内社(摂社 末社)😐😐😐境内社に安産祈願と子授けの信仰の「子安社」がある神社

2020-09-01 12:00:00 | 神社仏閣
「諏訪大社下社秋宮(すわたいしゃ しもしゃ あきみや)」から徒歩約20分、西に「砥川(とがわ)」が流れる「下諏訪町大門」で、「下社」最初の遷座地とされる地に鎮まるのが「諏訪大社下社春宮(すわたいしゃ しもしゃ はるみや)」だ。
◇ ◇ ◇
社殿は、地元宮大工の大隅流「柴宮/伊藤長左衛門矩重(のりしげ)」(1747/延享4年~1800/寛政12年)が「春宮」を、立川流初代「立川和四郎(たてかわわしろう)富棟(とみむね)」(1744/延享元年~1807/文化4年)が「秋宮」を、同じ図面で請け負って、技を競ったといわれる。
◇ ◇ ◇
「杉の木」を御神木とする「春宮」の主祭神は、神話「国譲り」で「建御雷神(たけみかづちのかみ)/建御雷之男神(たけみかづちのおのかみ)」に敗れて、「州羽の海」に逃げたとされる「大国主神(おおくにぬしのかみ)」次子「建御名方神(たけみなかたのかみ)」の妃神「八坂刀賣神(やさかとめのかみ)」だが、「大国主神」長子で出雲系の神でありながら、娘が「神武天皇」皇后となって大和朝廷との縁が深い神「八重事代主神(やえことしろぬしのかみ)」が合祀されている。
◇ ◇ ◇
その「下社」の祭神は、2月から7月まで「春宮」に鎮まり、8月1日の「御舟祭(おふねまつり)」で「秋宮」に遷座して、翌年2月1日「遷座祭」で再び「春宮」に帰座するという半年ごとに遷座する神だ。
◇ ◇ ◇
「下社春宮」の境内社には、本社の祭神に縁故深い神を祀り、本社と末社の中間に位する枝宮「摂社」と、本社に付属し摂社に次ぐ社格を持つ枝宮「末社」が設けられている。
 ❖ 若宮社  「神楽殿」右脇「上諏訪社」隣に境内社の摂社「若宮社(わかみやしゃ)」がある。「お諏訪さま/建御名方神」の御子神十三柱「建御名方彦神別命(たけみなかたひこがみわけのみこと)」「伊豆早雄命(いづはやをのみこと)」「妻科比賣命(つましなひめのみこと)」「池生神(いけのおのかみ)」「須波若彦神(すわわかひこのかみ)」「片倉辺命(かたくらべのみこと)」「蓼科神(たてしなのかみ)」「八杵命(やきねのみこと)」「内県神(うちあがたのかみ)」「外県神(そとあがたのかみ)」「大県神(おほあがたのかみ)」「意岐萩命(おきはぎのみこと)」「妻岐萩命(つまぎはぎのみこと)」を祀り、例祭日が7月1日と毎月1日だという。
 ❖ 上諏訪社  「神楽殿」へ向かって右脇に、境内社の末社「上諏訪社(かみすわしゃ)」がある。「上の諏訪」すなわち「上社の祭神」を祀る社で、祭神は「諏訪大社上社」主祭神の「建御名方神(たけみなかたのかみ)」で、例祭は7月15日に行われる。
 ❖ 子安社  「神楽殿」左脇で「筒粥殿」右隣に、境内社の末社「子安社(こやすしゃ)」がある。祭神の「高志沼河姫(こしのぬなかはひめ)」は、「建御名方神(たけみなかたのかみ)」母神だが、新潟県糸魚川市では、「大国主神」と越の国の「沼河比賣(ぬなかわひめ)」との間に生まれた「建御名方神」が、「姫川」をさかのぼって諏訪に入ったとの伝承が残っているという。
◇ ◇ ◇
同社の例祭日は、6月22日だが、妊娠5ヶ月目の戌の日に、底の抜けた柄杓を奉納して、水が簡単に抜ける柄杓にあやかってお産も楽にという安産祈願と、健康な子どもの誕生を祈るという祠だ。もとより「お諏訪さま/建御名方神」は、十三柱(資料によっては最大二十三柱)の御子神をもうけたとされ、古くから子授けの信仰がある神社で、「上社本宮」と「下社秋宮」で午前9時から午後4時まで、祈祷を受け付けているという。 ❖ 浮島社  「万治の石仏」へ向かう中途、「下社春宮」西の脇を流れる「砥川(とがわ)」で、砂州ではなく岩でできている中島に、「諏訪大社下社春宮」末社「浮島社(うきしましゃ)」が鎮まる。
◇ ◇ ◇
「大水でも流されない」と「下社七不思議」の一つとして語り継がれているという祠の祭神は、神道における「祓(はらえ/はらい)」を司る神で、祓を行う「祓戸(はらえど)/祓所(はらえど)/祓殿(はらえどの)」に祀られる神「祓戸大神(はらえどのおおかみ)」だ。6月30日には例祭「浮島社祭」とともに大祓式「夏越神事(なごしのしんじ)」「茅輪(ちのわ)くぐり」がここで行われる。
◇ ◇ ◇
かつて鎌倉武士が、御射山の祭典に参列する時、この「砥川」で身を清め、八島高原へ登ったとも伝えられている。