小さな旅を愉しむための情報PLUS

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大御食神社😐😐😐神代文字による「神代文字社伝記」を社宝として伝える神社

2020-09-15 18:00:00 | 神社仏閣

中央自動車道「駒ヶ根インターチェンジ」から車約10分の「美女ヶ森(びじょうがもり)」と通称される「大御食神社(おおみけじんじゃ)」は、神代文字による「神代文字社伝記(じんだいもじしゃでんき)」を社宝として伝える旧社格「郷社」で、「献幣使(けんぺいし)参向(さんこう)指定神社」だ。
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その由緒は、第12代「景行天皇(けいこうてんのう)」の皇子で、九州「熊襲(くまそ)」東国「蝦夷(えぞ)」の征伐を行ったという記紀伝説の英雄「日本武尊(やまとたけるのみこと)」(「古事記」では「倭建命」)東征の帰途、当処で饗応した里長「赤須彦」が、118(景行天皇48/皇紀778)年に「日本武尊」を祀り、「大御食ノ社(おおみけのやしろ)」と名付けたことに始まるという。「清々しく弥栄えて丈高く奇杉なり」と愛でた大杉の元で、「日本武尊」は酒餞の饗応を受けたとされ、以来「御蔭杉」と称す御神木として、現在まで3代にわたって植え継がれて来ているという。
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地元が「美女ヶ森」と呼ぶ所以は、「日本武尊」が東征の帰途尾張で娶った「宮簀姫(みやずひめ)」(「古事記」では「美夜受比賣」「五郎姫」とも)を、307(応神天皇38/皇紀967)年に迎えて祀ったことによるという。さらに879(元慶3)年には、「応神天皇」の諡号で武運の神とされる「誉田別尊(ほんだわけのみこと)/八幡大神(ハチマンダイジン/ヤハタノオオカミ)」を、山城国より迎えて合祀しているという。
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9月第3日曜日には、旧赤須村の9行政区を5年番区に編成して、獅子練りが大規模に行われる例大祭がある。なお、柳田國男「一目小僧その他」(昭和9年7月 小山書店)に、「上伊那郡赤穂の美女森の社の神を五郎姫神といひ、即ち日本武尊に侍かれた熱田の宮簀姫の御事だと申してゐるが、これなどは姫神を五郎といふので殊に珍しく感ぜられる。」の記述がある。
 ❖ 拝殿  現在の「拝殿」は、「平之内大隅守(へいのうち おおすみのかみ)」がおこした流派で、神社仏閣などの楼閣建築を飾る装飾彫刻の宮彫を流派として最初に完成させ、「日光東照宮」「湯島聖堂」などの造営にあたったという「大隅流」の棟梁「小口平助」により、1923(大正12)年10月22日に竣工したという。1911(明治44)年辛亥改築のものと、構造様式は凡そ同じと記録されているという。現地に「流し造入母屋、唐破風御拝入母屋、千鳥破風、間口二十九尺七寸六分、奥行二十三尺五寸二分」の案内がある。
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なお、宮大工集団として並び立つ「江戸立川流」は、大隅流から分かれた流派で、のち幕府御用になったという。

 ❖ 本殿  1733(享保18)年癸丑6月造営、1748(寛延元)年戊辰10月改築遷営された「本殿」は、さらに1864(元治元)年甲子10月に改築遷営されて、現在に至っているという。
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間口が4.2メートルの母屋正面に、4本の柱を用いて柱間が三つある「三間社(さんげんしゃ)」、屋根の前が長く伸びて向拝を覆い庇と母屋を同じ流れで葺く「流造(ながれづくり)」で、現在は「銅版葺」だが、元は屋根を木の薄板で葺く「杮葺(こけらぶき)」、軒の一部について中央部は弓形で両端が反り返った曲線状の屋根「軒唐破風(のきからはふ)」の社殿だが、2011(平成23)年12月27日「駒ヶ根市有形文化財」に指定されているという。
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見るべきものとして、正面や繋ぎに立川流による彫刻があるが、建物造営の由緒などを記して棟木に打ち付ける木札「棟札(むなふだ)」は、1枚に1863(文久3)年9月の「釿始め」が、もう1枚には1864(元治元)年4月の「地鎮祭」が、記録されているという。その「大工キソ斉藤常吉 彫工下スワ立木音四郎」の記述から、「諏訪大社下社秋宮」の社殿建築により、競合する「大隅流」を圧倒する評判を得た「立川流」棟梁「立川和四郎冨棟(たてかわ わしろう とみむね)」の子どもで、卓越した彫刻技術により、単なる装飾彫刻を芸術性高い彫刻へ押し上げたといわれる「立川和四郎冨昌(たてかわ わしろう とみまさ)」の高弟「斎藤常吉英知(さいとう つねきち ひでとも)」が大工棟梁、同じく弟子の「立木音四郎種清(たつぎ おとしろう たねきよ)」が彫工で上棟したことが確かめられるという。
 ❖ 神饌殿  「拝殿」奥の左手にある檜造りの建物が、間口十一尺六寸、奥行八尺三寸の「神饌(しんせん)所」だ。「御饌(みけ)/御贄(みにえ)」とも言われる神前に供える供物「神饌」を、調理し格納する所をいう語が「神饌所」だが、天皇と皇后の写真「御真影」と、「教育勅語」などを納めていた太平洋戦争までの「赤穂小学校」の建物「奉安殿(ほうあんでん)」として、大隅流の棟梁「小口平助」が、1926(大正15)年に造営したものを、戦後の1947(昭和22)年に「神饌所」として移築した社殿だという。
 ❖ 神楽殿  「拝殿」手前で右手奥にある社殿が「神楽殿(かぐらでん)」で、神の来臨や神託を願って、神と人が酒食をともにし、歌舞する鎮魂呪術と、この時行われる神事芸能をいう「神楽」を奏するために、神社の境内に設けた社殿をいう。1920(大正9)年に旧「拝殿」を改造し「神楽殿」としたが、2009(平成21)年に現在の「神楽殿」に改築したという境内で最も新しい建物だ。
 ❖ 御神木 御蔭杉  「日本武尊」(「古事記」では「倭建命」)東征の帰路の112(景行天皇42)年、里長「赤須彦」が杉の大樹の元に仮宮を設けて、酒饌を饗したというその杉について、現地で「『尊 大いに悦ばれ この杉の樹蔭 清々しく弥栄えて丈高く 奇杉なりと愛で給ひぬ 以後 この杉を御蔭杉と称せし』と社宝『神代文字社伝記』に記述される」と案内される。
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しかし、204(神功皇后4)年春に枯れて、翌年春に中枝の大虚に実生の杉の植継を行ったとされ、さらに856(斉衡3)年5月に枯れて、858(天安2)年春に再び植継を行って現在に至ると伝えられている。3代目だが伝「樹齢千百余年」というみごとな大樹だ。
 ❖ 二木社  境内社「二木社/日本岐社」の祭神は、天地開闢時に最初に現れた神で「造化三神(ぞうかさんしん)」のひとり「天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)」と「清和源氏」の祖となった平安中期の武将「六孫王経基(ろくそんおうつねもと)」だ。
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さらに境内社としてミシャクジ信仰に端を発したものが多いと言われる「社宮司社(しゃぐうじしゃ)」のほか「神若衆社」「甲子社」「齊殿社」「清和荒神社」が祀られる。
 ❖ 天神地祇  境内の「覆屋(おおいや)/鞘堂(さやどう)」に「天神地祇(てんじんちぎ)」額が架かる。その「天神地祇」とは、天界「高天原(たかまがはら)」に属する神とその子孫をいう「天津神/天つ神(あまつかみ)」(「つ」は古語で所属・位置を表す語)と、記紀神話で「天照大神(あまてらすおおみかみ)」の命を受けた「瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)」が、記紀神話での地上界であり我が国の古称である「葦原中国(あしはらのなかつくに)」を治めるため、「高天原」から「日向国(ひゅうがのくに)」の「高千穂峰(たかちほのみね)」に天降ったことをいう「天孫降臨(てんそんこうりん)」の以前から、「葦原中国」を治めていた土着の神「国津神/国つ神」とをいう。
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「天神」は「天照大神」「素戔嗚尊(すさのおのもこと)」など、「地祇」は「大物主神(おおものぬしのかみ)」「猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)」などをさし、「天神地祇」ですべての神々を言う。

子安神社😐😐😐底の抜けた柄杓を奉納し安産祈願と健康な子どもの誕生を祈るという神社

2020-09-13 14:00:00 | 神社仏閣

「諏訪大社上社前宮」から徒歩約5分、「諏訪大社上社本宮」から徒歩約20分/車約5分の「茅野市宮川」にある「子安神社(こやすじんゃ)」は、古くから縁結び・安産・子育ての守護神として「お子安様」と親しまれて来た「諏訪大社上社前宮」の末社だ。
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全国に鎮まる「子安神社」は、神話の中でもとりわけ美しいとされる女神で、「天照大神」の孫「瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)」の妃神「木花之開耶姫(このはなのさくやびめ)/木花之佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)/木花咲弥姫命(このはさくやひめのみこと)」を祭神とする安産子育ての信仰の神社だが、ここ「諏訪大社」末社の「子安神社」は、「諏訪大社」主祭神「建御名方神(たけみなかたのかみ)」の母神「沼河比賣神(ぬなかわひめのかみ)/高志沼河比賣命(こしのぬなかわひめのみこと)」が祭神だ。
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同社の例祭日は、12月22日だが、妊娠5ヶ月目の戌の日に、祈祷に続いて底の抜けた柄杓を奉納し、水が軽く抜ける柄杓にあやかって楽なお産が出来るようにとの安産祈願と、健康な子どもの誕生を祈るという社だ。もとより「お諏訪さま/建御名方神」は、十三柱(資料によっては最大二十三柱)の御子神をもうけたとされ、古くから子授けの信仰がある神社で、「上社本宮」と「下社秋宮」で午前9時から午後4時まで、祈祷を受け付けているという。
〈補記1〉 新潟県糸魚川市では、「大国主神」と「越(古志/高志とも)の国」(古代の北陸地方の国名)の「沼河比賣/高志沼河比賣」との間に生まれた「建御名方神」が、「姫川」をさかのぼって諏訪に入ったとの伝承が残っているという。
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〈補記2〉 「古事記」で「神阿多都比売(かむあたつひめ)/木花之佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)」、「日本書紀」で「神吾田鹿葦津姫(かむあたかあしつひめ)/木花開耶姫(このはなのさくやびめ)」と記されて、神話に登場する国津神「大山津見神/大山祇神(おおやまつみのかみ)」の娘は、皇祖神「天照大神(あまてらすおおかみ)」の孫[「瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)」の妻だ。第1子が「海幸彦(うみさちひこ)」として知られる「火照命(ほでりのみこと)」で、第2子は「山幸彦(やまさちひこ)」として知られる「火遠理命(ほおりのみこと)」で、初代天皇「神武天皇(じんむてんのう)」の祖父になる。神話の中でもとりわけ美しいとされる女神「木花之佐久夜毘売」を妻とすれば、桜とされる木の花が咲くように咲き栄えるが、御子の命は木の花のようにはかなく、故に子孫となる天皇の命は神々ほどに長くはなく儚いと語られる。

洩矢神社😐😐😐上海アリス幻樂団制作「東方風神録」のモデルとして聖地の一つになっている神社

2020-09-11 17:00:00 | 神社仏閣

JR中央本線「岡谷駅」から徒歩約15分、長野自動車道「岡谷インターチェンジ」から車約15分の「旧橋原村」(現在の「岡谷市川岸」)にある「洩矢神社(もりやじんじゃ)」は、土着神「洩矢神(もりやのかみ/もりやしん)」と、「建御名方神(たけみなかたのかみ)」の異名ともされる「藤島明神」を祭神とする旧社格「村社」の神社だ。
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地域の伝承では、「古事記」の説話「国譲り(くにゆずり)」において、力競べに敗れた「大国主神(おおくにぬしのかみ)」次子「建御名方神」率いる出雲系稲作民族が、諏訪へ進出したので、「洩矢神」を長とする狩猟系先住民族は、「天竜川」辺り(他説に「諏訪大社上社本宮」周辺の「守屋山」麓とも)で対峙したという。当時、「天竜川」辺りにあったそれぞれの陣地跡が、「岡谷市川岸」にある「洩矢神社」と「藤島神社」だったと伝えられている。
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凌駕された狩猟系先住民族は、共棲の道を選ぶことになり、「洩矢神」子孫「守矢氏」は世襲神職「神長官(じんちょうかん)」として「建御名方神」子孫で神霊が宿る対象「依代(よりしろ)」とされる世襲神職「大祝(おおほうり)」の「諏訪氏」、1601(慶長6)年の祭政分離後は「諏方(すわ)氏」(惣領家が「諏訪氏」を名乗った)に仕えることになったのが顛末だという。

 ❖ 阿像(獅子)吽像(狛犬)  神聖な場所を邪気から守る役割をもつという空想上の守護獣像で、向かって右の角がなく開口するのが「阿(あ)像」の「獅子」、左の角があって(簡略化され角がないものも多い)口を結ぶのが「吽(うん)像」の「狛犬(こまいぬ)」だ。現在は「獅子と狛犬」という呼称が、魔除けのために置かれる像「拒魔犬(こまいぬ)」から、「狛犬」という言い方で定着して来ているという。
〈追記〉 上海アリス幻樂団「東方風神録(とうほうふうじんろく)」で、「東風谷早苗(こちや さなえ)」「八坂神奈子(やさか かなこ)」「洩矢諏訪子(もりや すわこ)」の住む「守矢神社」のモデルとして聖地の一つになっているというが、作者「ZUN氏」は聖地巡礼するファンに「派手なことをして地元民に嫌われないようにしてほしい」と、節度をわきまえるようにコメントしているという。

尖石遺跡 与助尾根遺跡🙂😐😐縄文時代の遺跡としては全国で四ヶ所に限られる「特別史跡」の指定を受けている集落遺跡

2020-09-08 20:00:00 | 史跡

「八ヶ岳」西側山麓の扇状台地を割る沢を挟んで、隣接する南側「尖石(とがりいし)遺跡」と、6棟の竪穴式住居が復元される北側「与助尾根(よすけおね)遺跡」は、約5,000年~4,000年前とされる「縄文時代中期」の竪穴住居の跡が200ヶ所以上発掘されている集落遺跡だ。
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「縄文時代」とそれ以前の「旧石器時代(きゅうせっきじだい)」を分けるものは、「土器」の存在だと言われているが、土器が発明され約13,000年前に始まったとされる「縄文時代」は、寒暖差の激しい期間を経て、約2,300年前まで約1万余年続き、稲作と金属器使用の「弥生時代」へと続くことになる。
 ❖ 尖石遺跡  中央自動車道「諏訪インターチェンジ」から車約20分、「茅野市豊平」にある「尖石遺跡」は、我が国を代表する縄文時代の遺跡だ。
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その「尖石遺跡」への注目は、「湖東村」(現在の「茅野市」)で生まれ、「東京高等師範学校」で、我が国初の人類学者「坪井正五郎(つぼい しょうごろう)」(1863/文久3年~1931/大正2年)に考古学を学んだ「小平小平治(こだいら こへいじ)」( ~1895/明治28年)が、1891(明治24)年「東京人類学会雑誌」誌上で初めて「広見の遺跡」として現在の「尖石遺跡」を紹介し、1893(明治26)年に学会へ報告したことに始まるという。
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1928(昭和3)年、東京で開催された「石器時代文化展覧会」において「龍谷文庫」(「小平小平治」のコレクション)に興味を持った「伏見宮博英王(ふしみのみや ひろひで おう)殿下」が翌年発掘を行って、「尖石遺跡」の発掘調査が始まったという。
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本格的な発掘調査に取り組んだのは、「豊平村」(現在の「茅野市」)出身の考古学者「宮坂英弌(みやさか ふさかず)」(1887/明治20年~1975/昭和50年)で、1930(昭和5)年から独力で発掘を始めて、1952(昭和27)年まで続けたという。
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日本で最初の縄文時代の集落の存在が確認されたという同遺跡は、1942(昭和17)年に「尖石石器時代遺跡」の名称で国の「史跡」に指定され、1952(昭和27)年には国の「特別史跡」を受けたという。「特別史跡」とは、学術上の価値が特に高いとされる「史跡」で、縄文時代の遺跡はここ「尖石石器時代遺跡」と、「三内丸山遺跡」(青森県青森市)「大湯環状列石」(秋田県鹿角市)「加曽利貝塚」(千葉県千葉市)の四ヶ所に限られている。
   ❖ 尖石  遺跡の南斜面に住民から「とがりいしさま」と呼ばれる三角錐状の先端が尖った石がある。高さ約1メートルのこの石は、古くからの信仰対象らしく祠も祀られているが、「尖石遺跡」の名前の由来になった石だという。
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現地に「この一帯は、明治25年頃桑畑にするために開墾され、その時見馴れない土器や石器が多量に出土しましたが、祟りを恐れて捨ててしまったといわれています。」「この『とがり石』の下には宝物がかくされているとの言い伝えから、ある時こっそり村人が掘ったところ、その夜立ちどころにおこり(熱病)にかかって死んでしまったとのことです。この石を神聖視する信仰から生じた言い伝えでしょう。」と案内される。
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また、「八ヶ岳の墳出岩(ママ)の安山岩で」「右肩の桶状の凹みは磨り痕から人工のものと思われます。縄文時代に磨製石斧を製作した際に、共同砥石に使用されたものとも、また縄文時代には石を重要な利器としたところから、地中から突き出したこの石を祭祀の対象としたものであろうともいわれています。」と続けられている。
 ❖ 与助尾根遺跡  「尖石遺跡」から「茅野市尖石縄文考古館」経て徒歩約5分にある「与助尾根遺跡」は、開墾中の1935(昭和10)年に、ほとんど手つかずのままで、その存在が発見されたという。
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1946(昭和21)年には、「尖石遺跡」の本格的発掘に取り組んでいた「宮坂英弌」が、縄文時代の集落全体を発掘する目的で、「与助尾根遺跡」の調査に取り掛かり、その全容がほぼ解明されて、縄文時代の集落研究の出発点となったという。
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現在の竪穴式住居6棟は、同時に建っていた可能性のある6棟で、当時の集落のようすを感じることの出来る復元だという。なお1993(平成5)年には、国の「特別史跡」の「尖石石器時代遺跡」に、「与助尾根遺跡」が追加指定されている


 ❖ 茅野市尖石縄文考古館  「豊平村」(現在の「茅野市」)出身の考古学者「宮坂英弌」を初代館長に、「茅野市尖石考古館」として1955(昭和30)年に開館し、2000(平成12)年に至って新装再開館した考古博物館だ。
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同館は、「八ヶ岳」西側山麓に広がる我が国屈指の縄文遺跡群の出土品を中心とした考古学資料を展示しているが、主な展示品では土偶で通称「縄文のビーナス」「仮面の女神」や、土器「蛇体把手付深鉢」「蛇殻状突起付深鉢」「有孔鍔付土器」などが知られている。
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市内最大規模の「棚畑(たなばたけ)遺跡」(茅野市米沢埴原田)から、1986(昭和61)年に出土した「縄文のビーナス」は、遺跡の中央部から寝かせるような状態で、完全な形で出土したという。切れ長のつり上がった目などに縄文時代中期の土偶特有の顔を見せ、張り出した腹部と臀部が妊娠した女性を思わせると言われているが、同土偶は1995(平成7)年に、縄文時代の遺跡からの出土品として、初めての「国宝」に指定された
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「中ッ原(なかっぱら)遺跡」(茅野市湖東山口)から、2000(平成12)年に出土した大型土偶で、中が空洞の中空土偶「仮面の女神」は、約4,000年前の縄文時代後期前半に作られたとされる。遺跡の墓が集中する場所から、人為的に右足を胴体から外された状態で出土したというが、顔面が逆三角形の仮面がつけられた表現になっている土偶で、2014(平成26)年に同館2点目の「国宝」に指定された
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「土偶」は約11,000年前に登場したと考えられているが、女性を表現したものが圧倒的に多く、「縄文時代中期」以降、顔や妊娠を表現するものになってきたという。多く壊れた状態で出土し、小さいものはより壊れていると言われる「土偶」だが、精霊が宿るとして儀式に用いられ、壊すことで儀式が完遂した、あるいは怪我や病の治癒を祈って同じ部位を壊した、壊した土偶を台地に撒いて豊穣を願ったなど、諸説あるという。
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他に、土器の縁に口を開いた蛇体が塑造加飾され、器面に縄文がつけられた深鉢形縄文土器「蛇体把手付深鉢」など、尖石遺跡を代表する土器をはじめとして見るべきものは多い
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なお、同館の開館時間は、09:00~17:00(入館は16:30まで)で、月曜日(祝日の場合は翌日)と年末年始が休館となる。臨時休館や企画展などへの所蔵資料貸出もあるので、開館や展示などについては、HPあるいは電話で情報確認をしてから訪問するのが良いだろう。




井戸尻遺跡😐😐😐我が国を代表する縄文時代中期の遺跡群における遺跡

2020-09-06 22:00:00 | 史跡

中央自動車道「小淵沢インターチェンジ」から車約12分、「長野県富士見町境」にあって、約7,000年前の縄文時代早期に始まり、約5,000年~4,000年前の縄文時代中期に最も栄えたとされる集落遺跡が「井戸尻(いどじり)遺跡」だ。
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中小の河川が放射状に流れる八ケ岳の南麓、海抜800m~1000mの尾根や台地上に立地する一帯は、「井戸尻」「曾利(そり)」「藤内(とうない)」「九兵衛尾根(きゅうべえおね)」「居平(いだいら)」「唐渡宮(とうどのみや)」「向原(むこうっぱら)」などの遺跡が集中して、「井戸尻遺跡群」を形成する
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それまでの農作業で多く土器や石器が見つかっていたというが、1958(昭和33)年、地元上諏訪町(現在の「諏訪市」)出身の考古学者「藤森栄一(ふじもり えいいち)」(1911/明治44年~1973/昭和48年)や、「茅野市尖石縄文考古館」初代館長の考古学者「宮坂英弌(みやさか ふさかず)」(1887/明治20年~1975/昭和50年)の指導のもとで発掘調査が行われ、1965(昭和40)年に2回目の発掘調査を経て、翌1966(昭和41)年国の「史跡」に指定されたという。
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なお現地には、「復元家屋は、長らく第四号住居跡に設けられていたが、平成五年の全面改築を機に現在の場所に移した」「柱の配置や炉など、中期中葉の井戸尻期に標準的な形態を復元した」との案内がある。



 ❖ 井戸尻考古館  「井戸尻遺跡」から徒歩約4分の「井戸尻考古館」は、これまでの発掘調査の出土資料のうち約2,000点の土器や石器と、住居や装身具などを展示し、当時の宗教観や世界観などを解説する
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1963(昭和38)年、パリで開催された「日本古美術展」に展示されたという「水煙渦巻文深鉢」は、1972(昭和47)年「郵便はがき」の料額印面の意匠にも採用され、広く人々に紹介されるところとなったが、卓越した意匠を示す我が国の縄文土器の一つと言えるだろう。
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また、「藤内遺跡」から出土した「半人半蛙文有孔鍔付土器」を含む土器と石器は、「長野県藤内遺跡出土品」として国の「重要文化財」に指定されているほか、1975(昭和50)年「曽利遺跡」の第四号住居跡から出土した7点の土器も、県宝に指定されている。
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同館の開館は午前9時~午後5時で、月曜日(月曜日が祝日の場合は開館)と祝日の翌日、年末年始が休館となる。

 ❖ 富士見町歴史民俗資料館  「井戸尻遺跡」「井戸尻考古館」それぞれから徒歩約3分の「富士見町歴史民俗資料館」は、農業を中心とする生産用具と生活用具や古文書など民俗資料を、収集し展示公開する
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同地は、縄文時代中期に最も栄えたとされる「井戸尻遺跡群」に始まり、戦国時代には甲斐「武田信玄」の信濃攻略拠点となり、江戸時代には「甲州街道」の「蔦木宿」が置かれたというが、1955(昭和30)年に「富士見」「本郷」「落合」「境」の4村が合併し、「富士見町」として現在に至っているという。
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同館の開館は午前9時~午後5時で、月曜日と祝日の翌日、年末年始が休館となる。