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矢彦神社😐😐😐「小野神社」と合同で行われる「御柱祭」が衣装の煌びやかさで語られる神社

2020-09-04 16:00:00 | 神社仏閣
国道153号線沿い、JR中央本線「小野駅」から徒歩約15分の「矢彦神社」(上伊那郡辰野町)は、かつて一つの神社だったと伝えられる隣接「信濃国二之宮」の「小野神社」(塩尻市)と同じ社叢に鎮まる「信濃国二之宮」旧社格「県社」の神社で、「上伊那郡」五十四ヶ村の総鎮守だという。
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創建については不詳だが、伝承にその「建御名方命(たけみなかたのみこと)」が、諏訪の土着「洩矢神(もりやのかみ/もりやしん)」のため諏訪へ進めず、この地で暫く留まったことに由緒があるともいう。
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両社の分割は、飯田城主「毛利秀頼(もうり ひでより)」(1541/天文10年~1593/文禄2年)と、深志城(後の「松本城」)主「石川数正(いしかわ かずまさ)」(1533/天文2年~1593/文禄2年)による領地争いに遡るという。争いは、「小野」を「南小野」と「北小野」に分割という1591(天正19)年の「豊臣秀吉」裁定で、神社も「矢彦神社」と「小野神社」に分割され、分けられた「矢彦神社」の境内は、「北小野」における「南小野」の飛び地になって現在に至ることとなった。
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なお、同社維持へ氏子の尽瘁が感じられる「矢彦神社」境内だが、神職非常駐の寂しさは広がる。折屈ある参拝者が増え、境内の輝きを取り戻してほしいものだ。
 ❖ 正殿・副殿・南殿・北殿  祭神は、「正殿」に「大己貴命/大国主命」と、「大国主命」「神屋楯比賣命(かむやたてひめのみこと)」の間に生まれた「建御名方命」の兄神「事代主命」、「副殿」に「大国主命」「高志沼河姫」の間に生まれた「事代主命」の弟神「建御名方命」と、その妃神「八坂刀賣命(やさかとめのみこと)」、「南殿」に「天照大神(あまてらすおおかみ)」の曾孫神で尾張氏の祖神とされる「天香語山命(あめのかごやまのみこと)」と、その妃神「熟穂屋姫命(うましほやひめのみこと)」、「北殿」に「神倭磐余彦天皇(かむやまといわれびこのすめらみこと)/神武天皇(じんむてんのう)」と、「誉田別天皇(ほむたわけのすめらみこと)/応神天皇(おうじんてんのう)」、ほかに「明治宮」に「明治天皇」が祀られる。
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縁起について年代は明らかでないとされているが、「社伝」では「大己貴命」の国作りにおいて、「事代主命」「建御名方命」を従え当地に立ち寄ったことに始まり、欽明天皇年間(539~571)に祭祀が整ったとされる
 ❖ 拝殿 廻廊  1987(昭和62)年、「長野県指定有形文化財(長野県宝)」に指定された「拝殿・廻廊」は、寺社建築「立川(たてかわ)流」の代表建築とされる建物だ。「諏訪大社下社秋宮」の社殿建築において、競合する「大隅(おおすみ)流」を圧倒する評判を得た「立川流」棟梁の初代「立川和四郎冨棟(たてかわ わしろう とみむね)」(1744/延享元年~1807/文化4年)によって、1782(天明2)年に完成したという。
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木地のままの材でつくる「白木造り/素木造り(しらきづくり)」、屋根最上部の大棟から両側へ斜めに葺き下ろす屋根の形式「切妻造り(きりづまづくり)」、「銅板葺き」で、「三つ巴」紋の幕が張られ、多くの彫刻装飾を見る拝殿は、棟木と直角の面の「妻」ではなく平行の面の「平」に入口のある建物「平入り(ひらいり)」、正面は軒先の三角形部分に装飾としてつけられた中央部が凸形、左右両端が凹形に反り返った曲線状の造形「軒唐破風(のきからはふ)」で、廻廊の前面は壁がなく内部空間が外部に開放されている「吹放ち(ふきはなち)」になっており、「諏訪大社」に類同する社殿だ。
 ❖ 神楽殿  1987(昭和62)年、「長野県指定有形文化財(長野県宝)」に指定された「神楽殿」は、「諏訪大社下社秋宮」の社殿建築において、競合する「大隅流」を圧倒する評判を得た「立川流」棟梁「立川和四郎冨棟(たてかわ わしろう とみむね)」(1744/延享元年~1807/文化4年)の子どもで、二代「立川和四郎冨昌(たてかわ わしろう とみまさ)」(1782/天明2年~1856/安政3年)によって1842(天保13)年に完成したという。「立川和四郎冨昌」は、卓越した彫刻技術により、単なる装飾彫刻を芸術性高い彫刻へ押し上げたと言われる棟梁で、この「神楽殿」も「立川流」の代表的建築に数えられるという。
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「切妻造り(きりづまづくり)」で、棟木と直角の面を「妻」平行の面を「平」といい、「妻」に入口のある建物「妻入り(つまいり)」「銅板葺き」の見事な社殿だ。
 ❖ 勅使殿  「神楽殿」後面で「拝殿」手前に位置する「勅使殿」は、674(白鳳2)年の「天武天皇(てんむてんのう)」(不詳~686/朱鳥元年)勅使下向を受けて造営されたのが始まりだと伝えられるが、「切妻造」「平入」「白木造/素木造」「銅板葺」の現存する同殿は、江戸中期の完成で、1987(昭和62)年に「長野県指定有形文化財(長野県宝)」の指定を受けた社殿だ。
 ❖ 御柱  周知「諏訪大社」の「御柱祭」は、寅と申の年の七年に一度行われるが、ここ上伊那の総鎮守と呼ばれる「矢彦神社」の「御柱祭」は、隣接の東筑摩の総鎮守と呼ばれる「小野神社」とともに、翌年の卯と酉の年に行われている
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社伝によれば、第38代「天智天皇(てんぢてんのう)」(626/推古天皇34年~672/天智天皇10年)弟で、672年「壬申の乱」において第39代「弘文天皇(こうぶんてんのう)」(648/大化4年~672/天武天皇元年)を倒し、翌年即位した第40代「天武天皇」の時代の674(白鳳2)年に、勅使下向を受けて、御遷宮と御柱祭を七年に一度の式年祭として行うことに定められたという。
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かつて「人を見るなら諏訪御柱、綺羅(きら/華やかで美しいこと)を見るなら小野御柱」と、その煌びやかな衣装が両社の「御柱祭」として語られたと伝わる。

 ❖ 阿像(獅子) 吽像(狛犬)  「獅子と狛犬」は、神聖な場所を邪気から守る役割をもつという空想上の守護獣像で、向かって右の角がなく開口するのが「阿(あ)像」の「獅子」、左の角があって(簡略化され角がないものも多い)口を結ぶのが「吽(うん)像」の「狛犬(こまいぬ)」だ。現在は「獅子と狛犬」という呼称が、魔除けのために置かれる像「拒魔犬(こまいぬ)」から、単に「狛犬」という言い方で定着して来ているという。
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起源は古代オリエントの「スフィンクス」まで遡り、ガンダーラを経由して中国に入り、遣唐使が我国に持ち帰って、寺院山門の仁王像の影響を受けながら、平安時代までに対の獅子像が「獅子と狛犬」という独自の「阿吽」形式に変ったのではないかとも言われている。
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神社によっては、著名彫刻家による作品に出会うこともある「獅子と狛犬」だが、その意匠が通俗の範疇になる石製も多い。しかし、この「獅子と狛犬」は愛敬があり、そういうことで言えば石製でありながら、他にあまり類を見ない印象に残る個性を持っている。ちなみに沖縄の「シーサー」は、「獅子」を沖縄語で発音した伝説の獣で、災厄をもたらす悪霊を追い払う魔除けとされている。

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