それを拾つて、役立てようと
僕は思つたわけでもないが
なぜだかそれを捨てるに忍びず
僕はそれを、袂に入れた。
月夜の晩に、ボタンが一つ
波打際に、落ちていた。
それを拾つて、役立てようと
僕は思つたわけでもないが
月に向つてそれは抛れず
波に向つてそれは抛れず
僕はそれを、袂に入れた。
月夜の晩に、拾つたボタンは
指先に沁み、心に沁みた。
月夜の晩に、拾つたボタンは
どうしてそれが、捨てられようか?」
今回は「在りし日の詩」に収録されてる「月夜の浜辺」です。
この詩について、ある人は
「単なる詩人の日常を書き連ねてるだけ」と言い、
またある人は
「ボタンは自分の死んだ子供への愛情を表してる」と言い、
また、ある人は、ボタンを単なるガラクタとみなし、
「そんなものぐらいしか、自分の側にいないんだってことを表現してる」と言い、
まあ、いろんな解釈があるけど、
ボクはといえば、やっぱり、この詩は「孤独感」を表現してるんだと思う。
「落ちてたボタン」は、彼の見出した「美の世界」というか、
「真理」というか・・・
そんなようなものなんだと思うけど
彼には、そのことが他の人にはなかなか解ってもらえないって感じてたんだろうと思うんだ。
そんなものは、生活する上では
何の実益ももたらしてはくれないし。
でも、
「他人にはガラクタに見えるかもしれないけど、自分にとったら、それはそれはとても大切な宝物なんだ」っていう、ね。
ホントは、誰か、自分のすべてを許容してくれる理解者が欲しかったんだろうと思うけど・・・。
こんな感じの思いは
ボクも常々感じてるところだし。
ある作品を「いいなあ」って思うときは
その作品と、自分の想いが、どこかしらリンクしてるときなんだろうね。
同じ作品から、ヒトによって
いろんな感想が出てくるっていうのは
その人それぞれの考え方や、生き方なんかが反映されてて
とても、面白いよね。
「手に入れたものは、ガラクタばかり
手に入れたものは、ガラクタばかり
ボクにとっては、宝物なのに
周りの目から見れば、ガラクタばかり」
―futaro―