毎日の読書 「教会の祈り」

私たちはキリストの体の一部 「聖務日課(読書)」より

聖コロンバン修道院長 神の無限の深み

2013-05-23 21:45:42 | 聖コロンバン修道院長
聖コロンバン修道院長(6世紀中頃~615年) リュクセイユの修道院長
『訓話』
 無限の神は、全体としてどこにでも臨在しておられます。神はご自分について、「私は近くにいる神であって、遠くにいる神ではない※1」と仰せられたとおりです。神はどこにでも、近くにおられます。私たちの探し求める神は、私たちから遠くに離れておられる方ではないのです。私たちが相応しい者であるならば、私たちのうちに神がおられるのです。それは、私たちが罪に対して死に※2、神の健全な肢体であるかぎり、魂が体のうちにあるように、神は私たちの内にとどまって下さるからです。そのときにこそ、「私は彼らのうちに住み、彼らの中を歩もう※3」と仰せられた神は、真に私たちの内にお住まいになるのです。もし神が私たちの内に押すまいになるなら、私たちは神の生きた肢体として、まことに神によって生かされるのです。使徒パウロが言っているとおり、「私たちは神のうちに生き、働き、存在します※4」

いと高き神の、言い尽くしがたく、悟りがたい本質を探究することのできる者がいるでしょうか。神の深みを調べることのできる者がいるでしょうか。万物を満たし、万物を包み、万物に浸透し、万物を越え、万物を把握し、万物から姿を隠しておられる神を知る、とあえて主張できる者がいるでしょうか。神をありのまま見た者は一人もいないのです※5。したがって、神の存在とはいったい何なのか、神はどのように存在しておられるのか、なぜ存在しておられるのかというようなことについては、何人もむやみに詮索してはならないのです。これらのことは筆舌に尽くしがたく、きわめがたく、悟りがたいことなのです※6。ただ、神がかつて存在しておられたままで今も存在し、またこれからも存在するということだけを、単純に、しかも固く信じなさい。神は変わることのない方だからです。

 神はどういう方でしょうか。父と子と聖霊である唯一の神です。神についてはこれ以上詮索しないようにしなさい。神の限りない深みを知りたいと思うなら、まず自然の考察から始めるべきです。三位一体についての知識は、さましく海の深さにたとえられます。それは、「その深いところをだれが見いだせようか※7」という知者の言葉のとおりです。海の深さが人間の目でわからないのと同様に、三位一体の神性も人間の理解力を越えたものなのです。それゆえ、だれかが信じるはずであったことがらを理性で極めようと思う者がいるなら、その人は信仰よりも議論によっていっそうよく理解できると考えてはなりません。そのようにして探求される神の知恵は、今までよりも遠く離れ去ってしまうでしょうから。

 そこで、議論することによってではなく、完全な徳の生活を送ることによって、また、学識をみせかける不信心から生じる推測によってではなく、素直な心からあふれ出る信仰によって、最高の知識を探求しなさい。したがって、もしあなたが言い尽くしがたい神を論述によって探求しようとするなら、その神は、前よりも一層遠くに、あなたから離れ去ることになるでしょう※8。これに反して、信仰によって探求するなら、知恵は今いるところ、すなわち、あなたの門にとどまることになるでしょう。そして、そのとき、たとえ部分的ではあっても、知恵がどこにあるかということを見ることができます。神にいくらかでも真に触れることができるのは、見えない神を理解力を超える方と信じるときです。それは、見えない神ょ、見えない方として信じなければならないからです。たとえ、神が心の清い人※9にいくらか見える※10にしてもそうです。


年間第七木曜日 読書

※1 エレミヤ23:23
わたしはただ近くにいる神なのか、と主は言われる。わたしは遠くからの神ではないのか。

※2 ローマ6:2 1ペトロ2:23
決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。
ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。

※3 出エジプト25:8 レビ26:12
わたしのための聖なる所を彼らに造らせなさい。わたしは彼らの中に住むであろう。
わたしはあなたたちのうちを巡り歩き、あなたたちの神となり、あなたたちはわたしの民となる。

※4 使徒言行録17:28
皆さんのうちのある詩人たちも、『我らは神の中に生き、動き、存在する』『我らもその子孫である』と、言っているとおりです。

※5 ヨハネ1:18
いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。

※6 ローマ11:33
あ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。

※7 コヘレト7:24
在したことは、はるかに遠く その深い深いところを誰が見いだせようか。

※8 知恵6:14
知恵を求めて早起きする人は、苦労せずに 自宅の門前で待っている知恵に出会う。

※9 マタイ5:8
心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。

※10 1コリント13:12
わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。


聖コロンバン
六世紀前半、アイルランドに生まれる。古典文学と神学を学んだ後、修道生活に入り、フランスに移ってからは多くの修道院を設立し、厳しい会則をもってそれを治めた。やがてフランスから追放されてイタリアに行き、ボッビオに修道院を設立した。一般信徒と修道者たちの信仰を高める上で大きな業績をあげ、615年に帰天(死去)。

女子パウロ会 聖人カレンダーへ
http://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint50.php?id=112302

ベネディクト16世が、教父に関する講話で「聖コルンバヌス(コロンバン)」について解説しました。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message317.htm

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