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毎日の読書 「教会の祈り」

私たちはキリストの体の一部 「聖務日課(読書)」より

聖ヒエロニモ すばらしい住まいに行こう

2012-07-05 00:00:00 | 聖ヒエロニモ
聖ヒエロニモ(340~420年) 司祭 教会博士
「詩篇42についての説教」

「鹿が泉の水を求めるように、神よ、私の魂はあなたを求める※1。」鹿が泉の水を求めるように、鹿である私たちも、エジプトを脱出してこの世から離れ、自分たちが受ける水でファラオを滅ぼし、彼の全軍隊を洗礼によって葬り、悪魔が滅んだ後、教会の泉である御父と御子と聖霊を求めます。

御父については、泉であるということがエレミヤ書にこう書かれています。「彼らは生ける水の泉である私を捨てて、水をためることのできないこわれた水溜めを掘った※2。」御子についてはある箇所にこう書かれています。「彼らは知恵の泉を見捨てた※3。」さらに聖霊については、「私が与える水はその人の中で泉となり、永遠のいのちにいたる水がわき出る※4」と言われており、福音記者はすぐに続けて、これを救い主が聖霊について語られたことであると説明しています※5。これらのことから、教会の三つの泉は三位一体の神秘であることが明らかです。

信じる者の魂はこれらを求め、洗礼を受けた者の魂はこれらを求めます。その人は言います。「わたしの魂は生ける水の泉である神に渇きます※6。」その人は、神を見ることをただ上辺だけで求めるのではなく、熱烈に求め、もえるような情熱の限りを尽くして神を乾き求めます。洗礼を受ける前、その人々はお互いに次ぎのように語り合いました。「いつみ前に行って、神のみ顔を仰ぐことができるのか※7。」今や、彼らの望みは叶えられました。行って神の御前に立ち、祭壇の前に来て、救い主の秘儀にあずかっています。

彼らはキリストの体を拝領することをゆるされ、いのちの泉で生まれ変わって、信頼をもってこう言います。「私は神の家にいたるまで、感嘆すべき幕屋に移ろう※8。」神の家とは教会です。これは感嘆すべき幕屋です。「喜び歌い感謝をささげる声と宴会の席に着いたものの声※9」に満ちた場所だからです。


年間第十三木曜日
第一朗読 サムエル下6:1-23
第二朗読 聖ヒエロニモ 新信者に対して行われた聖ヒエロニモ司祭の詩篇42についての説教

※1 詩篇42:2
涸れた谷に鹿が水を求めるように神よ、わたしの魂はあなたを求める。

※2 エレミア2:13
まことに、わが民は二つの悪を行った。生ける水の源であるわたしを捨てて無用の水溜めを掘った。水をためることのできないこわれた水溜めを。

※3 バルク3:12
お前は知恵の泉を見捨てた。

※4 ヨハネ4:14
しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」

※5 ヨハネ7:39
イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。

※6 詩篇42:3
神に、命の神に、わたしの魂は渇く。いつ御前に出て神の御顔を仰ぐことができるのか。

※7 詩篇42:3
神に、命の神に、わたしの魂は渇く。いつ御前に出て/神の御顔を仰ぐことができるのか。

※8 詩篇42:5(ウルガタ)
※9 詩篇42:5(ウルガタ)



聖ヒエロニモ

女子パウロ会 聖人カレンダー
http://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint50.php?id=093001

教皇ベネディクト十六世が「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」についての連続講話でヒエロニモを紹介しています。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message260.htm

聖ヒエロニモ 私に立ち帰れ

2011-08-26 07:00:00 | 聖ヒエロニモ
聖ヒエロニモ(340~420年) 司祭 教会博士
『ヨエル書注解』
「心から私に立ち帰れ。※1」そして断食し、泣き悲しんで魂の悔い改めを示せ※2。今、断食するあなたがやがて満たされ、今、泣くあなたがやがてほほえみ※3、今、悲しむあなたがやがて慰められるために。
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年間第二十一金曜日
※1 ヨエル2:12
主は言われる。「今こそ、心からわたしに立ち帰れ 断食し、泣き悲しんで。

※2 ヨエル2:12
主は言われる。「今こそ、心からわたしに立ち帰れ 断食し、泣き悲しんで。

※3 ルカ6:21
今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。

聖ヒエロニモ
ユーゴスラビアの信心深い裕福な家庭に生まれ、ギリシャ語とラテン語をマスターした。18歳で当時の学術文化の中心ローマに留学。当時は、キリスト教が国教となり40年ほどしか経っていなかったため神々への迷信も根強く残っており、不品行な学生に誘われ都会の享楽にうきみをやつしたこともあったようです。その後、悪友を避け別人のように信仰に精進し学問に励みました。そしてヘブライ語の研究を始めました。ナジアンズの司教グレゴリオと親しくなり、司教のすすめに応じてギリシャ語の護教書や教会史をラテン語に翻訳し有名になります。その後、新約、旧約聖書のラテン語訳に取り組みます。これが、現在カトリック教会で遣われているラテン語訳聖書(ウルガタ)になります。


聖ヒエロニモ すばらしい住まいに行こう

2010-07-01 21:54:31 | 聖ヒエロニモ
聖ヒエロニモ(340~420年) 司祭 教会博士
「詩篇42についての説教」

「鹿が泉の水を求めるように、神よ、私の魂はあなたを求める。」(詩篇42:2)鹿が水を求めるように、鹿である私たちも・・・教会の泉である御父と御子と聖霊を求めます。
御父については、泉であるということがエレミヤ書にこう書かれています。「彼らは生ける水の泉である私を捨てて、水をためることのできないこわれた水溜めを掘った。」(エレミア2:13)
御子についてはある箇所にこう書かれています。「彼らは知恵の泉を見捨てた」(バルク3:12)
さらに聖霊については、「私が与える水はその人の中で泉となり、永遠のいのちにいたる水がわき出る」(ヨハネ4:14)と言われており、福音記者はすぐに続けて、これを救い主が聖霊について語られたことであると説明しています。これらのことから、教会の三つの泉は三位一体の神秘であることが明らかです。

信じる者の魂はこれらを求め、洗礼を受けた者の魂はこれらを求めます。その人は言います。「わたしの魂は生ける水の泉である神に渇きます」(詩篇42:3)

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新信者に対して行われた 司祭 ヒエロニモの説教です。洗礼を受け、祭壇の前に来て救い主の秘儀に預かれるようになった信徒は、命の泉で生まれ変わりました。私も、求道者の頃、黙想会で歌った詩篇42の聖歌が思い出されました。
典礼聖歌144(詩篇42:3~6) 「谷川の水を求めて あえぎさまよう 鹿のように 神よ、私はあなたを 慕う」