ある日、春やんから聞いた話だ。
喜志の宮さん(美具久留御魂神社)の一の鳥居の国道(旧170号線=東高野街道)沿いに、茶店があったの知ってるやろ。あの茶店は古くて、昔は、宮さんにお参りに来る人のための接待所、休憩場あった。「お旅の茶屋」というていた室町時代の話や。
宮さんの方から黒染めの衣を着た坊さんが一人、茶屋にやって来た。坊さんといっても、頭の毛はもじゃもじゃで、無精ひげをはやしたお坊さんや。
「しばし休ませていただきます」と言って、茶屋の前の床几(しょうぎ)に座る。
「へいへい、ごゆっくり」と茶屋のおやじが茶を持って来る。
そのお茶を飲んでいると、太子の方から、紺の青の小素襖(こすおう)に、烏帽子(えぼし)をかぶった若者が一人、茶屋にやって来た。舟木一夫か橋幸夫のような、なかなかの男前や。
お坊さんがその若者を見るなり、
「おお、三郎やないかいな」
若者もお坊さんを見て、
「あっ、和尚様!」
「久しぶりじゃのう」
「このような所にどうして?」
「知っての通り、せんだってからの戦(いくさ=応仁の乱)で京の都は荒れ放題。わしの寺も焼けてしもうた」
「えっ、父上の墓は?」
「本堂から離れた所にあったがゆえに大丈夫や」
「それを聞き安堵いたしました。こうして和尚とお会いできたのも父上のお導きでございましょう」
「そうじゃのう、悪いこともあれば良いこともある。災い(禍)わざわいは、福の裏返しにすぎず、福と禍は一筋の縄のごとしということじゃ」
そんな話をしていると、鳥居の下で猟師と坊主(ぼうず)が言い争いを始めた。和尚が近づいていき、猟師に「どうされました?」とたずねると、
「へい、今日は仏事があるゆえに、猟師は鳥居をくぐってはならんと・・・」
そばの立札を見ると、「皮を身につけた者、立ち入るべからず」とある。それを見た和尚が坊主に向かって、
「釈迦(しゃか)といういたづらものが世にいでて多くの人を迷わすかな。皮をきたものが入れるのならば、お寺の太鼓を捨ててしまわれよ! 太鼓にも皮が張ってあるであろう! ナムサン!」
大声で恫喝(どうかつ)したので、坊主はたじたじになって逃げて行った。礼を言う猟師に和尚が、
「太鼓だけにバチがあたった」
そう言って茶屋に戻って来た。三郎が、
「昔からの頓智は健在ですね! 老いてもなお初心忘るるべからずですね」
「いやいや、釈迦の教えを笠にきて偉そうにする輩が増えてきた。南無釈迦じゃ 娑婆(しゃば)じゃ地獄じゃ苦じゃ楽じゃどうじゃこうじゃというが愚かじゃ!」
「稽古は強かれ、情識(偉そうな心)はなかれとなりですね」
「ほほう、三郎、だいぶ稽古の腕も上がったようじゃのう」
「いえいえ、まだまだ父には及びませんが、家にあらず。継ぐをもて家とす(家の芸を継いでこそ家が残る)、ということがようやくわかってきました」
「それだけでもたいしたものじゃ。時分の花をまことの花と知る心が、真実の花になお遠ざかる心なり(若い時の美しさを自分の魅力だと思っていると、本当のの自分の魅力にたどりつけない)」
「秘すれば花なり。秘せずは花なるべからず(思いもかけないところに芸の花がある)」
「そうじゃ。それで、これからどこへ?」
「はい、千早へご先祖を偲びにまいります」
「おお、わしもそうじゃ」
そう言って、二人は高野街道を南に向かったそうや。
【補筆】
楠正成公の系図は十六通りほどあるそうです。春やんは次の系図を作って話をしていたのです。
春やんの話に出てきた和尚はテレビでおなじみの一休さん(一休宗純)です。
楠正成の孫の正儀(まさのり)の次男正澄(まさずみ)の三女が、第百代後小松天皇の官女になり、天皇の寵愛を受けて生まれたのが一休さんです。北朝側の追ってから逃れるために六歳で出家させられます。そして、81歳の時、京都の大徳寺の住職に命じられます。しかし、おりしも応仁の乱のまっただ中で、大徳寺は焼かれてしまいます。そこで、乱からの避難、寺の再建のために、一休さんは大坂の堺へ来ていました。
正月気分で人々が浮かれている中を、竿の先に人間のドクロ(しゃれこうべ)を刺して、
門松は冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし
と歌って歩いたのもその頃です。漫画のイメージとはかなり違う反骨精神旺盛な坊さんでした。
一方の若者は能楽を大成した世阿弥(ぜあみ)です。楠正成の妹が、伊賀の服部氏に嫁ぎ、世阿弥の父の観阿弥(かんあみ)が生まれます。子の世阿弥が生まれた31歳の時に、名張市小波田(おばた)で猿楽座(後の観世座)をたちあげます。やがて、観世父子が能を演じ、将軍足利義満に認められます。52歳で病死し、葬られたのが一休さんが和尚となる大徳寺なのです。
その後、家を継いだ世阿弥が能楽を完成させていきます。
※二人が千早に向かったのはご先祖(楠正成)を偲ぶためでした。
※赤字部分は二人が残した有名な言葉です。
このように書くと、春やんの話はいかにもありそうな話なのですが、一休さんが生まれた時(1394年)、世阿弥は31歳でした。つまり、一休さんより世阿弥の方が年上ということです。世阿弥が亡くなった時(1443年)、一休さんはまだ49歳です。春やんの話は年齢が逆転しています。【番外編】としたのは、そのためです。
美男子だった世阿弥、肖像画の一休宗純のイメージで逆転してしまったのでしょう。
※神社と寺は相反するイメージがありますが、明治時代までは神仏習合(神道と仏教の一体化)の思想で、もちつもたれつの関係でした。神社のそばに寺が、よくあるのはそのためです。喜志の宮には、室町時代に十三の寺があったといいます。「神仏習合ぬきで、歴史を考えたらあかんで」が、春やんの口癖でした。