私が小さい頃の遊び場は大和川の支流石川だった。喜志には都会のように公園と呼ばれるものはなかった。今でもない。だから寒い冬であろうが、石川が私たちの遊び場だった。
昭和30年代の終わり頃、「2B弾」という花火が流行った。花火といっても火を噴くものではなく、爆竹のような爆発音と破壊力が売りだった。一本がタバコほどの大きさで、先に燐が付いていた。それをマッチ箱でこすると、着火して黄色い煙を出し、5秒ほどして爆発するのだ。それを地面に埋めたり、ビンの中に入れたりして破壊力を楽しんでいた。時にはカエルの尻に突っ込んだりもしていた。
火を着けてから「イーチ、ニーイ」と数えて「サン」ぐらいで投げると、うまく空中で爆発した。時には「ニー」ぐらいで爆発する不良品があって、手を怪我したというような事件があったため、二、三週間もすると、学校から禁止令が出るのが毎年のことだった。だから、けっこう後ろめたい遊びだった。
二月の冷たい風が吹く日だった。
町内の悪ガキ数人で、石川に架かる河南橋の下流の川原で遊んでいた。今は整備されているが、その頃はまだ一面の草原だった。石川の「ヤブタの堰(西浦井關)」から曳いた、川幅二メートルほどの用水路をはさんで、2B弾を投げ合って戦争ごっこをしていた。『コンバット』というアメリカの戦争ドラマが人気の頃だった。
火を付けて投げると、2B弾は黄色い煙の尾を引き、パーンと爆発する。
「あーっ、やられた!」
一人がふざけて死んだまねをして倒れた。わーと歓声があがる。それからしばらくしてのことだった。
友達が倒れたあたりの草原がバチバチと燃え出した。死んだふりをしながら、ふざけて持っていたマッチで火を着けたのだ。それが、おりからの風にあおられて、ものすごい勢いで燃え広がり出した。皆は血相を変え、落ちている棒切れを拾い、火をたたいて消しにかかった。しかし、火は勢いを増すばかりで、いっこうに消えない。襲い来る自分たちの背丈ほどの炎を、必死で棒でたたいた。
十分ほど格闘しただろうか。用水路に遮られて、火はようやく下火になった。みんなほっと息をついて顔を見合わせた。草の燃えた灰が汗にこびりつき、顔は真っ黒だ。河南橋の上を見ると、四、五人のオッサンが、橋の欄干に頬づえをつき、笑いながら我々を見ていた。 今だったらすぐに消防車が来て、あとでこっぴどく叱られるのだが、その頃はのんびりとしていた。
「どんならんなあ、ええかげんにしとかんと学校の先生に言うぞ!」
そう言ってオッサンたちは行ってしまった。一人残っていたのが春やんだった。
「おい、おまえら知っとるか?」
春やんは橋の上から堤防を横切って河原に下りてきた。
「おまえら、そんな遊びしてんと、この用水路を下って行ってみ。どこへ行くと思う?」
一キロほど下流の広瀬(羽曳野市)あたりまでは下って行ったことがあったが、そこからどこへ通じているかは誰も知らなかった。春やんが、ゆっくりと話し出した。
――この用水路は千五百年ほど前に造られたやつや。ずうっと下って行ったら、古市(羽曳野市)の応神天皇陵という、昔の天皇さんの墓まで行くねん。古市には古墳がようさんある。その古墳の堀を造るために掘られたのがこの用水路や。それだけやなしに、ようさんの田畑に恵の水をもたらした『コンクノタイコウ』という溝や。
それほどの溝やから大切にされたはずや。それだけに、この溝がある喜志は重要な所なんや! せやさかいに、昔は、この川面に溝を守る偉い役人がいたはずや。その役人の子孫がおまえらや。そない思うて、もう悪いことしたらあかんぞ。コンクノタイコウがあったのが、おまえらが今燃やした所や!――
そう言って、春やんは行ってしまった。
天皇陵も古墳もなんのことかわからなかったが、春やんのやんわりとした説教から、我々の目の前を流れている小川が、「コンクノタイコウ」という、何か重要な小川あることを知った。
【補説】
『日本書紀』の中の仁徳天皇の記事に「掘大溝於感玖、乃引石河水而潤上鈴鹿・下鈴鹿・上豊浦・下豊浦四處郊原、以墾之得四萬餘頃之田(大きな溝を感玖に掘る。石川の水を引いて、四カ所の荒原を潤し、四万頃の田を得た)」とあります。「感玖(こんく)」とは、かつての石川郡あたり、今の富田林から羽曳野市古市あたりを指した呼び名です。富田林の東部にある古刹龍泉寺に咸古神社があります。近くには、「こんく」がなまった「寛弘寺/かんこうじ」の地名が残っています。龍泉、佐備、甘南備一帯を治めていた古代豪族である紺口県主(こんくのあがたぬし)から生まれた地名です。
「感玖の大溝(タイコウ・おおみぞ・おおうなで)」は、羽曳野にある日本武尊陵、応神天皇陵、仲哀天皇陵などの堀を造るため、あるいは灌漑用水としてひかれた溝と言われています。その取水口が喜志村の川面の河南橋の近くにある「ヤブタの堰」であると、秋山日出雄氏の調査でわかったのは昭和39年です。かつて、河南橋上流には大きな淵があり、効率的に取水できる場所であったのでしょう。
現在、川面付近の大溝はコンクリートで囲まれていますが、下流には昔のままのところがあります。近鉄南大阪線で古市駅を過ぎ、喜志駅に向かう途中、羽曳野市西浦の第二阪奈道路の高架の下に、昔の名残を見ることができます(唐臼井路と呼ばれています)。
※事件があった河原は、今は石川河川公園になっています。私が、ええ歳になって、子供会の会長をした時に、このコンクノタイコウの近くで盆踊り大会をしました。その準備で草刈りをし、集めた草に火を付けて燃やしていました。しばらくは時間がかかるだろうと、町の会館で弁当を食べていた時に、けたたましい消防車のサイレンの音がしました。数秒とたたないうちに、仲間が「火事や!」と飛び込んできました。慌てて河原へ行くと、刈った草に火を付けたのが草原に燃え移り、風にあおられて、大きな火柱になって南方へ燃え広がっています。子どもの頃のあの事件をふと思い出しました。
消防車のお陰で火は消し止められましたが、消防団やら壮年会の責任者が警察署に呼び出されました。子供会の会長は関わるなということで、私は難を逃れましたが。
※図は、「日本書紀に記された感玖の大溝の比定地について」 (原秀禎『立命館文學』vol.553)より引用。
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