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河内国喜志村覚え書き帖

大坂の東南、南河内は富田林市喜志村の歴史と文化の紹介です。
加えて、日々の思いをブログに移入しています。

歴史35 昭和――春やん戦記①

2023年08月10日 | 歴史

熱中症警戒アラートが五日連続で出されている。
それも、暑さが日増しに激しくなっているように感じる・・・ほど暑い。
炎天の真っ昼間、樹々はそよとも動かない。
シャンシャンシャンとクマゼミがしきりに鳴いているだけである。
私が小学生だった頃は、ほとんどがニーニーニーと鳴くニーニーゼミか、ジージーと鳴くアブラゼミだった。
ニーニーゼミは二等兵、アブラゼミは上等兵、クマゼミは少尉のようなものだった。
だから、クマゼミを捕ろうものなら勲章もので、四、五日は自慢できた。

ニーニーゼミがまだ盛んに鳴いている夕間づめだった。
「盆に殺生したらあかんで!」とオバンが言うので、セミ捕りも魚捕りもできず、我が家の裏の縁側でマンガを読んでいた。
昔の家は、南と北の戸を開け放つと風の通り道ができた。
風で裏の竹藪の笹がさやさやとそよぐほどだった。
その風の中を、白のランニングにステテコ姿の春やんが飄々とやって来た。
「なんや、漫画読んでのかいな。宿題せんかい!」
そう言って裏口から中へ入って行った。

台所で春やんは、オトンとオカンと話している。
「春やん、盆で仕事もないやろ。一杯飲んでいき!」
「いやいや、飲むにはまだちょっと早いがな・・・」
と、言っているやさきに、シュカーンと栓を抜く音がした。
「ホホホホホッ、えらい気いつかわして悪いなあ」
「なに言うたはりまんねん。こっちがいつも世話になってますがな。なんもおまへんけど、キララ(干しタラを水でもどしたもの)でも・・・」
「おお、身の良うのったええキララやがな!」
「そらそうと、小春の姉さんの具合はどないでんねん?」
「盆には退院して帰ってくると思てたんやが、八朔(大ケ塚の縁日9/1)になりそうやなあ」
「そうでっか・・・寂しおまんなあ・・・」

我が家では年に四回、餅をついた。四月の太子詣り、お盆、秋祭り、年末。
その日、春やんは餅をとりにきたのだった。
それが結局、家に帰っても誰もいないので、我が家で夕食をしていくことになった。
「もはや戦後ではない」といざなぎ景気を牽引した池田隼人首相がなくなり、次の佐藤栄作が盆明けの19日に戦後初の沖縄訪問をすることがテレビのニュースで流れていた。
オトンと春やんはテレビを視ながらちびちびと酒を飲んでいる。
「明日は、子どもらを実家に連れていくんで、今日はごっつぉがおまへんねん」とオカンが肴を持ってきた。
焼きナスにナスの炊いたん、ナスの天ぷらにナスの漬物。
「ウワハッハ! こんなけナスがあったら(那須与一の)扇の的がぎょうさんいるがな!」
「すんまへんなあ」とオカンがかしこまると、
「なに言うたはりまんねん。15年前の今日らあったら、こんなごっつぉは食べられへんかったがな!」
その年の終戦記念日の前の日だった。
②につづく

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歴史34 昭和――春やん恋しぐれ④

2023年01月08日 | 歴史

小春もわしも若かった。
よう働いたし楽しかった。せやけど、それも三年ほどや・・・。
二十歳になった昭和12年の5月頃に徴兵検査の通知がきよった。
身体に悪いところはなかったから甲種の合格や。
それを機に、小春を喜志に連れて帰って祝言をあげた。
村の中の親戚の家を小春の実家に見たてて、白無垢の着物に文金高島田で我が家まで歩いて嫁入りや。
橘小春見たさに近隣の村から人が仰山集まってきて、えらい騒ぎあった。

昭和12年の7月に日中事変が始まると、すぐに入隊通知がきて法円坂の歩兵第八連隊に入営した。
「またも負けたか八連隊、それでは勲章九連隊」と言われた連隊や。
(京都の歩兵第9連隊を「勲章をくれんたい(もらえませんよ)」という九州弁の洒落でもわかるように、九州の連隊のやっかみや。
他所の連隊は「突撃」かけられたら突撃して玉砕するけど、八連隊はそんなことはせえへんかった。
負けるとわかってる戦いには無理をしなかった。「あほらしい」から無駄なことはしない関西人の気質や!
それでも、死んで「七生報国(七たび生まれかわつて国のために報いる)」よりも、生きて一生報国するという気概は持っていた。

半年ほど訓練をすると二等兵から一等兵になってた。
それで昭和13年の1月に満州の警護に送られた。中国を攻めている間にソ連が満州に攻めてくる可能性があったたからや。
案の定、昭和14年5月に満州とモンゴルの国境線のノモンハンにソ連が攻めてきよった。
ソ連軍は最新鋭の戦車、重砲、戦闘機や、それに対して日本側は銃剣と肉弾だけや。
こんなん勝てるはずがあるかいな。にもかかわらず、我々8連隊にも出撃命令が出た。
「あほらし、こんなん行ってられるかいな」
その直後から、8連隊では発熱や風邪や脚気や動悸やと急病人が次々と出てきたがな。
他の部隊が4日で進んだ道のりを、8連隊は1週間かけてゆっくりと進んだ。行軍中も落伍者が続出した。
そんなこんなで8連隊がノモンハンの戦場に到着したときには戦闘は終わってた。すでに日ソ停戦協定が成立した後あったんや。

出動した日本の兵隊の3分の1が死傷。仙台の第23師団にいたっては約2万人のうち7割が死傷した戦いあった。
ところが、第8連隊はほぼ無傷あった。後で、よくぞ生還したと褒美が出たほどや!
それで、わしは二年間の兵役を終えて内地に還ることができたんや。
昭和14年の暮れあった。凍りつくよな寒い日あった。
満州の広い荒野と違うて、粉浜はあいもかわらずごちゃごちゃした 浮世の裏みたいあった。
家の鍵がないんで、隣の天外さんとこのお手伝いさんに劇場に電話してもろうた。
一時間もせんうちに小春が帰ってきよった。
遠からわしを見つけて、ちゃっちゃつと走って来て、にこっと笑うて「おかえり」と言いよった。
えらいあっさりしてんなと思たけど、「ご苦労様でした。お帰りなさいませ」などと堅苦しい挨拶されるより、小春らしかった。
久々にほんまもんの笑い顔を見たと思うた。
わしもにっこり笑うて、二年ぶりに狭いながらも楽しい我が家に入った。
夕方に浪花さんが「天外からです」と、カシワと卵と酒、それにご丁寧に野菜も切って持って来てくらはった。
「聞きたいこと仰山おますのやが、またゆっくり聞きまっさ。ほんで小春ちゃん、席亭に言うて明日は休みにしてもろてまっさかいに、ゆっくりしとくなはれ」
そない言うて浪花さんは、にこっと笑って帰って行かはった。

頂いたカシワををすき焼きにして小春と二人でつついて、飲んでいたら、涙が出てきよった!
「なんで泣いてんねん?」と小春が聞きよるさかいに、
「美味しゅうて泣いてんのじゃ!」言うたら、
「あほらし」と言うて笑らいよった。
そのとき、「あほらし」のお陰でこうして生きて還ってくることができたんやと思えて、わしも笑ろてしもた。
笑うふたりに浪花の春がきた・・・。

※『草原の肉弾 : ノモンハン事件全貌記』樋口紅陽 著(国立国会図書館蔵)
※『南京城総攻撃 (支那事変少年軍談)』高木義賢(同上)
※絵葉書「(大阪名勝)道頓堀」(大阪市立図書館アーカイブ)

コメント (2)
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歴史34 昭和――春やん恋しぐれ③

2023年01月07日 | 歴史

わしが17(歳)の時や。小学校のそばに喜楽座という芝居小屋が出来た。
いろんな一座が入れ替わりで興行をうつのやが、年に数回、小泉劇団というのがやってきた。
その劇団に橘小春という可愛らしい子がいてな、村の若い者は芝居見に行くのやなしに、小春ちゃんを見に行ってたようなもんあった。
時々、村の素人も出演させてくれはってな、わしも早ようから俄や村芝居に出てたんで何回か出演させてもろうた。
いうても、町娘にちょっかいだすチンピラみたいな役あった。
それでもな、「つべこべぬかさんとわいに付いてこんかい!」と言うて、一瞬でも小春ちゃんの手を握れんのが嬉しかった。

小春ちゃんは、わしより二つ上で、よう似た歳あったさかいに、いつしか仲ようなった。
そんなんで、ある日、楽屋で小春ちゃんと話をしている時に、今回の興行が終わったら大阪に帰ると言い出したんや。
親子二人暮らしのお母はんが重い病気になって看病に帰ると言うのや。
ああ、これでもう小春ちゃんとは逢われんようになるのかと思うと悲しゅうなって、「わしも付いていったろか?」と思わず言うてしもた。
そしたら「かまへんのん? 付いて来てくれるの?」と小春ちゃんが言うやないかい。
そら嬉しかったわい!

家に帰って、「わしは次男坊やから、いつか家を出なあかん身や、大阪に出て仕事見つける」と親を説得した。
ほんでもって、喜楽座の最後の芝居がハネた後、小春ちゃんと一緒に、大軌(大阪電気軌道)に乗って聖天坂の小春ちゃんの家に行ったんや。
18歳の春あった。
お母はんは、すでに病院に入院したはったさかいに、小春ちゃんの家で二人暮らしが始まった。
何か仕事を見つけようと思ってた矢先にお母はんが亡くならはった。
親戚も少なかったさかいにささやかな葬式をあげ、聖天坂の家を売って、わずかばかりのお金を持って別の所に小さな借家を借りた。
それが阪堺線の東粉浜駅のそばあったんや。

さあ、その時、喜志村では、わしが橘小春をそそのかして駆け落ちしたとか、当時はやりの愛の逃避行しょったとか、えらい騒ぎあったそうや。
せやけど、そんなんどうでもよかった。狭いながらも楽しい我が家というのはあの時あった。
わしは近くの大工の親方とこに見習いに入った。
大工というても工務店みたいな所で、大工もすれば左官もする、電気の配線もするというようなとこあった。
嫁はんは、と言うてもどれ合いやが、隣に住んだはった人の紹介で、道頓堀の劇場のお茶子(接待係)をしていた。
隣に住んだはった人というのはこの人や。春やんが新聞をぱらぱらとめくって指さした。
ホーローの看板でよく見る女性だった。

そういえば、エーちゃんが、聖天下を通った時に、「ここ知ってるか、松竹新喜劇の渋谷天外さんの家や」と教えてくれたのを思い出した。
豪邸にはほど遠い洋風のこざっぱりとした家だった。
二代目の渋谷天外さんが、戦後、浪花千栄子さんと別れた後に引っ越した家だった。

④につづく
※絵は竹久夢二(国立国会図書館デジタルコレクション)
※路線図は「阪堺電気鉄道路線図」より加工
※看板は「大塚製薬HP」より

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歴史34 昭和――春やん恋しぐれ②

2023年01月06日 | 歴史

聖天坂駅、駅というより停留場といった方がいいほど小さな駅を降りると、すぐに広い道がある。
踏切を渡ってニ、三分ほど歩いたところにアパートがあった。
アパートというよりは二階建ての離れを借家にしたようなもので、一階と二階の二部屋しかなかった。
人一人がやっと通れるような階段を上るとすぐにドアがあって、入るとすぐに六畳の畳の間があった。
合鍵を持っていた居候のTが先に帰っていた。バンドをするというだけあって、すらりとした長身で恰好よかった。
野菜を適当に切って、エーちゃんと私とTとFの四人ですき焼きをつついた。

クーラーはなかったが、窓を開ければ涼しい風が入り、大阪市内だからか蚊もいなかった。
ぐっすりと寝て、翌朝の8時くらいに四人でアパートを出た。
線路沿いに北に向かって松虫通りを少し通って左に曲がると聖天下という簡素な住宅街があった。
右手に鬱蒼と木の茂った丘が見える。「聖天さんというんや」とエーちゃんが教えてくれた。
そのまま真っすぐ進むと阿倍野墓地があって、旭通りを抜けると阿倍野に着いた。
KYKの喫茶店でモーニングを食べて、その日の稼ぎに出た。
昼から、エーちゃんとTはアパート探しに、私とFは着替えを取りに一端家に帰り、夜は再びエーちゃんのアパートに泊まった。

次の日は同じように聖天下を通って阿倍野に出た。
Tのアパートが決まったので、Tのために大阪見物をしようということになって、天王寺の西口に出て、参道を通って四天王寺にお参り。
谷町線を天満橋で降りて大阪城、道頓堀の千房でお好み焼きを食べてアパートに帰った。
次の日、Tが引っ越しのために一旦福井に帰るとというので、私とFも鞄を持ってアパートを出た。
聖天さんの森も見慣れた景色になっていた。

その日、久々に家に帰ると、春やんがきていた。
「おっ、三っ日も居続けしてたんやて?」と春やんが言った。
「けったいな言い方しないな。友達のアパートに泊めてもろてたんや!」
「ほー、どこやねん?」
「聖天坂や!」
「聖天坂?」と春やんが聞き返した。
そして、「こんもりと茂った森があったやろ?」と言った。
「ああ、聖天さんかいな」
「あれはなあ、大阪にある五つの低い山の一つで聖天山というんや」
「あれ山かいな? 春やん、よう知ってんねんなあ」
「わしも、聖天坂に住んでたんや・・・」

③につづく
※大阪五低山=大阪市内5カ所の低山巡りの対象となる山。港区の天保山(4.53m)、阿倍野区の聖天山(14m)、生野区の御勝山(14m)、住吉区の帝塚山(19.88m)、天王寺区の茶臼山(26m)。

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歴史34 昭和――春やん恋しぐれ①

2023年01月05日 | 歴史

大学2年生の長い夏休みだった。アルバイトはしていなかった。
その代わり、朝8時半ごろ家を出て阿倍野に行く。
阿倍野筋の旭屋書店の下にあるパチンコ屋がアルバイトのようなものだった。
10時の開店前に並んでいると高校の同級生が、たいがい五、六人いた。
パチプロのエーちゃんというのがいて、ハンカチを預ける。
ドアが開いて軍艦マーチがけたたましく鳴る中を台探し。エーちゃんが目ぼしい台を見つけて、預けたハンカチを台の上に置いてくれる。
まだ一発ずつはじいて打つ手打ちの時代だった。

一時間半ほどすると1500発で終了になる。一発2円の頃だったので3000円だが、2割引かれて2500円前後。
二台目に挑戦している途中に食事時。「食事中」の札を貼ってもらって皆で昼食。
豪華にいくならKYKの豚カツ定食350円。
腹いっぱいならアポロの下の熊五郎でラーメン・ライス280円。
あるいは路地裏の眠眠でチャーハン・餃子250円。
質素にいくなら隣の立ち食いで狐うどん150円だった。

二台目を終了し、「打ち止めや、兄ちゃん出ていって!」と店員に言われて、旭通りのパチンコ屋へ。
ここはそこそこ出るのだが、なかなか終了させてくれないので1000円も勝てばサヨウナラ。
天王寺西口のパチンコ屋へ戦場を替えて戦い開始。
ここで終了すれば駅前商店街のアラスカ(喫茶店)で、ウインナーコーヒー250円なりで本日の打ち止めとなった。
これがパチンコ仲間のおおよその一日のコースだった。
アルバイトの時間給が550円の時代だったから、それに見合う収入はあった。

ある日、アラスカでコーヒーを飲んでいるとき、エーちゃんが、
「今晩、俺のアパートに泊まりにけえへんか?」と言う。
理由を聞くと、福井県からエレキバンドを目指してやって来たTという男と知り合って、住むところが決まるまで泊めてやっているのだった。
それで、男二人だけでは話がもたないので泊まりにきてくれということだった。
ならばというので、私とFがエーちゃんのアパートに泊まりにいくことになった。
それなら夕食は豪華にすき焼きでもしようということになって、近鉄百貨店の地下で肉と野菜を買ってアパートに向かった。
環状線で新今宮に行き、阪堺線に乗り換えて三つほど駅を過ぎた聖天坂で降りた。
後に、これが春やんとの意外な接点につながることになる。

②につづく

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