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河内国喜志村覚え書き帖

大坂の東南、南河内は富田林市喜志村の歴史と文化の紹介です。
加えて、日々の思いをブログに移入しています。

歴史35 昭和――春やん戦記⑥

2023年08月15日 | 歴史

第一次防衛線は突破したものの、第二次防衛線は20キロほど先の山の中腹にあった。
それを攻撃するためにはジャングルの山道を登っていかんとあかんかった。
しかも、昼間は敵の目につきやすいので、行動はすべて夜間あった。
尻の上のバンドに白い手拭いをぶらさげて、それを目印にして、はぐれんように闇の中を行軍した。
ほんでもって、適当な場所を見つけてジャングルの中で寝たんや。

キキッ、ギャーギャーと、名前も知らん鳥の鳴き声で目が覚めた。
眠たい目をこすりながら山の中腹を見てびっくりしたがな!
山の上から白旗をかかげたアメリカ兵が、蟻の行列のように降りてくるやないかい。
一人、二人・・・十人、二十人・・・百人、二百人・・・、千人、二千人・・・?!
小便ちびるほどびっくりした!
わしら日本兵を見つけると「グモーニン」やら言うて、ニコニコ笑いながらチョコレートやらキャラメルやらをくれよった。
こいつら死んでも戦い抜こうという気持ちがないんかいなと唖然としたわ!
せやけど、放っとくわけにはいかんというので、二百人ほどのところで区切って、日本兵が一人ついて、後方本部へ送り届けることになったんや。
武器は持っていないとはいえ、一人で二百人のアメリカ兵を連れていくんや。
わしら日本兵あったら、ドットかかっていって押し倒して殺してしまうやろう・・・そない想像したら、炭小屋で四十七士に取り囲まれた吉良上野介のような心地あった。

広報本部へ送り届けてほっとしたのもつかの間、すぐに来た道を戻った。
しかし、途中で集中砲火が始まって、第二次防衛線は陥落した。
一週間後には、米比軍最大の陣地マリベレス山の頂上に日の丸が立てられて、万歳の声が響きわたった。
ところが、さっき言うた大問題が起きたんや!
降伏して捕虜となったアメリカ・フィリピン人の数が7万6千人もいたんや。

日本兵ですらろくなもん食べてないのに、こんな大勢の捕虜に食べさす食糧はないがな!
収容施設もないし、移動させるトラックもない。
とにかく、捕虜を食糧補給の可能なバターン半島の北方にまで、徒歩で三日間かけて連行しようということになった。
バターン半島の最南端から東海岸に沿って北へ、7万6千人の行列が続いた。
降伏前からまともには食べてないうえに、炎天下の中を飲まず食わずに三日間も歩かされた。
心身ともに衰弱していた捕虜が、途中で次々と道端に倒れて、起き上がろうとはせんかった。
最終点まで到達したのは5万3千人ということやが、死者の正確な数はわからん。
これが世にいう「バターン半島死の行進」や!
➆につづく
※『写真週報』(国立公文書館デジタルアーカイブ)

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歴史35 昭和――春やん戦記⑤

2023年08月14日 | 歴史

こらアカン!
2月に米軍の基地からバターン半島の地図が見つかったんやが、バターン半島は、戦争が始まる一年前から、三段構えの防御線を造り、6カ月の攻防に耐えられる物資を貯えた大要塞あったんや。
そのうえ、半島の先にはコレヒドール島というもう一つの大要塞がある。
こらアカン! 思わず女房の小春の泣いとる顔が眼に浮かびよった。


ところがや、わしらが上陸した次の日から、リンガエン湾に次々と兵隊が到着してきた。
砲兵部隊も続々とやってきた。重爆撃機を中心とした航空隊も配属されて、日本軍は五万人ほどの大軍団になっていた。
ああ、これで助かった!
しかし、そう思たのもつかの間や。日本軍が侵攻した島々から撤退してきたアメリカ兵が、バターン半島に集結して二倍の8万人に膨れ上がっていた。
そこにフィリピンの避難民2万人も加わって日本軍を上回る数になっとったんや!
こらアカン、やっぱしアカン!

ところがや、あまりに大勢のアメリカ、フィリピン兵が集結したために食糧が不足して、食糧難に陥ってた。
そこへきて、肉食のアメリカ兵と米食のフィリピン兵とのいさかいも起こってしもうた。
こらアカン。
そう思たんは、実はアメリカ軍あったんや!
こらアカンと、フィリピン島防衛軍最高司令官や指揮官が、大統領家族と一緒に逃亡してしまいよった。
その司令官というのが、あのマッカーサ将軍や!

4月3日の午前9時、日本軍の攻撃が開始された。
約300門の大砲が一斉に砲声を響かせた。それが敵の陣地で炸裂して、爆発音とともに地面が揺れ、空気が揺れよった。
空からは100機の爆撃機が爆弾を落としていく。
煙と砂ぼこりが舞い上がって山頂が見えへん。大日本帝国陸軍始まって以来の大集中攻撃や! 
それが昼を過ぎても続いた。PLの花火を見たら、あの攻撃を思いだすのやが、花火の百倍、いや、千倍もある攻撃あった!

3時頃に砲撃がやんだ。
煙がはれて山頂が見えるようになると、敵陣地を占領していくのが、わしら歩兵部隊の役目あった。
多くの死傷者が出てたんやろなあ。
敵陣地に近づくと一通りの一斉射撃があって、こっちも応戦するのやが、しばらくすると銃撃がやんで、白旗が上がった。
総司令官の逃亡で、戦う気力が失せてたんやろなあ。
あるいは、「一応攻撃はして、アカンかったら手を上げてしもたらええねん」という考え方あったんかもしれんなあ。
そんなけ、資源にしても、軍事的に優位であることを知っとった。捕虜になっても、いつかは祖国に帰れる。
なんとも合理主義的やが、これが日本に大事件をもたらすことになるんや! 

⑥につづく

※絵は竹久夢二(国立国会図書館デジタル)
※写真は『写真週報』(国立公文書館デジタルアーカイブ)

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歴史35 昭和――春やん戦記④

2023年08月13日 | 歴史

昭和16年の7月5日に大阪城のそばにある歩兵第八連隊に入営をして、十日も経たんうちに、大阪港から上海に移動させられた。
そのときの日本軍は、国際都市の上海どころか南京も占領してイケイケの時あった。
当時は何の情報も知らされずに分からんままに行ったが、あとで調べたら、アメリカもイギリスも「黄色人種同士で戦っとけ」みたいな気持ちあったんやろなあ。
おまけに、ドイツがソ連と交戦したために、その年の四月に日ソ中立条約が結ばれて、中国は虫の息あった。
そやから、大工をしていたわしは、上海では銃を持ったことがなかった。
駐屯地の兵舎やら、日本からぎゅうさん移住して来た日本人街の建築やらに刈り出されて、そら、忙しい毎日あった。
せやけど、このまま日中戦争が終わってくれたらええのになあと思てた。

ところが、7月28日に日本軍が、フランス領の印度支那半島(ベトナム,ラオス,カンボジア)に進駐してしもた。
こうなるとアメリカもイギリスも黙ってられへんがな。8月に日本への石油輸出を全面禁止してしまいよった。
それでも日本軍は、南へ南へ資源を求めて進駐していったんや。
12月8日、真珠湾奇襲攻撃を聞いたのは、日本軍のマレー半島上陸の知らせと同時あった。

年が明けた昭和17年の二月の末に出動命令が出された。
それまで、情報というたらビルマ・タイを占領、ベトナム・カンボジアを占領というようなええ知らせばっかしあったから、どこへ行くのかわからんかった。
ただ、冬用の服は置いていくようにと言われたんで、南方であるのは確かやと思うた。
輸送船に揺られて一週間ほどたった3月6日に上陸命令が出された。
フィリピンの北にあるリンガエン湾という所あった。
フィリピンというたらアメリカの植民地や。アメリカ軍も必死やろ。
こらアカン。ここがわしの死に場所か。風に揺れる椰子の木を見なから思うた。

先に来ていた第65旅団の兵隊から聞いたんやが、1月に戦わずしてマニラを占領した。
米軍はマニラを捨ててバターン半島にこもりよった。
戦わずして半島のジャングルに逃げ込んだ軍隊みたいなもん、ものの数ではないやろう!。
そう判断した日本軍は軍備を大幅に減らして、第65旅団(約7000名)に攻略を任せたんや。
ところがや、バターン半島は大部分が山とジャングルや。おまけにまともな地図もないがな。
どっちが北か南かわからん中を突進していったそうや。
しばらくすると、標高1000mのナチブ山の頂上から猛烈な砲撃を受けた。
将兵は次々と戦死。攻撃を開始して二週間で約2000名が死傷したということあった。
それを聞いて、その補充部隊としてわしらが送られて来たんや! と思うた。
こらアカン! ますますアカン! 絶対にアカン!
⑤につづく
※『写真週報』 199号・203号 昭和16年12月17日号(国立候文翔館)

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歴史35 昭和――春やん戦記③

2023年08月12日 | 歴史

最初の現役を終えて、昭和14年の暮れ、大阪の聖天坂の家に帰ってきて、久々に小春との正月を迎えた。
小春は道頓堀の劇場でお茶子(客接待)して、舞台にもちょこちょこ上がっとった。
わしも、いつまでもぶらぶらしてられんので、入隊前に勤めていた岸里の工務店の社長はんに働かせとくなはれと頼みに行った。
社長はんは、ご苦労さんあったと言うて、心良う引き受けてくれはったがな。
大工に左官に電気の配線と忙しかったが、一ぺん軍隊にいったら多少のことは辛抱できるもんや。
贅沢は出来んけども、まあまあ幸せな日々あった。
しかし、それも一年半ほどや。

わしが満州から帰ってきた昭和14年9月には、ドイツが突如ポーランドへ侵攻して、すでに第二次世界大戦が始まてた。
おまけに、三年前のから始まった日中戦争がまだ続いてる。
そこへきて、昭和15年9月に、日本はドイツ、イタリアと三国軍事同盟を締結したんや。
なんのことはない、ドイツに攻撃され弱体化したフランス領の北部仏印(現在のベトナム北部)へ軍を進めよったんや。
イギリス・アメリカに喧嘩をうりにいったようなもんや。
ここらへんから、わしも覚悟はしていた。
今度こそはアカン!
除隊になったとはいえ「予備役」という、召集令状がきたら有無を言わずに戦地へ行かなあかんかった。
案の定、16年5月の末にに召集令状がきよった。

森の宮の歩兵第八連隊への入営が決まってからというものは皆優しかったなあ!
小春は、「劇場主さんから休みもらいました」というんで、京都、奈良やら、有馬、城崎やら、いろんなとこへ二人で行った。
工務店の社長は、ええ歳あったさかいに、「わしの分も御国のために頑張ってこい! 明日から何もせんでも一月分の給料を出したる」言うてくらはった。
隣に住んだはる渋谷天外さんからは、「あまりもんや」というて、肉やら刺身やらを持ってきてくれはぁった。
入営の二日ほど前の日には、浪花さん(千栄子)から、珍しいもんが手に入ったというてウヰスキーをくらはったがな。
小春に「そんな敵国のもん飲んだら、憲兵につかまるさかいに返してこい!」と言うと、その晩に舞台を終えた浪花さんが家に来やはった。
めずらしく河内弁で「なにをアホなこと言うてんねん! ウヰスキといっしょに英米を飲んでしまわんかいな! ということでんがな!」
ほんで、ウヰスキーといっしょにチョコレートも置いて、舞台でしゃべるような口調で、
「よろしおますか。御国のために、立派に戦こうて・・・死なんと帰ってくるのが、日本男児だっせ!」と言うて帰っていかはった。
ウヰスキー飲みながら、「みんなの好意を死に土産にしたらあかんな・・・」と、小春と二人で、笑うて、泣いた。

入営の前の夜、小春が「劇場の仲間やお客さんに頼んで縫うてもらいました」と言うて、「千人針」を渡してくれた。
一枚の白い布に、千人の女性が一人一針ずつ赤い糸で千個の縫い玉を作ったのを腹巻にしていれば、弾丸よけのお守りになるというやつや。真ん中に大きく、天外さんと浪花さんの名で「武運長久」と書いてあった。
「武運」の文字は涙でかすんで見えへんかったけど、「長久」の文字だけは今でもはっきりと覚えてる。
※④につづく

※『千人針風景』軍事郵便(京都大学附属図書館)・『写真週報』175号 昭和16年7月2日号 (国立公文書館デジタルアーカイブ)

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歴史35 昭和――春やん戦記②

2023年08月11日 | 歴史

「15年前の今日ら(8月14日)あったら、酒飲んで、こんなごっつぉは食べられへんかったがな!」
そう言いながら春やんが、ちびちびと飲んでいたコップの酒をゴクリと飲んで続けた。

富田林は、大阪(市内)から疎開してくるぐらいやから、まだましなほうあった。
ほやけど、酒どころか醤油は無い、砂糖も塩もなかった。
それやのに、ラジオから流れる大本営発表は『勇猛果敢に敵戦力を撃砕せり』ばっかしや。
当時は、こんなこと言われへんかったけど、みんな負けると思てた。
せやのに、なんで戦争を続けるねん!
もうええわ!
もうどうなろうがかまへん。もうええから戦争を止めて、もはや玉砕あるのみ。
あのときの「もうええわ」には、諦めのような、願いのような、覚悟のような複雑な思いが込められてた。
そやさかいに、15日に終戦の詔書を聞いたときには、どない言うてええやら、どないしてええのやわからんかった。

戦地に行って、アメリカ軍の戦車やら大砲やらを見たときに、こんなんに撃たれてたんかいな!
こら、まともにいったらアカンと思た。
せやさかいに、こりゃアカンと思たときは・・・わしは、逃げた!
卑怯に見えようが、生き抜いて抵抗をし続けるというのも戦い方の一つや!
――流れも清き菊水の/千代も絶やせぬ旗かげと/幾万代もかがやかん/ああ忠臣の鑑とぞ――(『楠正成』小学唱歌より)
というやっちゃ!

私には、難しい唄の意味は解らなかったが、
ブラッシーに噛まれて血みどろになっている力道山が、最後に空手チョップでやっつけるようなものだと思った。
阪神の村山に三打席三振の長嶋が、九回裏に逆転のホームランをかっ飛ばすようなものだと思った。
春やんはというと、少し酔ってきたのか、左の目をしくしくとさせながら、大きな声で歌い出した。
 朝日輝く生駒山
 夕陽彩るちぬの海
 千古歴史の影宿し
 豊に流るる大淀の
 河辺に立ちて武を練るは
 我等歩八の健男児
 (歩兵第8聯隊歌 一番)

「二回目の召集令状がきて、八連隊に入ったのは昭和16年五月あった」
※③につづく

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