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河内国喜志村覚え書き帖

大坂の東南、南河内は富田林市喜志村の歴史と文化の紹介です。
加えて、日々の思いをブログに移入しています。

歴史36 戦後/ 祭りじゃ俄じゃ④

2024年01月11日 | 歴史

※連載ものです。①から順にお読みください。
三十代半ばくらいのミッツォはん(満男さん)が、「新しい地車(だんじり)を買うたんは何時でしたかいな?」と皆に尋ねた。
会所の南側の地車小屋にある地車のことで、我々が物心着いた頃にはもう曳いていなかった。
それからは放ったらかしで、入口に閂(かんぬき=鍵)があるのだが、周りの壁のあちこちに穴が空いていて出入り自由で、我々の秘密基地になっていた。
四十歳くらいのトタさん(藤太郎さん)が「覚えてないんかいな! おまえが初めて俄したときやないかい! 終戦の20年やがな!」と言った。
同じ四十歳くらいのノブさん(伸雄さん)が「ちゃうちゃう、終戦の年に祭する余裕みたいあるかい! 次の年の昭和21年やがな!」と言う。
四十代半ばくらいの彦やん(彦一さん)が「あんだら、次の年も引き上げ(本土帰還)やらで余裕みたいあるかいな。昭和の22年や!」
五十歳くらいの春やんが「そや! わしが村に帰ってから二年目の22年や! 進駐軍が祭りの許可を出しよったんや!」
そう言って握りずしを一口ほおばり、湯呑の酒をゴクリと飲んで話し始めた。

日本が戦争にのめりこんでいくにつれて、祭りや盆踊りは自粛が強制された。
というより、若い者が戦争に引っ張られていったんで、地車を曳くにも人がおらんかったんや。
わしも戦地に行ってたさかいに、ようわからんけど、十年近くは祭をしてなかったんとちゃうか。
それが、戦争終わって祭のOKが出て、生き延びて、もとの暮らしに戻れるというんで皆大喜びあった。
ところがや、十年も曳っぱってないんやから、石川型の前の地車はボロボロや。
おまけに金属供出(武器をつくるのに必要な鉄と銅を国に差し出す)で、金っけのもんが全部無くなってた。
村方(役員)をしていたうちのオッジャンがよう言うとったが、川面は他所よりはちょっと裕福な村で、新しい地車を買おうとすぐにまとまったそうや。
せやけど、新調できるような時代やなかった。
ほなら、中古でもかまへんから、すぐに曳くことができる地車を探そやないかいということで、あちこちのツテを頼って探しまわったそうや。
ほんでもって、大和の高田で、曳く人間がおらんようになったんで処分したいという地車を見つけよった。それが、この(会所のとなりの小屋にある)地車や!

ミッツォはんが「トラックみたいなもん無かったさかいに、大和高田から村まで曳いて来たんやもんなあ」。
トタさんが「五月の半ば頃や! 二十人ほどが朝の早よから握り飯持って、大軌電車(現近鉄)で高田まで行って、帰りは新しい地車曳いて二上山を越えたんや」。
ノブさんが「アスファルトもない地道や。何回もひっくり返しそうになったなあ」。
彦やんが「竹ノ内街道の長い上り坂はえらかったなあ。昼過ぎになって、やっと峠の頂上にたどり着いて、大阪の方が見えた時は出征から還ったような気持ちになったわ!」
春やんが「えらかったけど、ジャングルを這いずることを思うたらたいしたことあるかい! 逆に、戦後初めて地車を曳っぱってるのはワシ等やと思うたら誇らしかったわい!」
学芸会のように、一人ずつが順番にセリフを回していくのは、なんでなんやろ?。
ミッツォはんが「あとは下り坂やから、若い者から休憩せえいうて、地車に乗せてもろたがな」。
トタさんが「街道下って山田(太子町)まで来たら、ごっつい人だかりや! みんな地車が曳けることを待ち焦がれてたんやろなあ」。
ノブさんが「ちょーさじゃ、ちょーさじゃ言うて掛け声をかけてくれたがな。それで疲れもふっとびよった!」。
彦やんが「河南橋にさしかかったら村総代が、地車に魂はまだ入ってないけど、太鼓打ってもかまへんぞと言わはった。それで、皆で太鼓に合わせてちょーさじゃ、ちょーさじゃ」
春やんが「橋の向こうから喜志中の子どもが50人ほど走って来よて、ちょーさじゃ、ちょーさじゃ! みんな、戦争が終わって祭が出来るのをどんなけ待ち構えてたんやろなあと思うたら涙が出てきよったわい!」
「ほんまに、めでたい、ちょーさじゃ、あったなあ」
なんで、学芸会みたいに、みなで声を合わせるねん!

我々が秘密基地にしていた地車には、ものすごく重い歴史があったのだと聞くと、彫り物の龍の目玉をくり抜いたのや、金具の真鍮を売って小遣いにした後ろめたさでうなだれてしまった。
欄干(勾欄)に擬宝珠という金具の飾りがあって、石川型と同じ丸柱の堺型の地車だそうだ。
大屋根・小屋根の両側の端が上に折れ曲がるようになっていて、細い道でも通ることが出来た。
「マンゲン」という、名のある大工の作だと言っていた。
新しい地車が村入りしたその晩は、ささやかな食事ながら、提灯行列のような大宴会をしたという。
※⑤につづく

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歴史36 戦後/ 祭りじゃ俄じゃ③

2024年01月10日 | 歴史

※連載ものです。①から順にお読みください。
春やんが立ち上がり、大きな紙袋を持って我々の円陣に来て、紙袋の中身をドカっとぶっちゃけた。
畳の上に色とりどりのお菓子が広がった。
「さあ、好きな物を食べ。そや、辛いお菓子は残しといてや。後でオッチャンらの酒のアテにするさかい!」
消防団の屯所の清掃整備当番の帰りで、そのお下がりのお菓子だという。
春やんたちは、竹寿司の握りをアテに酒を飲んでいる。
我々も説教されずにすんだという安堵感で、お菓子をほおばった。
「ところで、最前におまえらが科学特捜隊やら宇宙警備隊やら言うてたけど、何のこっちゃ?」と春やんが訊いてきた。
「悪い怪獣から世界を守る地球防衛隊や!」
「わしがいた特設警備工兵隊みたいなもんやなあ」
「オッチャン、そら何やねん?」
「悪い奴から日本を守る本土防衛隊や!」
春やんは、そう言いながらゴクリと湯呑の酒を飲んで話し出した。

中国やらフィリピンやら戦争に二回召集された。
右目やら左足やらに敵の砲弾の破片を受けて、昭和17年の7月に日本に帰って来たんや。
そろそろ大都市の空襲が始まり出した時あった。
大阪市内に住んでたんで、天王寺の陸軍病院に入院してたんやが、具合が良くなると直(じき)に退院させられて、天王寺にある真田山陸軍墓地にまわされた。
大工やってたからお手のものやろというので、木の箱、骨箱を造らされた。
菓子箱みたいな箱に遺骨を納めるのやが、戦局が悪なると、石ころが一つ、サンゴの欠片が一つというのが増えてきて、あげくは、骨箱造りそのものの必要がなくなってしもうた。
納める遺骨すら帰って来えへんようになってしもたんや。

破片の入っている右目をシクシクさせながら、春やんがシゲちゃんの方を見て言った。
さっきのおまえのウルトラマンと一緒や。最初は強そうに見えるのやが、集中砲火を浴びたらあっというまや!
わしが召集された頃は景気よう勝ち進んでいたんやが、ミッドウェー(海戦)やガダルカナル島で負け、大要塞のサイパン島を奪われてからは本土決戦が叫ばれ出した。
わしも骨箱造ってる場合やなくなって、昭和18年の春に、本土の沿岸警備や軍事施設の復旧にあたる特設警備隊に編入された。
昭和19年になると大阪も空襲を受けるようになってたんや。
西成の聖天坂にいた嫁はんをわしの実家に疎開させて、わしは特設警備工兵隊として八尾空港に移された。
当時は大正飛行場と呼ばれていた陸軍の大飛行場や。
そこで掩体壕(えんたいごう)という、戦闘機が一機入るような格納庫を木や竹やコンクリートで造ってたんや。
しかし、陸軍の大きな基地やさかいに敵の格好のマトや! 警報のサイレンがしょっちゅう鳴りよる。
滑走路を横切って逃げようとしたら、わしの方に向かって急降下して来たグラマン(戦闘機)が、パンパンパンと機関銃を撃ちよった。
わしのすぐ横をバッバッバッと弾が走っていきよった。
おまえら、さっきは、わし等に怒られる思うて小そうになっとったけど、そんなんとは比べようがないほど怖ろしで!
誰を狙てるのかわからんような弾の中は仰山くぐってきたけど、明らかにわしを狙てるのを感じたら、ほんま、ションベン、ちびったわ。

『0戦はやと』や『紫電改の鷹』などの戦記漫画を読んでいたので、ある程度は理解できたが、自分のそぐそばを機関銃の弾が走っていくのを想像すると恐くなった。
町内の墓地の「陸軍上等兵〇〇」と書かれた、槍の先っぽのような大きな墓石が頭に浮かんだ。
春やんたちは、終戦の時は何をしていたとか、何処にいたという話をしていた。
そのうちに、三十代半ばくらいの皆がミッツォはんと呼んでいるオッチャンが言った。
「新しい地車(だんじり)を買うたんは、何時でしたかいな?」
※④につづく
※『備へよ空に : 空襲恐るべし』太洋社(国立国会図書館デジタルコレクション) 
※航空自衛隊ホームページより引用・改作・『少年キング』少年画報社

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歴史36 戦後/ 祭りじゃ俄じゃ➁

2024年01月09日 | 歴史

※連載ものです。①から順にお読みください。
小学校の高学年ともなると、少し大人になるのか、体温調節機能が少しずつなくなって寒い。
そこで、金剛山が白くなるような日は、町内の集会所で遊ぼうということになる。
集会所といっても、木造平屋・瓦ぶきの建物で、暖房も無いから気温は外とさほど変わらない。
ただ、雨風はしのげるので寒い日の格好の遊び場になっていた。
当時は、どこの家も戸の鍵を締めなかったから、会所も鍵がかかってなくて出入りは自由にできた。
20畳ほどの広間があるだけで、これといった遊び道具は無かったが、何十枚とある座布団をビー玉に見立てて陣取りしたり、瓦に見立てて瓦当てしたり、座布団で三角ベースをつくってピンポン玉を打って野球をしたり、無いなら無いなりに遊びを考えた。
一通りで遊んで、最後は必ず座布団投げになった。
一回当てられると、その場にしゃがんでお休みという単純な遊びだが、修学旅行の枕投げ同様に変に盛り上がる。

その日は、開始前に何人かでこそこそと話し合って、いつも最後に残るシゲちゃんを集中攻撃しようということになった。
トモやんの「竜ケ森に出現した赤と青の球体! 宇宙怪獣ベムラーだ!」の声を合図に、みながシゲちゃんめがけて座布団を一斉に投げる。
幾つか当てられたシゲちゃんが、その場にバタっと倒れた。
そして、床の間に置いてあった懐中電灯を持っと! 膝まづいて叫んだ。
「パトロール中の衝突事故により命を落とした科学特捜隊のハヤタ隊員。ウルトラマンと一心同体となり蘇る。宇宙怪獣ベムラーを倒せ!」
ベムラーはいつの間にかハヤタ隊員になり、宇宙警備隊員のウルトラマンに変身する。
子どもの遊びは早い者勝ち、やった者勝ちだ。
ハヤタが懐中電灯をかかげてスイッチを押すと、淡い光が天井を照らす。
そして、じっとしている。
頭の中では光のエネルギーのベーター線が、体の周りを渦巻き状に包み込んでいるのにちがいない。
しばらくすると、グングングンと立ち上がり、シュワッチと低く跳んで半身に構える。
トモやんが咄嗟に「あっ、ウルトラマンだ!」と叫ぶと、その意図を察して、皆がまた一斉に座布団を投げた。
幾つも当てられたウルトラマンは、三分もしないうちにバタっと倒れて情けなく叫ぶ。
「なんでやねん!」
それと同時に表の戸がガラガラっと開いた。
「おまえら何しとんねん!」
春やんだった。

松葉色の作業着の上に青いジャンパー、その上に紺色の消防団の法被という出で立ち。
その後ろに同じ格好をした町内のオッチャンが四人。
そのうちの一人が「えらい派手にやらかしてるやないかい!」と怖い顔で言う。
これからどのくらい説教されるのかと我々は小さくなる。
別のオッチャンが「まあまあ、ワシらも昔にやったやないかい」と笑って言う。
我々は少し安堵して頭をかく。
すると、春やんが「そこら、ちょっと片づけ!」とにらむ。
我々は再び小さくなって、こそこそと座布団を片づける。
春やんたちは各自が座布団を一つずつ拾って、広間の真ん中に円陣になって座る。
「おまえらも座布団持ってきて、そこに座れ!」と春やんが言う。
やっぱり説教が始まるのだと、皆は座布団を持って、春やんたちの横に円陣に座る。
春やんが立ち上がり、大きな紙袋を持って我々の所に来て、紙袋の中身を畳の上にドカっとぶっちゃけた。
※③につづく

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歴史36 戦後/ 祭りじゃ俄じゃ①

2024年01月08日 | 歴史

夜中に寒さで目が覚めた。
トイレへ行って、コーヒーでも飲むかと、台所の椅子に座ってポットのスイッチをいれる。
ぶるっと寒気がして「おおさぶ~」と思わずつぶやく。
それが懐かしい節になっていたので、ふと思い出した。
 ♪おおさむこさむ~ 山から小僧が飛んでてきた♪
同じフレーズを何度か繰り返すが、次が出てこない。
「次の文句(歌詞)は、なんあったかいな?」と独りツッコミ。
その「なんあった」で思い出した。
 ♪なんといって飛んできた~ なんといって飛んできた~ 寒いといって飛んできた~ おおさむこさむ~ 山から小僧が飛んできた♪
寒い冬の戸外で遊んで、みんなで家に帰るときのテーマソングだった。
永遠に続くのだが、各自の家に来るごとに、一人減り、二人減りして、ようやく終わる。

ポットのお湯がシュンシュンと湧きだす。
昔、火鉢の五徳にかけられた鍋のお湯が湧いているのが頭に浮かぶ。
 ♪な〜べ〜な〜べ〜そ〜こぬけ〜 そ〜こがぬけたらかえりましょ〜♪
歳をとると若い頃のことより子どもの頃を思い出す。
ポットのお湯がゴボゴボと音をたてる。
 ♪おしくらまんじゅう~  押されて泣くな~ 押したらアカン~ あんまり押したらあんこが出るぞ~ あんこが出たら~ つまんでなめれ♪
歳をとると心が子どもに戻るのだろうか、記憶が逆行する。

ポットの湯をインスタントコーヒーを入れた湯呑に注ぐ。
一口すすって、ぶるっと震えがくる。
頭は子どもになっても体は爺(じじい)なのだ。
 ♪こどもはかぜのこ  じじばば ひのこ♪ 
子どもは体温調整機能があるが、歳をとるにつれて無くなっていくのだという。
 ♪こどもはかぜのこ  じじばば ひのこ♪
②につづく

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歴史35 昭和――春やん戦記➆

2023年08月16日 | 歴史

4月11日にバターン半島を攻略したが、半島尖端から4キロの距離に浮かぶコレヒドール島の攻略という難関が待ち受けていた。
東西7キロほどのオタマジャクシのような形をした島なんやが、周囲6キロの島は断崖絶壁で、その上にコンクリートに鉄板を張り詰めた陣地を巡らし、オタマジャクシの頭には、十六インチ要塞砲や三十サンチ加農砲、高角砲などがズラリと砲口を並べている大要塞や。
そんな「浮沈軍艦」と呼ばれたコレヒドール島攻略作戦に、我々の部隊にも出動命令が出た。
島の攻略に歩兵が刈り出されるということは、最も危険な敵前上陸をせよというこっちゃ。
小さな島の敵の懐に上陸したんでは逃げることも出来んがな・・・。
こら、ほんまにアカン!
三日後の5月4日は、半島の突端のジャングルの中で夜を過ごした。夜空に輝く南十字星を見ながら、いよいよ明日が最期かと、小春に別れを告げた。

次の日の夜の11時前に、半島の南端に設置された100門の砲撃と、空からの爆撃機の攻撃が始まった。
耳をつんざくような爆音の中、わしらにも出撃命令が出た。
砂浜から10mほどの所に停泊している大発艇(上陸用のボート)に乗り込むために道を急いだ。
そのときや! 
待ってましたとぱかり、要塞から一斉に照明弾、曳光弾が打ち上げられた。
空が明るくなったと思たら、50センチほどのドラム管のような爆弾が飛んでくるのが見えた。
・・・わしが覚えているのはそこまでや・・・。

5月5日の上陸から三日後の7日、米極東軍司令官が無条件降伏を申し出て、フィリピン島は完全に攻略された。
それを知ったのは、マニラの病院あった。
病院というても、ベッドに寝かされるのは将校で、わしら星一つ(一等兵)は、教会のような大部屋の床の上あった。
敵の砲榴弾(爆発と同時に散弾が飛び散る爆弾)を受けて、左目は包帯で巻かれていた。
その他にも、左腕と左足膝をやられていた。
幸いにも急所を外れていて意識ははっきりしていたのやが、疲れで二日間眠ってたそうや。
ああ、腹が減った・・・そう思うと同時に・・・ああ生きてるんやと思た。

十日もすると手足を動かせるようになった。左目もうっすらと見えるようになってきた。
それでマニラに野営している部隊にもどったんや。
一か月ほどした六月の末に復員命令が出て、7月7日に大阪に帰ってきた。
彦星が織姫と逢える日やと思うて聖天坂の家に帰ったが、小春は居らんかった。
隣の天外さんの奥さんに訊いたら、四国へ巡業に行ってるということあった。
奥さんが知らせてくれたんやろう。しばらくしたら小春からハガキがきた。

「前略 〇〇で負傷されたと聞いて驚きましたが、たいしたこともなく〇〇にご帰還されたこと嬉しく思います。今は〇〇中で、〇〇の劇場を中心にして、〇〇〇〇を巡業しております。
八月日ぐらいには〇〇に帰れることと思います。〇〇〇〇〇・・・。かしこ」
なんやこれ、黒塗りだらけやないかい! と思たが、最後に「🍊💧💧」ミカンから雫が垂れてる絵が画かれてた。
なんのこっちゃ?
ミカンの雫・・・? ミカンの汁・・・? 
あっ!
ためしや思て、炭火でハガキをあぶったら、文字が浮き出してきよった。あぶり出しあったんや!
「生きて還ってこそ日本男児。ほんまに嬉しい。早く逢いとうおます」

拠点にしている四国の劇場の住所を訊いて、わしもハガキを送ったった。
「はからずも負傷し、御国のために名誉の戦士ができず誠に無念なり」
その後に「蜜柑の汁」の絵を画いて、あぶり出しで大きく書いたった!
アイラブユー!

※『沈まない軍艦 : 中級向』 鈴木栄二郎 絵 (国立国会図書館デジタル)
※竹久夢二 (国立国会図書館デジタル)

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