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未来において神の審判はある、きっとある。しかし愛の神はご自身、人を裁(さば)きたまわずして、審判はすべてこれを子にゆだねたもう。しかして恵み深くして赦(ゆる)しをこのみたもうキリストに裁かれて、われらはもっとも恩恵的に裁かるるのである。
しかしてご自身憐憫(あわれみ)をこのみて祭祀(まつり)をこのみたまわざるキリストは、人を裁きたもうにあたりて、重きをその人の憐憫におきたもうのである。憐憫はキリストが人を裁きたもう時の標準である。
いわゆる正義ととなえて清浄潔白なる事ではない。あるいは信仰ととなえて、教義と儀式と伝道のことにおいて欠くるところなきことではない。
憐憫である、憐びんである、赦す心である、恵む質(たち)である、愛の行為である。人の永遠の運命はこれによりて決せらるるのである。最後の裁判(さばき)は愛の勝利である。愛せしか愛せざりしか、これによりて限りなき刑罰か、限りなき生命かの別がきまるのである。 ( 内村鑑三 )
「主よ、あなたは恵みふかく寛容であって、あなたに呼ばわるすべての者にいつくしみを施されます」(詩篇86:3~5)
「主よなんぢは恵ふかくまた赦をこのみたまふ 汝によばふ凡てのものを豊かにあはれみたまふ」( 同 文語訳)
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