アセンションへの道 PartⅠ その理論と技法

2012年には銀河の中心と太陽系そして地球が整列し時代の節目を迎えます。アセンションの理論と技法について考えます。

第16章 神の詩 ⑫ブラフマン

2012-03-23 06:47:35 | 第16章 神の詩
2年程前、本ブログ第9章④において、「ハイアーセルフとの対話」を題材にしている。そこでの但し書きに、『シャーリー・マクレーンやバシャールの説を採用すると、ハイアーセルフの意味は比較的狭く、普通日本人が考える「守護霊」といった訳が適当だと思うのだが、本節ではそれをもう少し広く捉え、やや異なるニュアンスを持つ「真我」(真実の自己)という意味合いも含んでいるものと考えて読み進んで頂きたい。』と書いており、そこでは夢の記録、良心との対話、瞑想などが重要であることを筆者の経験と共に述べているので、以前読んだことのある方も出来れば再度読み返して頂きたい。

それでは真我とは何ぞやということであるが、筆者は基本的に真我=アートマン(魂)という定義に基づいて(或いは途中からだったかも知れないが)、このブログを書き進めて来たつもりである。ここでは更に一歩踏み込み、それではアートマンとは如何なるものか、それはブラフマンと同じなのかそれとも異なるのか、というテーマをこの聖典を通じて検証してみたい。

先ずは、ブラフマンに関する叙述である。最後の節に注目願いたい。

さて永遠の生命を得るために
知るべきことを これから説明しよう
大霊ブラフマンは無始であり
有と無を超越している     (第13章13節)

あらゆるところに かれの手あり足あり
眼も頭も顔も到る処にあり
到るところに耳があって全ての音を聞き
全てを覆いつくして時空に充満している  (第13章14節)

かれはあらゆる感覚機能をもつが
かれ自身には感覚器官が無い
一切を維持しながら一切に執着なく
物質性(グナ)を楽しんで 物質性(グナ)を超越している   (第13章15節)

全てのものの内にも外にもかれは在り
不動であって しかも動く
はるかに遠く また極めて近く
その精妙なこと とても肉体感覚では認識不可能だ  (第13章16節)

個々に分かれて存在するように見えるが
かれは決して分かれず常に一(ひとつ)である
かれは万生万物の維持者であるが
一切(すべて)の絶滅者であり 創造育成者である  (第13章17節)
筆者註:ここでは維持者(ヴィシュヌ)、絶滅者(シヴァ)、創造育成者(ブラマー)
の三神が夫々ブラフマンの側面であることを説明している。

かれは光るものの光の源泉であり
物質性(グナ)の明暗を超えて光り輝いている
かれは知識であり 知識の対象であり
知識の目的であって - 全個々(すべて)の心臓(フリディ)に住む (第13章18節)

つまり、ブラフマンは全ての者の心臓に住んでいると云うことである。
以下も、ブラフマンに関する記述である。基本的に上記と略同じことが繰り返されているが、ここでも最後の一節に注目して頂きたい。

[至上者バガヴァーン語る]
剛勇の士アルジュナよ
君はわたしの親友だから
いままでより更に善き知識を
君の為に話して聞かせよう   (第10章1節)

千万の神々も偉大な聖者たちも
わたしの起源 全相を知ることは出来ない
なぜなら あらゆる意味において
わたしが神々と聖者の出所なのだから ― (第10章2節)

わたしが不生 無始であり
全宇宙の至上主であると知る者のみ
人間のなかにあって幻影に迷うことなく
全ての罪けがれから解放される   (第10章3節)

知性 知識 疑心のないこと
寛容 正直 感覚欲の制御
幸福と不幸 誕生と死
恐怖 そして恐怖心の無いこと  (第10章4節)

非暴力 平静 満足
禁欲 慈善行為 名誉と不名誉
これらの多様な資質を
生物に与えるのはわたしである   (第10章5節)

七大聖 またそれ以前の四大聖 ― そして
人類の祖・マヌたちはわたしの心から生まれた
無数の星界に住む生物たちはすべて
彼らを祖として発生したのである  (第10章6節)

わたしの この大いなる業と力を
正しく知る者は不動のヨーガで
常にわたしと共に在る
これは何の疑いもない   (第10章7節)

わたしは霊界 精神界 物質界全部(すべて)の根源
わたしから万有万物は発現し展開する
この真実を知る賢者は
全身全霊でわたしを信仰し讃美する   (第10章8節)

彼らに特別な慈悲を施すため
わたしはそれぞれの胸に宿り
輝く智慧の燈火をもって
無知から生じた闇を破る   (第10章11節)

つまり、第13章では、ブラフマンは個々の心臓に宿ると言い、第10章では賢者の胸に宿ると言っている。しかし第10章をもう少し読み進んで行くと、次のように書いてある。

アルジュナよ わたしは真我(たましい)として
一切生類の胸に住んでいる
― また
わたしは万物万象の始めであり
中間であり そして終わりである  (第10章20節)

ということで、やはりブラフマンは「真我」として人間を含む全ての生類の胸の中に「在る」のだ。 これと同じことが、ギーターの各章で繰り返されている。その幾つかを引用する。

ブラフマンは不壊不滅にして
永遠無現の実在 ―
宇宙に遍満する大霊である そして
万有を生み出す創造エネルギーをカルマという  (第8章3節)

物質自然(プラクリティ)は絶え間なく変化するが
物界 霊界 神界を含む大宇宙は至上主(わたし)の体である
そして各個体の心臓に宿る至上我(たましい)は
その至上主であるわたし自身なのだ      (第8章4節)

そして、本ブログ第16章⑥プルシャとプラクリティにても引用したが、次のように書かれている。

プルシャはプラクリティのなかにあって
その三性質(トリグナ)と関係を持つ
三性質(トリグナ)との係わり方に応じて
善または悪の子宮に宿って誕生する  (第13章22節)

だが肉体のなかにはもう一つ
根本主である至上霊が住んでいる
それは至上我(パラマートマー)または超魂とも言われ
生者の全活動を監督し 認可し また経験する  (第13章23節)

つまり、我々の真我(アートマン)は、ブラフマンに他ならない、即ち「梵我一如」ということを繰り返しギーターは強調している。

以上とは別の観点から、ギーターはブラフマンを次のように表現している。尚、「 」は筆者が付した。

またその上に アルジュナよ
わたしは全存在を生み出す「種子」である
動くものも 動かぬものも
わたし無しには存在し得ない   (第10章39節)

わたしは全ての目的 保護者 主(あるじ) 目撃者
わたしは住処(すまい) 避難所 そして友人である
わたしは起源であり消滅であり 万物の基礎
憩いの家であり 不滅の「種子」である   (第9章18節)

この「種子」とは何であるかということであるが、これは本ブログ第13章③インド哲学の中のヨーガ学派で紹介した因中有果論に出てくる「種子」に基本的に対応しているものと考える。但し、サーンキヤ哲学の場合は二元論であるから、「種子」はプラクリティの根源的な形態である「自性」の中に在るのだという説明を行っているが、筆者は「種子」とはプルシャ(純粋精神即ちブラフマン)の中に在るもの、或いはブラフマンの特性であり、ギーターの解釈が正しいと考える。更にこの「種子」は、基本的にはプラトンが言う処の「イデア」と略同じものであり、ブラフマンの中にイデアが「種子」として存在するのだと思う。即ち、全宇宙(森羅万象)も神霊界も、これら全ての現象世界はブラフマンの「種子」即ちイデア(原型)が、我々の「心」を通して展開している(或いは投影されている)ものだと考える。
尚、この部分に就いては、本ブログ第6章世界劇場④投影された世界も御参照頂きたい。

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