アセンションへの道 PartⅠ その理論と技法

2012年には銀河の中心と太陽系そして地球が整列し時代の節目を迎えます。アセンションの理論と技法について考えます。

第16章 神の詩 ⑥プルシャとプラクリティ

2012-02-10 06:01:13 | 第16章 神の詩
本ブログの第13章⑫で同じ題材を扱っている。そこでは、世界の成り立ちをプルシャとプラクリティに分けて論じる二元論の立場を取るサーンキヤ哲学(ヨーガ学派も同様)とヴェーダーンタ哲学の不二一元論は見かけ上は異なるように思えるが、プラクリティですらプルシャの展開であると考えることで、両者は本質的に異ならないものであるとの筆者見解を示した。それでは、この問題はギーターの中でどのように説かれているのであろうか。

以前本章③カルマ・ヨーガに於いても触れた部分と一部重複するが、先ずは物質自然(プラクリティ、肉体や心も含む)による活動を自分自身(真我即ちアートマン)の活動と考えてはいけないこと(ギーターの主題でもある)を説いた部分である。

物質自然(プラクリティ)の三性質(トリグナ)による活動を
我執の雲におおわれた魂は
自分自身が活動しているものと錯覚し
「私が為している」と思いこむ   (第3章27節)

だが剛勇の士よ 真理を知った人は
感覚が対象を求め また満足するのを
物質自然(プラクリティ)の三性質(トリグナ)の作用だと徹見して
決して自分の仕事に執着しない   (第3章28節)

ゆえにアルジュナよ 行動(しごと)のすべてを
すっかりわたしに任せなさい
利得を求めず 所有感を持たず
怯惰にならず 勇ましく戦え   (第3章30節)

わたしを信じてわたしの指示するままに
常に疑心なく 誠実に行動する者は
やがてカルマの鎖を断ち切って
自由になることができるのだ  (第3章31節)

次に、章は大分飛ぶが、プルシャとプラクリティの関係を第13章で次のように説明している。

さて 物質自然(プラクリティ)と霊魂(プルシャ)は
ともに無始であり
変化作用(ヴィカーラー)と三性質(トリグナ)は
ともに物質自然(プラクリティ)に属している   (第13章20節)

プラクリティはあらゆる物質現象の
原因と結果の根源(みなもと)であり
プルシャは物質界の多種多様な
苦楽を経験する原因である     (第13章21節)

プルシャはプラクリティのなかにあって
その三性質(トリグナ)と関係を持つ
三性質(トリグナ)との係わり方に応じて
善または悪の子宮に宿って誕生する  (第13章22節)

だが肉体のなかにはもう一つ
根本主である至上霊が住んでいる
それは至上我(パラマートマー)または超魂とも言われ
生者の全活動を監督し 認可し また経験する  (第13章23節)

プルシャ(個魂)とプラクリティ(物質自然)
またその三性質(トリグナ)の相互作用を理解する者は
現在どのような環境にいても
決して地上に再生しない    (第13章24節)

或る者は瞑想禅定によってそれを悟り
或る者は理論哲学(サーンキャ)を学んでそれを知り
或る者は名利を求めぬ仕事をして
それを通して至上我を見る   (第13章25節)

或る者はこのような霊的知識を知らなかったが
人からこれを聞いて至上者(わたし)を拝みはじめる
こうした人々も正智聞信の功徳により
生死の鎖から解放されるであろう   (第13章26節)

バラタ一族の最も秀でた者よ (筆者註:アルジュナのこと)
動くものも 動かぬものも
生まれ出たものはことごとく
用地(体)とその認識者との結合であることを知れ  (第13章27節)

そして すべての生物のなかに
等しく至上主(パラメーシュワラ)が住んでいる
必滅の体のなかにあるこの不滅なるものを
知る人は まことに存在の実相を見ているのだ  (第13章28節)

あらゆる所に あらゆる生物のなかに
ひとしく至上主(パラメーシュワラ)を見る者は
自分で自分を傷つけることなく
まっすぐに至高の目的地に近づく  (第13章29節)

すべての行為(カルマ)は物質自然(プラクリティ)によって
つくられた肉体が行うのであって
自己の本体(アートマン)とは無関係であると知る者は
存在の実相を見ているのである   (第13章30節)

物質体(にくたい)の千差万別を見て
差別観におちいらず 生物は全て
一なるものより発することを知ったとき
その人はブラフマン意識に達する   (第13章31節)

クンティーの息子よ 霊魂(アートマン)は不滅であって
物質自然(プラクリティ)の性質作用を超越している
それは肉体のなかに在るが
何事も行為せず 影響を受けない   (第13章32節)

エーテルは到る処にあるが その精妙さの故に  
どんな物とも混じりあわぬように
霊魂(アートマン)はどの体のなかにいても
何ものにも影響を受けない   (第13章33節)

バラタ王の子孫よ 一つの太陽が
この全世界を照らしているように
霊魂(たましい)は肉体のなかにあって
体の全部(すべて)を意識で照らしている  (第13章34節)

智慧の眼を開いて
肉体とその認識者との相違を知る者は
物質自然(プラクリティ)の鎖から脱出する方法も知って
至上の目的地に到達する   (第13章35節)

ここで注目すべきは、上記23節において肉体の中にはプルシャ(霊魂)とは別に至上我(パラマートマー)が住んでいると言っている点である。更にこの部分は、同書の脚註に次のように説明されている。

「個魂と超魂、または個霊と大霊。個体内にはこの二つがあるという考え」

しかしその直後に、「プルシャ(個魂)とプラクリティ(物質自然)またその三性質(トリグナ)の相互作用を理解する者」の説明(脚注)として、

「自己の本性を知った人。つまり梵我一如を大悟した人は解脱自由を得る。真我(アートマン)=至上我(パラマートマー)=大霊(ブラフマン)」

と書いてある。つまり敢えて云うと、前者が二元論的な発想であるのに対し、後者は不二一元論的な見解である。これらは些か矛盾しているようにも思えるのであるが、未だに悟りを開いていない者への説明が前者であり、悟ってしまえば真実は後者なのであるとの趣旨だと理解すれば良いと思う。

そして、筆者のこの見解を裏付けるように、同書第10章には次のように説明されている。

[至上者語る]
豪勇の士アルジュナよ
君はわたしの親友だから
いままでより更に善き知識を
君のために話して聞かせよう  (第10章1節)

千万の神々も偉大な聖者たちも
わたしの起源 全相を知ることはできない
なぜなら あらゆる意味において
わたしが神々と聖者の出所なのだから -  (第10章2節)

わたしが不生 無始であり
全宇宙の至上主であると知る者のみ
人間の中にあって幻影に迷うことなく
全ての罪けがれから解放される   (第10章3節)

知性 知識 疑心のないこと
寛容 正直 感覚欲の制御
幸福と不幸 誕生と死
恐怖 そして恐怖心の無いこと  (第10章4節)

非暴力 平静 満足
禁欲 慈善行為 名誉と不名誉
これらの多様な資質を
生物に与えるのはわたしである  (第10章5節)

七大聖 またそれ以前の四大聖 - そして
人類の祖・マヌたちはわたしの心から生まれた
無数の星界に住む生物たちはすべて
彼らを祖として発生したのである  (第10章6節)

わたしの この大いなる業(わざ)と力を
正しく知る者は不動のヨーガで
常にわたしと共に在る
これには何の疑いもない  (第10章7節)

わたしは霊界 精神界 物質界の全部(すべて)の根源
わたしから万有万物は発現し展開する
この真実を知る賢者は
全身全霊でわたしを信仰し賛美する  (第10章8節)

彼ら(筆者註:賢者)は常にわたしを想い
生活のすべてをわたしに捧げる
常にわたしについて語り合い
啓発し合うことに無上の歓喜(よろこび)を味わう  (第10章9節)

わたしを信じ わたしを愛して
常にわたしに仕える者たちに
わたしは見真の力(ブッディ・ヨーガ)を与える
それによって彼らはわたしのもとに来るのだ  (第10章10節)

彼らに特別な慈悲を施すため
わたしはそれぞれの胸に宿り
輝く智慧の燈火をもって
無知から生じた闇を破る   (第10章11節)

以上を解説すると、先ず8節において「わたしは霊界 精神界 物質界の全部(すべて)の根源 わたしから万有万物は発現し展開する」と説明している「わたし」は明らかにブラフマン(大霊)を指している。その「わたし」が、11節においては「彼らに特別な慈悲を施すため わたしはそれぞれの胸に宿り 輝く智慧の燈火をもって 無知から生じた闇を破る」すなわち個霊(アートマン)として働いていると言っているのである。従って、ここにおいてブラフマン=アートマンの関係が証明される。

更に、8節においては、ブラフマン(プルシャ)から万有万物(自然即ちプラクリティ)は発現し展開すると言っているということは、嘗て筆者が結論付けたように、プラクリティもブラフマン(プルシャ)の展開であり、ギーターも究極において不二一元論の立場をとるものだと考えて良いと思う。

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