アセンションへの道 PartⅠ その理論と技法

2012年には銀河の中心と太陽系そして地球が整列し時代の節目を迎えます。アセンションの理論と技法について考えます。

第18章 真理 ⑤禅

2012-10-19 06:47:35 | 第18章 真理
二十代後半から四十代にかけて、筆者は何度か禅宗の公案などに挑戦してみたが、正直なところ全く歯がたたないものが多かった。例えば、漱石の小説で知った公案だと思うが、「父母未生以前本来の面目」という公案があり、二十代の頃は全く意味が判らなかった。考えている内にすぐに眠くなってしまうので、夜ベッドに入ってから睡眠薬の代わりに使っていた時期もある。それ以外でも、例えば「隻手の声を聞け」など、或る意味で論理を超越したような表現があるので、筆者には余り向いていないのであろうと当時は思っていたが、改めて鈴木大拙師(以下、同師)の『禅』(同書)を読み返してみて、当時禅の公案が何故筆者の理解を超えていたのか、その理由がかなり明確に判ったように思う。
同書は同師の最晩年の著作であり、そのはしがきには、「この書は、自分が過去四五十年間に公にした大小の著作から、主として禅の本質と解せられるものを選出して邦訳し、一小冊としたものである。」と書いてあるので、それを更に凝縮して本稿に纏めてみたい。
先ず禅とは何か、である。

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禅は、伝説では、インドに起こり、六世紀の初めに菩提達磨によって完成した形で中国にもたらされたと考えられている。しかし、その事実上の起源は中国にあり、中国禅宗の第六祖と称せられる慧能(えのう、AD638-713)に始まる。ディヤーナ(禅那、禅定)をのみ重んずる考えに対し、強くプラジュニャー(般若、智慧=最高度の直観)の喚起を主張したのはかれ慧能であって、この事実が、それ以来禅として知られてきたものの起源を為すのである。ディヤーナの実行は、ついにはプラジュニャーを導き出すかもしれないが、これを禅の目標とは考えるべきでない。なぜならば、禅の意図するところは、つねには智慧が眠っている意識の奥底から、その智慧を喚び覚ますことにある。
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先ずは上記の“プラジュニャー”をどのように解釈するかである。筆者など瞑想中にサマーディ(まだ有相三昧である)に入り、プラジュニャーと思われる直観のような閃きを得ることがあるが、どうやらその段階で留まっているのでは未だ不十分であり、「完全な悟り」即ち無想三昧(アサムプラジュニャータ・サマーディ)に至ることを目標としているようである。関連する部分を同書から引用する。

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仏教はブッダの「悟り」の体験を中心に回転している、と自分は思う。・・・仏陀の教説は、かれの「悟り」を基礎とする。そしてその目的は、我々一人ひとりを、この「悟り」に至らしめることになる。・・・仏陀の「悟り」に基づくその教えを、弟子たちがただ鵜呑みにすればよいというようなものではない。それは弟子たちがそれぞれ自分自身の体験によって、みずからそれを味わう時に成立するのである。だから、仏教を学ぶには、我々は何よりも先ず、「完全な悟り」とは何かということを看取しなければならない。
でははじめに、仏陀はどのようにして、「悟り」の体験に到ったかをたずねてみよう。彼はいかにして正覚を成就したか。他の全てのインドの聖者、哲人と同じように、仏陀の第一の関心もまた、生死の束縛から解き放たれることであり、存在の手枷足枷から自由になることであった。・・・この人間存在の現実相に思いをいたすほどの者は、誰しもが、絶えずこの現実を超越せよと促す何者かをわがうちに感ずる。われわれは不滅を願う。永遠の生命を願う。絶対の自由を願う。解脱を願う。・・・この願い、若しくは望み、若しくは衝動は、まったく人間的である。つまり、これは、我々が自分自身の姿を省察し、己を内からまた外から取り囲んでいるものを認識し、そして自分をいま生きているこの生から引き離すことができるという能力ゆえに生ずる願いなのである。この願いは、これを形而上学的な述語に訳して言えば、「実在の究極的意味の探求」となる。そしてこの探求は、次のようないくつかの問いの形で表される。
「人生は生きるに値するものであろうか。」
「人生の意義は何か。」
「我々はいずれから来たり、またいずこに去るのであろうか。」
「このような問いを起こす我々とは何か。」
「この世の外に何者かがあって、己の気まぐれを満足させるために、世界を思いのままに
動かしているのであろうか。」等々。
これらの問い、ならびに同じ性質のその他の多くの問いは、一見どんなに異なっていようとも、実はみな同一の源泉から出たものである。それらはみな、生命の究極の運命についての問い、実在の意味についての問いなのである。そこで我々は、これらの問いをすべて一つに要約して問う、「実在とは何か。」・・・・

問いを解くとは、それと一つになることである。この一つになることが最も深い意味において行われる時、問う者が問題を解こうと努めなくとも、解決はこの一体性の中から、おのずから生まれてくる。その時、問いが自らを解くのである。これが、「実在とは何か」という問いの解決についての仏教者の態度である。換言すれば、問う者が、問いの外にあることをやめる時、すなわち、両者が一となる時、それらがその本来の状態にかえる時、を言う。・・・

こう言えば読者は問うて言うであろう。「あなたは“主体と客体の二つに分かたれる以前”と言い、“神が世界を創り給う以前”と言うが、それは“我々がまだ生まれない時”或いは“我々自身からいかなる問いも出でこない以前”ということであろう。もしそうだとすれば、我々には尋ねるべき何の問いもなく、したがって、何の解決もあり得ない。そればかりではない、いまだ神もなく、創造もなく、我々自身もなく、したがって問いもなく、全てが空虚に帰するのであるから、“悟り”そのものも何の意味も持たないことになるであろう。これは解決ではなくて、滅却ではないか。」

実際を言うと、この滅却のところが解決の拠点で、ここまで出てこないと解決はつかないのである。論理家の概念の上にある“滅却”は、実地の体験者から見ると、決して滅却でない。所謂滅却なるものを体得すると、それがそのまま肯定となる。すなわち、正覚となって現れるのである(筆者註:筆者はここで、ヨーガスートラ第一章2節にある“心の止滅”を連想した)。・・・

ともあれ、仏教者は“悟り”の体験をひたすら強調する。そこからはじめて、全ての問題の解決がもたらされるからである。・・・

道(筆者註:同師の意図は判らぬが、これはブラフマンと読みかえても良いと思う)は論理的理解力では届かない。思惟の営みの眼界の外にある。つまるところは、我々が流れの此岸にとどまるかぎり、“悟り”には到り得ないということである。これを自分は、「悟りの論理」と呼びたい。この“論理”が理解される時はじめて、我々はより正しく、仏陀の成就した“悟り”の体験の問題を取り上げることができる。・・・
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即ち、“悟り”ということは神我一体となる経験であり、それこそ無想三昧の状態を指すのではないかと思う。そして、そしてそれが禅でもその最終目標となっていることが判る。

この後、同師は哲学の限界(即ち悟りを体験していないものが、論理的に“実在”を理解することは出来ないこと)を説明している。筆者が、以前何度か禅の公案に挑戦し、その幾つかの問いには全く答えられなかったのも、悟りを開いていない者が論理的に考えた故なのであろう。このことは、仏陀の弟子たちが、仏陀の教えを正しく理解できなかった理由として、次のように表現されている。(同書P90)

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後世の仏教者が言うように、仏にしてはじめて他の仏を理解し得る(唯仏与仏)。我々の主観的な生命が、仏陀のそれと同じレベルにまで高められないかぎり、彼の内なる生命を作り上げている多くのものは、我々を素通りする。
◇◇◇

続いて、同師の説く不二一元論的な部分を引用してみたい。

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・・・では、魂が本当に、心から、平穏の中に安らぐことのできる非二元(不二)の大地はどこにあるのか。ふたたびエックハルトを引こう。「心単純な人々は、あたかも神は彼方にましまし、我々は此方(こなた)にいるのだと考える。そうではない。神と私とは、私が神を覚知する行為において一つである。」この事物の“絶対的一”に禅はその哲学の基礎を据える。(P130)
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◇◇◇
真理とは外にあるもので、感知する主体によって感知されるべきもののように思うのは二元的な考え方で、その理解は知性によることになる。ところが、禅が言うには、我々は真理の只中に、真理によって生きているのであって、それから離れることは出来ない。玄沙は言う、「我々は大海の中で、頭も肩も水に浸っているようなものである。しかもなお、我々は、さも悲しげに、水を求めて両手を差しのべているのだ」と。(P152)
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続いて、同師の説く「空」の概念を紹介しておきたい。

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禅は仏教の一派であって、釈迦牟他尼の悟りの体験から発展した。この体験は、“シューニヤター”すなわち、“空”の教義がもっともよく説明している。・・・
先ず第一に明記せねばならぬことは、“シューニヤター”は、それを“空”或いは“空虚”と訳す時に考えられるような、否定的な述語ではない。それは、明確な意味をもった積極的な概念である。しかし、仮定概念ではないから、抽象や一般論の所産と考えてはならない。それは、あらゆる存在を可能にするところのものである。だが、それでは、内在的なものであって、一切の存在の中、或いは下に潜在する独立した実体かというと、そうではない。相対の世界は、“シューニヤター”の上に、また、中になる。“シューニヤター”は、いわば全世界を包み、同時にそれはまた、世界に存在する一つ一つの事物の中にある。“シューニヤター”教義は、内在論でもなければ、超越論でもなく、もしこういうことが許されるなら、その両方である。もし、内在論と超越論は互いに矛盾するものだというならば、“シューニヤター”はその矛盾そのものである。矛盾といえば、相対立する二つの言葉が考えられる。“シューニヤター”は絶対的に一である。ゆえにそこには矛盾はない。
◇◇◇

以上の部分に関連している部分を『神の詩』(第9章4節)から引用するので読み比べて頂きたい。

非顕現のわたしのなかに
この全宇宙はひろがっている
全ての存在はわたしのなかにあり
私が彼らのなかにあるのではない

だが万物が物質としてわが内にあるのではない
これは至聖不可思議の秘密力なのだ
わたしは全生物の維持者であらゆる処にいるが
宇宙現象の一部ではなく創造の源泉なのだ

次に、同師がアートマンに就いて触れている個所を引用したい。

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幾たびとなく生と死の輪廻をくりかえしてきたという思いは、人びとが個人我の実体(アートマン)という観念にすがりつくことから起こる(筆者註:ここで言う「個人我の実体=アートマン」はプルシャではなく、プラクリティ即ち自我を指していると思われる)この観念を本来、虚妄、無常にして、条件によって存するもの、決して自在のものにあらずと看破して、払い去ってしまえば、彼はもはやそれに執着することはないであろう。垂木も、梁も、棟木も、すべてまったく打ち砕かれて、再び立てられることはないからである。それらはみな二元的な考え方の所産であった。この二元の生滅が、「無為」であり、「空」である。・・・仏教学者たちによると、この現象の世界は諸々の条件によって作られた「集成的」存在であって、独立に存する実体(アートマン)ではない。心が「無為」に到ったという時、それは、心が「絶対空」の状態に入ったといいうこと、一切の条件的制約から全く自由であるということ、「超越者」であることを意味する。言いかえれば、心は、いまや生と死とを越え、自己と非自己を越え、善と悪とを越えて、その究極の実体を得るのである。
◇◇◇

ここで同師は、「この現象の世界は諸々の条件によって作られた“集成的”存在であって、独立に存する実体(アートマン)ではない」とも説明している。ということは、筆者のように、「アートマン」即ち「真我」という定義とは些か異なる立場を取っているように思う。代わって、心が「無為」に到った状態を「絶対空」の状態と言い、「超越者」であると表現しているので、これはどちらかと言うと、筆者が考える「空」即ち「ブラフマン」に等しいのではないかと思う。一方で、筆者は「梵我一如」即ち「アートマン」=「ブラフマン」の立場を取っているので、誠に僭越ながら、同師の主張と筆者の主張に特段の差は無いと言えるのではないかと思う。それは、同書の次の部分からも明らかであると思う。

◇◇◇
“シューニヤター”(空)を見、“シューニヤター”を知るとは、“シューニヤター”が自らを見、自らを知ることである。外に見るもの、知るものがあるのではない。それ自身が自らを見るものであり、自らを知るものである。かくて“シューニヤター”が“アートマン”であって、即ち自己自身の主であって、それはほかの何ものにも、いささかも制約されない。ここに次のことが問われよう。もし“シューニヤター”を見、そして知るものは、“シューニヤター”自身であるならば、どうして我々人間が、それについて語ることができよう。我々は相対的に規定されている ― それなのに、いかにしてこの相対的に条件づけられた存在が“シューニヤター”の体験に到りえようか。
我々が“シューニヤター”(筆者註:「空」即ち「ブラフマン」)である。これが答えである。
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