アセンションへの道 PartⅠ その理論と技法

2012年には銀河の中心と太陽系そして地球が整列し時代の節目を迎えます。アセンションの理論と技法について考えます。

第18章 真理 ⑬聖なる科学 (その二)

2012-12-14 06:42:23 | 第18章 真理
前稿に引き続き、チッタ、アハンカーラ、ブディ、マナス等の説明である。先ずはサンスクリットのスートラから引用する。

「宇宙原子は、全知の愛(チット)の影響を受けて、チッタ(心)を形成し、その霊化した
状態をブディ(理性)という。その反対の状態をマナス(感覚意識)といい、そこには、
ジーヴァ ― 個別的存在観(自我意識=アハンカーラ)をもった自己意識 ― が宿る」

この部分は、大乗起信論が最初に心を大きく二つに分け、一方を心真如、他方を心生滅とに分けて論じていることを想起させる。続いてチッタとアハンカーラに就いて、同書からの引用である。

◇◇◇
個々のアヴィディヤ(無知)は、全知(チット)の愛の現れである聖霊の影響を受けて、ちょうど磁界の中に置かれた鉄粉が磁化するように、霊化して意識(知性、愛)をもつようになるそのときこれをチッタ(心)またはマハットと呼ぶ。するとその中に、自分を、他の者と分離した一個の存在と思う観念が生ずる。これをアハンカーラ(自我意識)または人の子(筆者註:この部分は前稿の引用部においても説明があった)という。
このように、霊的に磁化された心(チッタ)は、二つの磁極を持つ。その一つは、真の実体(サット:真理)に近づこうとし、他の一つは、反対にサットから遠ざかろうとする。前者は、真理を識別する理性(英知)となり、サットワまたはブディと呼ばれる。後者は、前述のように、チッタが全能の創造力(永遠の至福)の現れである宇宙原子の磁化されたものであるところから、反力として働き、喜び(アーナンダ)を経験するための感覚的仮空の世界をつくり出す。そこでこれをアーナンダトワまたはマナス(感覚意識)と呼ぶ。
◇◇◇

続いて、サンスクリットのスートラである。
「自我意識(アハンカーラ)を持つ心(チッタ:霊化された宇宙原子)は、五つの要素
(宇宙電気、霊妙な電磁界)として現れる。それら(五つの宇宙電気)は、プルシャの
根源体を構成する。この五つの宇宙電気は、三種のグナ(相)―サットワと、ラジャス
と、タマス―を現わし、それぞれ、ギャネンドリヤ(感覚器官)と、カルメンドリヤ
(行為器官)と、タンマートラ(感覚の対象)をつくり出す。これら十五の属性に、
感覚意識(マナス)と理性(ブディ)を加えた十七の要素が、リンガシャリーラ(精妙
なからだ)を構成する」

以上を読んでも、これだけでは殆ど意味が判らないと思うので、取敢えず話を先に進め、次にパンチャ・タットワ(創造物の根源体)に就いての説明を引用する。

◇◇◇
霊的に磁化された宇宙原子、心(チッタ)は、‘反力’となって現れ、その五つの部分―中央と、両端と、中央と両端の中間部―から、霊妙な五種類の宇宙電気を放射する。この宇宙電気は、聖霊の影響を受けて、真の実体(サット)に引き寄せられると、サットワ・ブディ(理性)のからだと呼ばれる磁界をつくり出す。この宇宙電気は、あらゆる被造物の根源であるところから、パンチャ・タットワ(五つの根源要素)と呼ばれ、プルシャ(神の子)の根源体(コーザル体)をなす。
二極化した心(チッタ)から放射される五つの宇宙電気もまた同様に極性を与えられ、三種のグナ―サットワと、ラジャスと、タマス―をもつ属性を現わす。
五つの宇宙電気の、サットワの属性は、五つのギャネンドリヤ(感覚器官)となり、心(チッタ)の陰性の磁極である感覚意識(マナス)の影響を受けて、感覚器官のからだ(筆者註:眼耳鼻舌身)を構成する。
五つの宇宙電気の、ラジャスの属性は、五つのカルメンドリヤ(行為器官:排泄、生殖、会話、歩行、手作業)となる。この五つの器官は、心(チッタ)の中和力の現れで、プラーナ(生命エネルギー)のからだを構成する。
五つの宇宙電気の、タマスの属性は、五つの感覚対象(タンマートラ)となり、これらはカルメンドリヤ(行為器官)の中和力によって、ギャネンドリヤ(感覚器官)と結合し、心の欲望を満足させる。
霊化された宇宙原子、心(チッタ)の、これら十五の電気的属成と、二つの磁極(マナスとブディ)が、リンガシャリーラまたはスクシュマシャリーラと呼ばれる、プルシャ(神の子)の幽体(精妙なからだ)を構成する。
◇◇◇

これだけの内容で、上記を理解することは甚だ困難と思われる。筆者自身も同書の11頁に掲載された図(SRFが作成した図であるが、非常に良く出来ているので、この部分を深く理解したい方には購読を奨める)を見て、朧げながら言わんとしていることが判ったように思うが、どうやらこれは、プラクリティ(自性)がチット(全知の愛)やアーナンダ(マーヤ)の影響を受けて、感覚器官や物質に展開していく経緯・状態を現わした文章のようである。
以下は再掲になるが、佐保田鶴治先生の『解説ヨーガ・スートラ』からの、自性の展開に関連する引用である。読み比べて頂くと、より深く理解できると思う。

◇◇◇
サーンキャ哲学の根本特色は二つの言葉で言いあらわすことができる。それは、実在論と多元的二元論という二つの言葉である。
サーンキャ哲学の実在論は、因中有果論という渾名によってまことに適切に標示されている。因中有果論というのは、結果は原因のうちに既に実在している、という主張のことである。この場合の因というのは、質料因と形相因とを兼ねたような意味合いを持っている。サーンキャ哲学者のよく使う喩えを借りるならば、陶工が一定量の陶土を使って、一つの瓶を作るという場合、因中有果論の立場では、結果である瓶は既に、最初に陶工が取り上げた一定量の陶土のなかに実在していたのだ、と考える。いかなる場合でも、それまでなかったものが新たに生ずるという考え方を許さないのである。
かように徹底した実在論であるから、この哲学は単に観念的な存在というものを、一切認めず、我々にとっては観念的と思われるものをも、実在論的な立場から説明しようとする。それでは、世界の究極的実在は何かといえば、この哲学では唯一の自性(プラクリティ)と多数の真我(プルシャ)とを立てる。多元的二元論というのはこのことである。客観世界の唯一の原因は自性であって、全ての存在はこの唯一の根本的実在から展開したのである。人間の心理的器官も自性の展開の結果である。サーンキャ哲学では、全てのものをつくり出す働きはもっぱら自性の責任に帰せられている。
それでは、真我は何のためにあり、どんな役目をするのか? 真我はいかなる作業もせず、永久不変であるから、心理作用の主体ですらない。真我はただ対象を見るはたらきを持つだけである。いな、見ることは真我の働きというよりも、寧ろ唯真我の在り方に過ぎない。真我は見るという能力だけからなる純粋精神だといってもよい。しかし、真我は自性から世界、万象が展開するのに無関係ではない。自性から世界が展開するには、真我と自性の出会いということが必要であるからである。この出会いにおいて、自性は自分の方から、真我の経験と解脱のために自らを展開するという任務を買って出た形になっている。
このようにして、自性は自分の中から万象を展開するのであるが、この展開のメカニズムは、自性が三つの徳(グナ)からなる合成物であるという点から説明される。三つの徳(グナ)とは、それぞれ違った性格、傾向を持ったエネルギー的な存在である。

(1) 喜徳(サットヴァ)は微細、軽快で、ものを照らし表す傾向をもち、心理的には快の
性格を帯びている。
(2) 憂徳(ラジャス)は活動の傾向を有し、心理的には不安の性格を帯びている。
(3) 闇徳(タマス)は粗荒で、ものをおおいかくす傾向を持ち心理的には鈍重の性格を
帯びている。

これらの傾向、性格の比較によって判るように、三者は互いに相反する関係に立つべきものであるが、しかも背き離れないで、互いに相依り、影響し合って、永遠に結びついてゆく。三つの徳の間のこのダイナミックな結び合いの上に自性は成り立っている。だから、自性には一瞬間も、静止とか不変とかいう状態はない。しかし、この瞬間瞬間の変化が、持続して同じ変化のくりかえしであれば、たとえば、平衡を保って廻っているコマのように、静止、不変の相を呈するであろう。そのように、三つの徳のダイナミックな相互関連が互いに平衡した力で行われていると、自性は静止した観を呈し世界万象の展開は起こらない。この時には自性は未分化の状態にあるから未顕現(アヴィアクタ)と呼ばれる。この未顕現の自性が、真我と出会う時、展開して顕現(ヴィクリティ)となるのは、自性の基礎因子である三徳の相互間における力のバランスが破れるからである。力のバランスが破れた結果、三徳の中のどれかが優勢になって他の徳を制圧する時に、未顕現の状態もまたやぶれる。かくして、世界の開闢がくるのである。世界開闢の初めには喜徳(サットヴァ)がまず優勢を占める。この時自性から展開したのが覚(ブッディ)である。覚は世界原理としては大(マハット)とも呼ばれる。それから憂徳や闇徳が優勢となるにつれて、覚以下の存在が順次に展開する。それらの存在は諦(タットヴァ)と呼ばれる。諦とは形而上学的存在とでもいうべきものである。その展開の順序を図解すると、

 自性→覚(大)→我慢(アハンカーラ)→意(マナス)→十根(インドリヤ)
                   →五唯(タンマートラ)→五大(ブータ)
   (筆者註:同書本分中の図において、我慢は意と五唯に分岐して繋がっている)

これらの各項について詳説する暇はないが、これらの名称を見ると、心理的な原理から五唯(物質元素のもとになる微細元素)、五大(物質元素)などの物質的原理が発生したことになっているのに気付く。このことは、サーンキャ哲学が心理的なものと物質的なものとを二元的に考えていないことを示すと同時に、この哲学の形而上学がもともとヨーガの心理学的から出ていることを物語っている。但し、心理的な原理から物質的な原理が顕現したと説いても、サーンキャ哲学は決して観念論ではない。心理的なものも物質的なものも、一様に実在的なものとして考えるのがサーンキャ哲学の立場なのである。
これらの諸存在はもともと真我のために展開したのであるから、五大以外は無始の過去から、個々の真我と結びついて離れないのである。これらが、その関係する真我と離れ去るのは、解脱の時以外にはない。世界の劫滅(世界も永い時間をかけて生滅輪廻する。その一度だけ生滅する時間を一劫といい、世界が未顕現状態にある間を劫滅という)の時でも、真我と他の原理とに結び付きは離れない。
我々が心理と呼ぶ現象は、真我と覚以下の真理器官との合作である。自性は元来無意識のものであるから、それから展開した諸器官だけでは心理現象は起こらない。意識性が生まれる原因は真我にあるといっても、真我が心理作用を為すのではない。我々が心理現象と呼ぶところのものは、覚以外のものの作業によって覚の上に創り出された形像に真我の光が落ちることによって、現れるのである。
自性が万物の原因であるといわれるけれども、実は三徳が世界万物の原因なのである。厳密に言えば、常にダイナミックな関係に結ばれているところの三徳が物質精神両面の存在の原因なのである。三徳は真我以外のいかなる自性にも常に必然に相即して存在する原因、即ち内在因である。三徳は世界の根源であるといってもよい。
自性が展開する根本動機は真我の解脱にあるわけだが、どうすれば解脱即ち真我独存は実現するか? 解脱の直接の原因は、真我と自性とが、混同すべからざる二者であることを本当に認識することにある。
ヨーガはその理論面においては、殆どすべてサーンキャ哲学に依っているといえるが、多少違ったところもある。例えば、心(チッタ)という概念は、ヨーガにとっては非常に大切な概念であるが、サーンキャ哲学の体系の中にはない。心(チッタ)はサーンキャ哲学でいう覚から意までを含む広い内包を持っているようである。解脱の因を真我と自性の弁別の智に置く事はサーンキャに似ているが、この真智に達する方法においては違っている。そのほかにも両思想の違った点は幾つかあるが、ここでは省くことにする。
◇◇◇

取敢えず先に進める。次はまた、サンスクリットのスートラからである。

「前述の五つの宇宙電気のタマスの属性である五つの感覚対象(タンマートラ)は、結合
して、物質の五つの形態の観念をつくり出す。即ち、固体、液体、火、気体、エーテル
である。これら物質の五つの形態と、前述の十五の電気的属性と、マナスとブディと
チッタ(心)とアハンカーラ(自我意識)は、創造活動の二十四の基本要素を構成する。」

続いて以下は上記スートラの解説である。

◇◇◇
前述の、五つの宇宙電気の陰性の属性である五つの感覚対象(タンマートラ)は、互いに結合して、五種類の物質の観念をつくり出す。これらは、我々の感覚に、固体、液体、火、気体、エーテルという五種類の形態として映る。これらはプルシャ(神の子)のいちばん外側の衣である物質のからだを構成する。
これら五つの物質と、前述の十五の電気的属性と、マナスとブディとチッタ(心)とアハンカーラ(自我意識)が、創造物の二十四の要素を構成し、聖書には‘二十四人の長老’と記されている。

「み座のまわりには、二十四の座があって、二十四人の長老がそれらの座に着いている
のを見た」 (ヨハネの黙示録4:4)
◇◇◇

このようにして考えると、我々の感覚や感覚器官、更には感覚対象の全ては、創造神の特性であるサット・チット・アーナンダから展開したものであることが判る。因みに、ここで忘れてはいけない最も重要なポイントは、ブディ(理性)が神に近づこうとする特性を有するのに対し、マナス(感覚意識)はその反力として(即ち神から遠ざかる方向に)働くという点であり、その意味からも、制感(プラティアハーラ)や離欲が重要であることを証明している。

最後に、こうした感覚に関連し、この世界がマーヤ即ち幻影であることを、「唯識」と同様の視点から説明した興味深い文章があるので紹介しておきたい。サンスクリットのスートラから始める。

「我々が夢の中で見る事物は、夢から覚めてみれば、何ら実体のないものであることに
気が付く。これと同様に、ふだん顕在意識で認識している事物も、実際に存在している
訳ではなく、単に我々がそのように想像しているにすぎない」

◇◇◇
我々がふだん目をさましているときの、周囲の事物に対する感じ方や認識のしかたと、眠って夢を見ているときの、夢の中の事物に対するそれとを比較してみると、その類似性から、自然に、この物質世界も実際は我々が感じているような存在ではない、ということに気付く。
そして、このことをさらに深く観察してみると、我々が目をさましているときの認識作用は、すべて何ら実体のあるものではなく、それは単に、五つの感覚対象(タンマートラ)と、五つの感覚器官(ギャネンドリヤ)とが、五つの行為器官(カルメンドリヤ)の仲介によって結合した結果生じた観念にすぎないことがわかる(特にこの部分は、唯識の「触」、或いは「三和合」の考え方に酷似している)。
この結合は感覚意識(マナス)の働きによってなされ、理性(ブディ)によって概念として把握される。このように、顕在意識における認識は、すべて単なる想像であり、その知識は推測的理解(パロクシャ・ギャーナ)にすぎないことが明白である。
◇◇◇

以上は同書における、ブッディ、マナス、アハンカーラ、チッタといった概念に関連する説明の一部であるが、このように突き詰めて考えて行くと、所詮我々が現実だと思っている現象世界は、マーヤ(幻影)に過ぎないということが良く判る。やはり、最終的には「離欲」、「無執着」といったことが重要であるということなのであろう。

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