アセンションへの道 PartⅠ その理論と技法

2012年には銀河の中心と太陽系そして地球が整列し時代の節目を迎えます。アセンションの理論と技法について考えます。

第18章 真理 ⑪イデアの世界 (その三)

2012-11-30 06:48:37 | 第18章 真理
前々回のスリ・ユクテスワ師の復活に続き、前回はJ.D.ストーン博士の『完全アセンション・マニュアル』や、『大乗起信論』、更に谷口雅春師の『神真理を告げ給う』等から「イデアの世界」に関わる部分を引用し、その共通する所を解説した。今回は、プラトンの教えから入りたい。先ずは、R.S.ブラック著(以下、著者)、内山勝利訳の『プラトン入門』(以下、同書)から関連する部分を引用していく。

最初は、プラトンが「世界の目的」をどのように考えていたのか、という点である。

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彼の哲学の基礎におかれたのは、ソクラテスの抱いていた確信であった。すなわち、この世界には一つの目的が存在すること、人はこの目的の本性及びそれと彼自身との関連の発見に努めるべきであること、そして、一旦それを発見したならばその人は自分の生き方をそれに一致させるよう望むであろうことがそれである。この目標或いは究極的かつ恒久的な真理を、プラトンは唯一の確実な行動の指針と考えた。・・・彼は神の定めたよき目的がこの世界を一貫していることを常にかわることなく確信し、彼の生をこの目的に合致させることが、人間の義務にして最大の特権であることを信じた。プラトンの尊厳は、自らが神から与えられた使命の遂行者であることを実感している人間の尊厳に他ならなかった。神命とは非道徳性や純然たる機械論的人生観と闘い、また宗教的な事柄をないがしろにする態度に敵対することであった。・・・人間にとってこの世で最も大事なことは知識と徳(筆者註:後述)を獲得することである。「その報酬は大きく、しかもその希望は大いにあるのだから」。
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ここで、プラトンはソクラテスの確信していた「この世界の目的」に自分の生を合致させることであると書いてあるが、それではその世界の目的は何かということには、何も触れていない。筆者の推測であるが、ソクラテスやプラトンが考えていたこの世界の目的は、あらゆる生命体、就中人間の、「魂の向上」ではなかったかと思う(プラトンの言う人間にとって大事なことは知識と徳の獲得であり、これは魂の向上と略同義と思われるが、それでは徳とは何かということを解説しなければならないので、ここでは説明を簡潔にするため言葉を置き換えた)。
次に、彼が輪廻転生を信じていたと思われる個所であるが、これは彼の著書、『メノン』の中で、ソクラテスが語った言葉として記されている。

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ソクラテスはそれ(筆者註:メノンの質問)に答えて、彼が「聖職についているある男たちや女たち」から聞いた話を援用する。それによれば、魂は不死であり、死にあたってそれは他の世界へと立ち去るのである。したがって、魂はこの世の物事も来世の物事もすべて見てとっているのであるから、あらゆる事物の知識を所有しているが、生まれるときに、この知識は忘れ去られるのである。だから、われわれが学ぶと言っているものはすべて、実際には「想起」に他ならず、しかもあらゆる事物はある意味で相互に同類的(筆者註:仏教で言う縁起のことを指すのであろうか?)であるがゆえに、何か一つのものについて想起すれば、他の多くの事物、いや他のあらゆる事物についての記憶も当然甦るであろう―。
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魂が出生する時に前世の記憶を消し去られるという話は、スピリチュアル系の別の本で読んだ記憶があるが、今どの本だったかは思いだせない。しかし、サンスカーラ(行)が我々の潜在意識の一部であり、そこに前世のカルマやヴァーサナが含まれており、通常それは我々の記憶の外に置かれていることを本ブログの読者は既に学んでおり、そうであればソクラテスの見解は的を射たものであることが判ると思う。
次は、彼が重視した「知識、徳、節度、敬虔」といった概念についてである。

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徳は魂の調和すなわち正しい秩序状態とされ、その状態において、様々な個々の徳目は、いわば綜合的な仕方で管掌されつつ、それぞれ固有の役割を発揮するものとなっている。その総括者に当るものは、訳語上の統一を期するために、節度と呼んでおこう。正義は我々を対人関係において正しくふるまわせる。敬虔は我々を神に対して正しくふるまわせる。また勇気は避けるべきものを避けさせ、直面すべきものに直面させる。・・・ある一定の生まれつきの素質を別にすれば、魂の正しい秩序づけに不可欠のものは唯一知識であるということである。
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ここで徳に関する説明の一部が出てきたが、以上の部分に就いての解説は不要と思われる。愈々イデアに就いてである。

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・・・彼に与えられたもう一つの手掛かりは、ピュタゴラス派の魂不死説(筆者註:霊魂不滅説とも言われる)であった。そこから、彼がこの問題に対して得た答えは、真に実在するもの ― 我々が定義を試みる場合にその対象として思考する実在 ― は、そもそもこの世界には、すなわち宇宙の中には存在しない、というものであった。そうした実在のありかは、他のどこか、我々の魂が生前に住まっていたいずこかの場所である。だから我々は、この異世界において見知っていたものについての知識を潜在的に所持しながら、生れ出て来るのである。何かそうした想定を立ててみることによってしか、我々の持つ一般概念というものは説明がつかないのではないか。たとえば「等しさ」がそうだ。というのは、我々がかつてこの世で見た如何なる二つの事物も、決して厳密に等しくはないのに、しかし我々は等しさの意味するものを知っているからである。我々がこの世で知る全ての事物は、真実在の不完全な似像でしかない ― その真実在をプラトンはイデアと名付けた。・・・イデアという語が指示しているのは、実在的、恒久的、実体的、自体的な存在性を具え、我々が見知っているとおりのこの宇宙の外部に存在する何ものかである。それに対して、我々の諸感覚が知覚するのはその「映像」ないし「似像」でしかない。イデアが存在するのは有の領域であって、この世界ではない。この世界は、プラトンによれば生成界である。そこは文字通り流転の世界であるが、どこか「天上のかなたの領域」―『パイドロス』のミュートスではこう言われている ― には、真の意味で存在する不滅の実在、我々が地上で目にするすべてのものの「範型」となるべきものが存在しているのである。
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ここでプラトンは、イデアが存在する「実在」の世界(或いは実相の世界)と、我々が現に生活しているこの世界、即ち「現象界」(同書では生成界と訳している)を明確に区別し、現象界はあくまでも「実在界」の映像でしかないことを説いている(本ブログ第6章④投影された世界を参照)。
次に、魂とイデアの関係である。

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・・・当の不死説を論証するために、多数の議論が提出される。その一つとして、反対関係にある諸事物は対をなしていることが語られる。― 反対物同士の間では、一方への増加があれば、他方は減少することになる。したがって、我々が絶えず目にしているように生から死への過程がある以上は、死から生への過程もまたなければならないである(筆者註:少々議論としては乱暴なように思えるが、輪廻転生の根拠を説明している)。あるいはまた、自然学者たちによれば、「何ものも無からは生じない」のであるからには、かの世における魂の、いわば「備蓄」は絶えず補給されつづけなければならない。さもなければ、この世の生命は絶え果ててしまうであろう。既に指摘されてきた通り、以上の議論から出て来る帰結は、魂の不死ということだけではなく、極めて多様である。魂の供給源は無尽蔵であるのかもしれないし、個々の魂は造物主によって想像されるのかもしれない。・・・ここでケベスは「想起」説を説明し、それを証拠立てるものとして、完全な等しさやそれに類した概念を我々が持っていることを上げるとともに、知識とはその対象について説明を与える能力を含んでいなければならないがゆえに、それらの諸概念に就いての知識は我々が生まれ出た時に失われたに違いないという事実を指摘する。「イデア」とは、したがって、感覚的対象とは異なったもので、不変かつ永遠的でなければならない。とすれば、我々魂が生誕以前に先在したとする説とイデア論とは、互いに依存関係にあると言うことになろう。両者は成否をともにする。
ここで「魂」(soul)と訳した言葉に当るギリシア語(プシュケー)は、前五世紀から四世紀にかけてのアテナイの一般人にとっては、我々がその語を使う際に結び付けるような様々な連想と無縁のものであったことに注意を向けておきたい。当時は、「生命原理」を意味するにすぎなかった(筆者註:元々‘生命の息吹’を意味したという説を読んだ記憶もある)。しかし、ピュタゴラス派の人々が、死後も何らかの仕方で魂が存在することを信じ、来世における存在という見地に立って、魂の「浄め」の重要性を信じていたことから、その後に多彩な意味内容を付与した。魂は人間の本質的部分をなすものとなり、仮の宿りたる肉体から分離したときの生(筆者註:即ち来世)に備えて浄められるべきだとされたのである。
プラトンは魂の意義を更に深いものにした。魂は、人間の内にあって、イデアを観得することのできる部分(筆者註:阿頼耶識の一部である如来蔵に相当すると思われる)のことである、と述べられている。つまり魂は、移ろい行く非実在的な感覚世界と永遠の実在的なイデア世界とのギャップを橋渡しするものである。
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上記の部分は非常に重要な個所であり、もう少し後に改めて取り上げたい。
次は、解脱を思わせる部分である。

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ソクラテスは話を進める。魂という目に見えぬもの、そしてイデアを把握する力をもち、しかも人間の内に在って我々を支配するものは、転変する感覚的現象世界よりも不変のイデア界と同族的でなければならない、と思われまいか。魂が肉体の汚れに染まりすぎた場合は、死後も自由を得ることができず、別の動物たちの身体の中に移り住まなければならないが、他方、できうるかぎり純粋なあり方を保ちつづけるならば、いつか最後には地上を立ち去って神々の仲間入り(筆者註:これがイデアの世界を意味するのであれば、完全な解脱を意味しているが、或いは幽界における最上界辺りなのかも知れない。ソクラテスがどのレベルを意味していたのか筆者には判らない)をすることができるのである。
この魂の輪廻転生というやはりオルペウス=ピュタゴラス主義的な教説が、ここにはっきりとしたかたちで取り入れられている。もっともそれは、おそらく、単にまことしやかな説として、魂の清めの必要性を論ずるためのものにすぎないであろう。
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この部分を読むと、どうやら著者は、ソクラテスやプラトンの哲学を研究しながら、他方「中世以降のキリスト教」の立場、即ち輪廻を否定する考え方から脱することができなかったようである。まさに、著者の阿頼耶識(魂)の中に、先入主として残っていたのであろう。聖書から「輪廻転生」を削り取ってしまったキリスト教の影響がここにも看取できる。
次は、魂が三つの部分から成り立つという説である。

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いま一つ、魂が三部分から成るとする考え方は、それの不死性について困難をひき起こすように思われはしないか、という点にも注意を払っておくべきであろう。魂の内には、知性と気概と欲望とが存在する、という。しかし、知性のみが道徳上の導き手であり、知性のみがイデアを把握する認識能力を具えている。つまり、知性のみが神的なものと類縁関係にあり、さらに、『ティマイオス』によれば、魂のうちで知性的な部分のみが不死なのである。・・・『饗宴』においえるソクラテスの話が明らかにしているように、欲望や感情の流れを知性の通路へと導くこと、そうすることによって魂全体を純粋な混じりけのないものにすることが、我々には可能なのである。・・・
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以上の部分も、プラトンが考える「魂」とは何であったのかを考える上で非常に参考になる箇所である。後程纏めて整理したい。
同書最後の引用になるが、本ブログ第17章①ヨーガとその歴史で紹介した、御者の喩えを想起させる箇所(但しそのものズバリではない)を発見したので紹介しておきたい。

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このミュートス(神話)の中で、魂は二頭の馬を操る御者になぞらえられている。御者は理性を表し、二頭の馬は欲望と感情(気概)を表している。かの世において神々の馬車はやすやすと進んで行くが、我々の魂の馬車は、いまだこの世の汚れをまとっているために、あちらこちらへと道をそれ、馬たちはちぐはぐな方向に引っ張ろうとする。魂の馬車には翼が備わっているのだが、しかし、一方の馬が十分に馴らされていない場合には、天空のかなたの領域にまで上昇していくことができない。そこに達することこそが、御者の欲する本来の目的である。なぜならば、そのとき永遠の実在、イデアそのものの世界を目のあたりにすることになるからである。・・・
◇◇◇

以上の通り、プラトンの説は、輪廻転生による「魂」の浄めということをメインテーマにして、それをイデアの世界との関わりの中で展開しているが、筆者がこれまで本ブログにおいて紹介してきた多くの考え方と大筋で一致していることがお判り頂けたものと思う。
しかし、ここで一つ明らかにしておきたいことがある。それは、プラトンの言う「魂」の定義である。プラトンによれば、それは(イ)輪廻転生の主体であり、その中には、(ロ)‘知性と気概と欲望(三つの部分)が存在’していて、(ハ)その内の知性は‘イデアを把握する力をもち、しかも人間の内に在って我々を支配し、転変する感覚的現象世界よりも不変のイデア界と同族的である’ということになる。

これを、既に本ブログで学んだ阿頼耶識の考え方、若しくは構造と比較してみると判り易いと思う。即ち阿頼耶識は、心真如と心生滅の二つの部分から成り立っている。この内、心真如は言葉を換えれば如来蔵であり、これこそが(ハ)で言う所の、‘イデアを把握する力をもち、しかも人間の内に在って我々を支配し、転変する感覚的現象世界よりも不変のイデア界と同族的である’という部分、即ち知性に相当するのであろう。つまり、(ハ)だけは、阿頼耶識の内の如来蔵に相当する部分と言える。(イ)で言う輪廻の主体は阿頼耶識(心真如と心生滅)であり、(ロ)の中の気概と欲望という部分は、心生滅部分であり、全く同義ではないにせよ、言葉を換えれば、カルマ(業)、ヴァーサナ(薫習)、クレーシャ(煩悩)等から構成されるサンスカーラ(行)に相当する部分であろう。

つまり、プラトンの言う‘魂’とは、阿頼耶識のことであり、これこそが輪廻の主体である。従って、ここで言う‘魂’という言葉は、真我(アートマン)ではないことに注意して頂きたい(本章⑧如来蔵と真我を参照)。ところが、筆者が以前この魂という言葉を、本ブログで真我という意味で使ったことがある。それは、第13章④においてであるが、その際は、ヴィヴェーカナンダの『ギヤーナ・ヨーガ』の中で、その訳文において、アートマンを魂と同義として扱っていることを、お断りした上で使っているので、疑問に思われる方はご確認願いたい。因みに、魂とか霊とかいう言葉は、使う人によって意味合いが異なるので、通常ヒンズー教の聖典では‘それ’(タット)という言葉でアートマンやブラフマンを表していると言われている。

これまでの議論の大筋を纏めてみると、輪廻の主体は阿頼耶識であり、それはプラトンが定義する魂と略同義と思われる。そして真我(アートマン)は更にそれより深いところにあり、阿頼耶識や魂とは分けて考えるべき我々の生命そのものである。それでは、イデアの世界はどこにあるのかと言うと、それがプルシャ(純粋理念)であれば、阿頼耶識や魂を越えて、更にその奥(或いは真我に限りなく近い処)にあり、我々が解脱して最終的に辿り着く目的地ではないかと思われる。おそらく、その時点で、我々の阿頼耶識からは、業、煩悩、否定的な薫習などが拭いさられて心真如(如来蔵)のみとなり、イデアの世界に溶け込むような状態になるのではないだろうか。これを地上で体験できるのが、若しかしたら無想三昧の中の最勝地と言われる法雲三昧(ダルマメガ・サマーディ)なのかも知れないが、筆者は未だ無想三昧の入り口にすら達していないので、断言はできない。

最後に、本稿の締め括りとして、ギーターの中から、この‘イデアの世界’に触れていると思われる部分を引用しておきたい。田中嫺玉氏の『神の詩』からである。

◇◇◇
知性少なき者たちは各種の神々を拝み
利益を得るが それは有限で一時的なもの
神々を拝む人々は神々の星界へ往き
わたし(筆者註:至上者)の信者は必ず私の星界に来る  (第7章23)

だがこの未顕現 顕現の現象(すがた)を越えて
別な世界が実在する
それは至上至妙にして永遠不滅
物質宇宙が絶滅してもそのままである
その非顕現の清浄界こそ
不滅の妙楽世界であり
そこに到達した者は決して物質界に戻らない
そこが私(筆者註:至上者)の住処(すみか)である   (第8章20-21)
◇◇◇

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