本章に入ってから大乗の話を続けている。そのきっかけが、「心」の構造を更に掘り下げようとして唯識を勉強し始めたところ、仏教の中に「唯識瑜伽行派」があることを知ったことであるのは、本章①仏教の中のヨーガに書いた通りである。
ところで、『大乗起信論』(以下、起信論)という書物の名前は二十代の頃から知っており、筆者の記憶から消えることは無かった。多分漱石の小説の中に出てきたのではないかと思う。その著者と言われる馬鳴(めみょう)の名前も忘れることがなかった。多分それだけ気に掛けていた為、潜在意識の中に強く印象付けられたのであろう。この起信論は、恐らく筆者が二十代の頃に読んだとしても全く意味を解することは出来なかったのではないかと思うが、最近(2-3カ月以前だと思う)になって初めてこの起信論を読み、簡潔ではあるが極めて奥深い智慧がその中に凝縮されていることを知って驚いた。就いてはその概要を更にコンパクトに纏めて紹介しておきたい。
一方筆者は本章の中で、釈迦の説いた無我の教え(アナートマン)は、本当に「真我」としての「アートマン」を否定するものであったのかどうかを検証しようとしている。もう少し詳しく説明すると、大乗において、この世界(器世間)は、基本的には阿頼耶識(或いは唯心)の展開であり、自分の心の中に映った像(相分)を、心の中のもう一つの自分(見分)が見ているだけであると説くものである。ところが、大乗の中には、「アートマン」の存在を否定する派と肯定する派がある(実際にはそれほど単純ではなく、いくつかの見解に分かれているようであるが)。ところが、「アートマン」を否定しても「真如」の存在を否定する説は見当たらないようなので、筆者は、これは単に「アートマン」をどのように定義するかという問題に帰着するのではないかと思っている。つまり、筆者は「アートマン」=「真我」=「真如」と定義しているのに対し、「アートマン」の存在を否定する見解は、「アートマン」=「自我」或いは別の実体と捉えているのではないかと推察している。
この問題に就いての解答は、起信論が教えてくれる。尚、引用するのは、宇井伯寿・高崎直道両氏の著した『大乗起信論』(岩波文庫)である。
先ずは「因縁分」、即ち起信論が書かれた動機で、次の八点に纏められる。
◇◇◇
第一に、―これは仏典述作の一般的な動機であるが―人々があらゆる苦悩から解放され、究極の安楽をえられるようにするためである。決して[著者自身が]世間的な名声や尊敬を受けるためではない。
第二に、如来の教えの根本義を解説して、人びとが正しく理解して過たないようにさせたいと念願するからである。
第三に、既に修行を積んで善根が成熟した者たちに対しては、彼らが大乗の教えを身につけて、不退転の信心が得られるようにするためである。
第四に、まだ修行が未熟で善根を積むことが少ない者たちに対しては、彼らが信心を起こし、[それを完成すべく]修行するようにしむけるためである。
第五に、[第四の目的を果たすために、まず]準備的な修行法(方便)を示して、[人々が]悪業の障りを消し、善くその心を護って、無知と高慢を離れ、邪見の網から抜け出せるようにしむけるためである。
第六に、[すすんで大乗修行の正道としての]止観の修行法を提示して、[大乗の修行者たちが無信心の]凡夫たちや(利他の実践につとめない)二種の実践道の修行者たちの心の欠陥を克服するようにしむけるためである。
第七に、[上記の準備行や止観の実践に堪えられないと思う心弱き人々に対して]心にひたすら[阿弥陀仏を]念ずるという方法を示し、そうすれば、その仏国土に往生して、必ず不退転の信心を得ることができる(と教える)ためである。
第八に、[この教えの実践から生ずる]利益を示し、修行を勧めるためである。
◇◇◇
そして、心の真実のあり方(心真如)を次のように示す。
◇◇◇
<心の真実のあり方>(心真如)とは、全てのものの共通の根元(一法界)、その全体に通じるすがた(大総相)であり、また、種々の教えの本体(法門体)である。すなわち、それは心の本性(心性)が、[生滅変化を越えて]不生不滅である点を指す。
◇◇◇
そして、まよい(無明)の基本的構造を“三細”として次のように説く。
◇◇◇
第一は<根元的な無知にもとづく業の相>(無明業相)である。[ここで「業」とは]真実を知らないこと(不覚=無明)にもとづいて、心に動きのあらわれることを<業>という。真実を知れば(さとれば)心の動きは止むが、心が動いている限り、苦が生ずる[すなわち、業は苦をひきおこす力をもつ]。結果は原因無しでは生じないからである。
第二は<主観としての相>(能見相)である。[真実を知らないために]心が動くと、[そこに主客の対立があらわれ、心は主観として対象を]認識、分別する。もし心の動きがなければ、心が主観として対象を見ることもない。
第三は<客観として現れる相>(境界相)である。心が動いて主観としてはたらくとき、真実に派存在しないのに対象がそこに現れる(妄現)。もし心が主観としてはたらくことがなければ、客観も成立しない。
◇◇◇
この第一の部分は、人が無明に基づいてカルマを作り続けている様子、第二の相は唯識で言うところの‘見分’であり、「自我」と言い換えても良いと思う。第三の相は、同じく‘相分’であり、自分の心に映じた対境である。起信論では‘妄現’と呼んでいるが、ヴェーダーンタなどで言う所の「マーヤ(幻影)」と言い換えても良いであろう。
そして、これまで見て来た唯識論とは多少異なるが、更に心を詳しく分析し、それを「六麁」と呼んでいる。詳しい説明は省くが、それらは感覚知に基づく「智相」、感覚知の持続する相である「相続相」、執着の相である「執取相」、名称による概念知の相である「計名字相」、種々の業を作る「起業相」、業によって苦に繋がれる「業携繋苦相」である。
次に、阿頼耶識の機能を以下の通り説明している。
◇◇◇
また次に、<生滅をおこすもの>(生滅因縁)[すなわち、<まよい><さとり>をあらしめるもの]とは、すなわち、衆生は、心に基づいて[その]意と意識とが活動する、ということで[心とその活動とを意味する]。これはどういう意味か。[ここで<心>とは阿頼耶識のことで、]阿頼耶識に基づいて<根元的無知>があると[経典に]説かれているからである。[即ち](1)真実を悟らないので(不覚)[心(=阿頼耶識)に] 動きが起こり、(2)[対象を]見て、(3)[対象を]現わす。そして、(4)その対象を取って[弁別し]、(5)それに対して思い(念)を起こして持続させる。そこで[これら一連の過程の拠り所となっている点で、動く心を](意)と名付ける。
◇◇◇
これに対し、「悟り」は次のように説明されている。
◇◇◇
このうち<さとり>(覚)としての内容とは、心の本性(心性)[すなわち<心の真実のあり方><心真如>]が分別・思惟を離れている(離念)ことをさす。分別・思惟を離れたすがたは、虚空界[がすべてのものに浸透している]ごとく、[すべての衆生に浸透していて]行きわたらざるところがない。それはすべてのものの根元(法界)として同一の相をもっている。またそれは、すべての如来に平等なる<法身>[すなわちさとりによって、ものの真実の姿と一体となった仏、法そのものとしての仏]に他ならない。そして、まさにこの全ての如来の平等な法身との関連で、[衆生の心の本性は]<本来のあり方としてのさとり>(本覚)とよばれる(筆者註:これこそ「本来衆生悉有仏性」ということであろう)。・・・なお、[「さとる」ということは我々の日常経験でも、いろいろの場合にいわれることであるが、ここでいう<さとり>は]、<心の生滅の根元>(心原=心源)をさとることであって、したがって、これを<究極のさとり>(究竟覚)とよぶ。
◇◇◇
本稿では「心の生滅」という言葉がたびたび使われているのであるが、この概念はいずれ(多分次稿で)説明することになると思うので、今回は読み流しておいて頂きたい。
次に、修行者が陥り易い誤謬のなかで、「人無我」(釈迦の説いたアナートマンのことを指すと思われる)ということに対する説明である。
◇◇◇
次に<客観存在の実体視>というのは、[弟子の道と独立修行者の道という]二種の実践道に属する能力の劣った修行者たちに関わる[誤った見解]である。[彼らのために]如来はただ「個人存在に実体はない」(人無我)とだけ説いたが、これだけでは究極の説ではない。[それを知らずにかれらは、人間存在は実体でないが、それを構成する]五種の要素という生滅する存在は客体としてあると見、生死輪廻を怖畏して[その生滅する存在を捨てて、即ち五種の集まりである個人存在を捨てて、生死・生滅のない]涅槃を獲得したいと誤って考える。どうやってこの誤解を正すか。それには、五種の要素(肉体と、感覚・表象・意思・認識という心的要素)は[仮構されたものであって]本来不生であるから、滅することもない。したがって、本来[非存在、すなわち]滅している(涅槃)からである[と説明する]。
◇◇◇
つまり、前稿で取り上げた鈴木大拙師と同様、馬鳴(通常「馬鳴菩薩」と‘菩薩’の尊称を付して呼ばれているようである。無論鈴木大拙師も菩薩級の魂であると筆者は確信している)も釈迦の説いた「無我」の教えは、誤って解釈されたものであると断じている。
極めて大雑把ながら、以上が起信論に展開されている理論の骨格と言えるものであるが、同書の優れたもう一つの点として、修行に関する考え方や具体的な修行法までをも示していることが挙げられると思う。先ずは信心の修行に関してである。
◇◇◇
要約すると信心には四種ある。どのような四種か。
第一は、根本を信ずること(信根本)。即ち、[心の]真実のあり方(真如法)を願い求めるからである。
第二は、仏派無量の徳性を具えていると信ずること。即ち、つねに仏を思い、近づき、供養し、恭敬しつつ、善根を起こし、仏と同じ一切智を得たいものと祈願するからである。
第三に、仏の教え(法)には大いなる利益があると信ずること。つねに[法を]思いうかべつつ、諸種の究極完全な行を実践するからである。
第四に、教団[の成員たる修行者達](僧)はよく自利の行、利他の行を実践するものであると信ずること。常にねがって菩薩たちに親近し、如実の行を学ぶべく努めるからである。
◇◇◇
続いて五門の修行ということが説かれているが、これらは布施、持戒、忍耐、精進、止観であり、六波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧を指す、本ブログ第9章⑩を参照)の内、智慧を除く全てに対応している。智慧(プラジュニャー)が除かれている理由は、思うに、それは修行の完成を意味しているからである(本章⑤を参照)。
次に止観に就いて説明している部分(止観門)から引用する。
◇◇◇
どのように止観門を修行するのか。ここでいう<止>とは、[心を安定・集中して]対象の相が現れないようにすること[すなわち心真如を念ずること]。[梵語の]シャマタ(寂静)の修習(観)にしたがい、[これに準ずる]ということである。また、ここにいう<観>とは、[諸々の現象の]因縁によって生起する相(即ち心生滅相) を見分けること。これは[梵語の]ヴィパシュヤナーの修習にしたがうということである。・・・
<止>[すなわち、一切の対象の相を見ないこと]を修行しようとする者は、まず、静寂なところに住まい、正しい姿勢で座り(即ち結跏趺坐して)こころ(意)を正すべきである。[かれは]息づかいにも、[対象の]形や色にも、また[対象が]虚空であるか[ないし]地・水・火・風[の何れ]であるかにも、気をとめてはならず、ないし、一切の見たり、聞いたり、感じたり、認識したりするところに気をとめてはならない。あらゆる想いを、その想いの生ずるごとに(随念)、ことごとく除き去り、しかも、除き去っているのだとの想いも捨てされ。一切の現象は本来、無相であるから、刹那毎に(念念)生ずることも滅することもないからである。・・・もし気が散ったときは、直ちに、一つのことに想いを集中して、<正しい考え>(正念)にとどまらしめるべきである。ここに<正しい考え>というのは、[一切の現象は]心のみであって、外界の対象は存在しない、そしてそのように思う心自体もまた、固有の相ではなく、刹那ごとに生滅し、知覚できないと知るべきである。さて、座禅から起ちあがって、歩いたり、立ち止まったりの動作をするときも、何時でもつねに[どうやって心を安定させるかの]方法を考え、それに応じて観察すべきである。[以上の<止>の修行について]が無く修練を積んで、その仕方に習熟すれば[心は]次第に鋭利になり、心はいつも安定する。心がいつも安定するようになればやがて<真如三昧>(真実のあり方のみひたすらに念ずる禅定)に随い入ることができるようになる。そうすると煩悩をよく克服し、信心はいよいよ増し、いち早く[さとりに向かう道において]不退の状態に到るであろう。・・・また次に、このような<[真如]三昧>に入ることによって、諸々の現象の根元は全て同一の相であるということ(法界一相)をさとる。すなわち、一切諸仏の本性としての<法身>と衆生の身とは、[その根元において]平等・不二であるという意味で、[それ故にこの三昧をまた](一行三昧)と名付ける。汝は知るべきである。[このように] <[真如]三昧>はあらゆる三昧の根本である。もし人が[この<[真如]三昧>を]修習すれば、あとは次々と無量の三昧を生ずるに到るからである。
◇◇◇
実は、この後、ヨーガ・スートラと同様、起信論においても「魔境」(本ブログ第17章21を参照)に就いての説明があるのだが本稿では割愛し、最後に「正観の修習」を紹介する。
◇◇◇
正観を修習する者は、次のように正しく観ずべきである。
[(一)法相観] 世間の全ての縁起した諸現象(有為法)は久しくその状態を持続することができず、たちまちに変化し、壊れる。また、一切の心のはたらきは刹那ごとに生滅する。それ故に、それらの現象は全て苦であると観ずべきである(筆者註:本ブログ第17章⑬一切皆苦を参照)。また、過去に思い浮かべた一切のことは恍惚として夢のごとく、今思い浮かべている事は稲妻のごとく、未来に思い浮かべることは突然湧き起る雲のように、[生滅変化はなかにものと]観ずべきである。
[(二)大悲観] また、次のように念ずべきである。一切衆生は無始よりこのかた、みな根元的無知のはたらきに浸透されているので、心の生滅を起こし、これまで己に身心のあらゆる大苦を受け、その結果として、今生において無量の苦にひっ迫されており、未来世にあってもその苦は限りなく、それを捨て、取り除くことは難事である。それなのに、なおそれを覚知しないとは、何と衆生は憐れむべき存在かとの思いをもつべきである。
[(三)大願観] このような思いを持ったとき、人は心を奮いたたせて、次のような大誓願をたてるべきである。―願わくは、わが心をして、[主客・自他等の]分別を離れ、それによって[心を]十方世界にあまねく行きわたらせて、一切の善行、徳行を実践し、未来の限りをつくして、あらゆる方便を巡らして、全ての苦悩する衆生を救済し、涅槃という究極最高の安楽を得させたいものである―と。
[(四)精進観] このような願を立てることによって、何時、如何なる処にあっても、あらゆる善行を、己に出来る限り、捨てることなく修習し、決して怠ってはならない。座禅中は言うまでもなく禅定(止)に専念すべきであるが、そのほかの時には、常に作すべきこと、作すべからざることを観察、判断すべきである。
こうして、[日常生活にあって]歩いたり、立ち止まったりして活動しているときも、或いは休んで臥しているときでも、また起きたときでも、禅定と正観を並び修すべきである。・・・
◇◇◇
以上はあくまでも、筆者が起信論の骨格と思われる部分を抜粋したものであり、これによってアートマンの存在を否定する説も誤りであることが大体お判り頂けたかと思う。しかし、本稿で起信論の概要を余す処なく示すことはとてもではないが不可能である。本書は仏教の枢要な教えを簡潔に網羅している大変素晴らしい書物なので、読者諸賢に於かれても、これを機に買い求めて是非一読することをお奨めしたい。
このブログは書き込みが出来ないよう設定してあります。若し質問などがあれば、wyatt999@nifty.comに直接メールしてください。
ところで、『大乗起信論』(以下、起信論)という書物の名前は二十代の頃から知っており、筆者の記憶から消えることは無かった。多分漱石の小説の中に出てきたのではないかと思う。その著者と言われる馬鳴(めみょう)の名前も忘れることがなかった。多分それだけ気に掛けていた為、潜在意識の中に強く印象付けられたのであろう。この起信論は、恐らく筆者が二十代の頃に読んだとしても全く意味を解することは出来なかったのではないかと思うが、最近(2-3カ月以前だと思う)になって初めてこの起信論を読み、簡潔ではあるが極めて奥深い智慧がその中に凝縮されていることを知って驚いた。就いてはその概要を更にコンパクトに纏めて紹介しておきたい。
一方筆者は本章の中で、釈迦の説いた無我の教え(アナートマン)は、本当に「真我」としての「アートマン」を否定するものであったのかどうかを検証しようとしている。もう少し詳しく説明すると、大乗において、この世界(器世間)は、基本的には阿頼耶識(或いは唯心)の展開であり、自分の心の中に映った像(相分)を、心の中のもう一つの自分(見分)が見ているだけであると説くものである。ところが、大乗の中には、「アートマン」の存在を否定する派と肯定する派がある(実際にはそれほど単純ではなく、いくつかの見解に分かれているようであるが)。ところが、「アートマン」を否定しても「真如」の存在を否定する説は見当たらないようなので、筆者は、これは単に「アートマン」をどのように定義するかという問題に帰着するのではないかと思っている。つまり、筆者は「アートマン」=「真我」=「真如」と定義しているのに対し、「アートマン」の存在を否定する見解は、「アートマン」=「自我」或いは別の実体と捉えているのではないかと推察している。
この問題に就いての解答は、起信論が教えてくれる。尚、引用するのは、宇井伯寿・高崎直道両氏の著した『大乗起信論』(岩波文庫)である。
先ずは「因縁分」、即ち起信論が書かれた動機で、次の八点に纏められる。
◇◇◇
第一に、―これは仏典述作の一般的な動機であるが―人々があらゆる苦悩から解放され、究極の安楽をえられるようにするためである。決して[著者自身が]世間的な名声や尊敬を受けるためではない。
第二に、如来の教えの根本義を解説して、人びとが正しく理解して過たないようにさせたいと念願するからである。
第三に、既に修行を積んで善根が成熟した者たちに対しては、彼らが大乗の教えを身につけて、不退転の信心が得られるようにするためである。
第四に、まだ修行が未熟で善根を積むことが少ない者たちに対しては、彼らが信心を起こし、[それを完成すべく]修行するようにしむけるためである。
第五に、[第四の目的を果たすために、まず]準備的な修行法(方便)を示して、[人々が]悪業の障りを消し、善くその心を護って、無知と高慢を離れ、邪見の網から抜け出せるようにしむけるためである。
第六に、[すすんで大乗修行の正道としての]止観の修行法を提示して、[大乗の修行者たちが無信心の]凡夫たちや(利他の実践につとめない)二種の実践道の修行者たちの心の欠陥を克服するようにしむけるためである。
第七に、[上記の準備行や止観の実践に堪えられないと思う心弱き人々に対して]心にひたすら[阿弥陀仏を]念ずるという方法を示し、そうすれば、その仏国土に往生して、必ず不退転の信心を得ることができる(と教える)ためである。
第八に、[この教えの実践から生ずる]利益を示し、修行を勧めるためである。
◇◇◇
そして、心の真実のあり方(心真如)を次のように示す。
◇◇◇
<心の真実のあり方>(心真如)とは、全てのものの共通の根元(一法界)、その全体に通じるすがた(大総相)であり、また、種々の教えの本体(法門体)である。すなわち、それは心の本性(心性)が、[生滅変化を越えて]不生不滅である点を指す。
◇◇◇
そして、まよい(無明)の基本的構造を“三細”として次のように説く。
◇◇◇
第一は<根元的な無知にもとづく業の相>(無明業相)である。[ここで「業」とは]真実を知らないこと(不覚=無明)にもとづいて、心に動きのあらわれることを<業>という。真実を知れば(さとれば)心の動きは止むが、心が動いている限り、苦が生ずる[すなわち、業は苦をひきおこす力をもつ]。結果は原因無しでは生じないからである。
第二は<主観としての相>(能見相)である。[真実を知らないために]心が動くと、[そこに主客の対立があらわれ、心は主観として対象を]認識、分別する。もし心の動きがなければ、心が主観として対象を見ることもない。
第三は<客観として現れる相>(境界相)である。心が動いて主観としてはたらくとき、真実に派存在しないのに対象がそこに現れる(妄現)。もし心が主観としてはたらくことがなければ、客観も成立しない。
◇◇◇
この第一の部分は、人が無明に基づいてカルマを作り続けている様子、第二の相は唯識で言うところの‘見分’であり、「自我」と言い換えても良いと思う。第三の相は、同じく‘相分’であり、自分の心に映じた対境である。起信論では‘妄現’と呼んでいるが、ヴェーダーンタなどで言う所の「マーヤ(幻影)」と言い換えても良いであろう。
そして、これまで見て来た唯識論とは多少異なるが、更に心を詳しく分析し、それを「六麁」と呼んでいる。詳しい説明は省くが、それらは感覚知に基づく「智相」、感覚知の持続する相である「相続相」、執着の相である「執取相」、名称による概念知の相である「計名字相」、種々の業を作る「起業相」、業によって苦に繋がれる「業携繋苦相」である。
次に、阿頼耶識の機能を以下の通り説明している。
◇◇◇
また次に、<生滅をおこすもの>(生滅因縁)[すなわち、<まよい><さとり>をあらしめるもの]とは、すなわち、衆生は、心に基づいて[その]意と意識とが活動する、ということで[心とその活動とを意味する]。これはどういう意味か。[ここで<心>とは阿頼耶識のことで、]阿頼耶識に基づいて<根元的無知>があると[経典に]説かれているからである。[即ち](1)真実を悟らないので(不覚)[心(=阿頼耶識)に] 動きが起こり、(2)[対象を]見て、(3)[対象を]現わす。そして、(4)その対象を取って[弁別し]、(5)それに対して思い(念)を起こして持続させる。そこで[これら一連の過程の拠り所となっている点で、動く心を](意)と名付ける。
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これに対し、「悟り」は次のように説明されている。
◇◇◇
このうち<さとり>(覚)としての内容とは、心の本性(心性)[すなわち<心の真実のあり方><心真如>]が分別・思惟を離れている(離念)ことをさす。分別・思惟を離れたすがたは、虚空界[がすべてのものに浸透している]ごとく、[すべての衆生に浸透していて]行きわたらざるところがない。それはすべてのものの根元(法界)として同一の相をもっている。またそれは、すべての如来に平等なる<法身>[すなわちさとりによって、ものの真実の姿と一体となった仏、法そのものとしての仏]に他ならない。そして、まさにこの全ての如来の平等な法身との関連で、[衆生の心の本性は]<本来のあり方としてのさとり>(本覚)とよばれる(筆者註:これこそ「本来衆生悉有仏性」ということであろう)。・・・なお、[「さとる」ということは我々の日常経験でも、いろいろの場合にいわれることであるが、ここでいう<さとり>は]、<心の生滅の根元>(心原=心源)をさとることであって、したがって、これを<究極のさとり>(究竟覚)とよぶ。
◇◇◇
本稿では「心の生滅」という言葉がたびたび使われているのであるが、この概念はいずれ(多分次稿で)説明することになると思うので、今回は読み流しておいて頂きたい。
次に、修行者が陥り易い誤謬のなかで、「人無我」(釈迦の説いたアナートマンのことを指すと思われる)ということに対する説明である。
◇◇◇
次に<客観存在の実体視>というのは、[弟子の道と独立修行者の道という]二種の実践道に属する能力の劣った修行者たちに関わる[誤った見解]である。[彼らのために]如来はただ「個人存在に実体はない」(人無我)とだけ説いたが、これだけでは究極の説ではない。[それを知らずにかれらは、人間存在は実体でないが、それを構成する]五種の要素という生滅する存在は客体としてあると見、生死輪廻を怖畏して[その生滅する存在を捨てて、即ち五種の集まりである個人存在を捨てて、生死・生滅のない]涅槃を獲得したいと誤って考える。どうやってこの誤解を正すか。それには、五種の要素(肉体と、感覚・表象・意思・認識という心的要素)は[仮構されたものであって]本来不生であるから、滅することもない。したがって、本来[非存在、すなわち]滅している(涅槃)からである[と説明する]。
◇◇◇
つまり、前稿で取り上げた鈴木大拙師と同様、馬鳴(通常「馬鳴菩薩」と‘菩薩’の尊称を付して呼ばれているようである。無論鈴木大拙師も菩薩級の魂であると筆者は確信している)も釈迦の説いた「無我」の教えは、誤って解釈されたものであると断じている。
極めて大雑把ながら、以上が起信論に展開されている理論の骨格と言えるものであるが、同書の優れたもう一つの点として、修行に関する考え方や具体的な修行法までをも示していることが挙げられると思う。先ずは信心の修行に関してである。
◇◇◇
要約すると信心には四種ある。どのような四種か。
第一は、根本を信ずること(信根本)。即ち、[心の]真実のあり方(真如法)を願い求めるからである。
第二は、仏派無量の徳性を具えていると信ずること。即ち、つねに仏を思い、近づき、供養し、恭敬しつつ、善根を起こし、仏と同じ一切智を得たいものと祈願するからである。
第三に、仏の教え(法)には大いなる利益があると信ずること。つねに[法を]思いうかべつつ、諸種の究極完全な行を実践するからである。
第四に、教団[の成員たる修行者達](僧)はよく自利の行、利他の行を実践するものであると信ずること。常にねがって菩薩たちに親近し、如実の行を学ぶべく努めるからである。
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続いて五門の修行ということが説かれているが、これらは布施、持戒、忍耐、精進、止観であり、六波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧を指す、本ブログ第9章⑩を参照)の内、智慧を除く全てに対応している。智慧(プラジュニャー)が除かれている理由は、思うに、それは修行の完成を意味しているからである(本章⑤を参照)。
次に止観に就いて説明している部分(止観門)から引用する。
◇◇◇
どのように止観門を修行するのか。ここでいう<止>とは、[心を安定・集中して]対象の相が現れないようにすること[すなわち心真如を念ずること]。[梵語の]シャマタ(寂静)の修習(観)にしたがい、[これに準ずる]ということである。また、ここにいう<観>とは、[諸々の現象の]因縁によって生起する相(即ち心生滅相) を見分けること。これは[梵語の]ヴィパシュヤナーの修習にしたがうということである。・・・
<止>[すなわち、一切の対象の相を見ないこと]を修行しようとする者は、まず、静寂なところに住まい、正しい姿勢で座り(即ち結跏趺坐して)こころ(意)を正すべきである。[かれは]息づかいにも、[対象の]形や色にも、また[対象が]虚空であるか[ないし]地・水・火・風[の何れ]であるかにも、気をとめてはならず、ないし、一切の見たり、聞いたり、感じたり、認識したりするところに気をとめてはならない。あらゆる想いを、その想いの生ずるごとに(随念)、ことごとく除き去り、しかも、除き去っているのだとの想いも捨てされ。一切の現象は本来、無相であるから、刹那毎に(念念)生ずることも滅することもないからである。・・・もし気が散ったときは、直ちに、一つのことに想いを集中して、<正しい考え>(正念)にとどまらしめるべきである。ここに<正しい考え>というのは、[一切の現象は]心のみであって、外界の対象は存在しない、そしてそのように思う心自体もまた、固有の相ではなく、刹那ごとに生滅し、知覚できないと知るべきである。さて、座禅から起ちあがって、歩いたり、立ち止まったりの動作をするときも、何時でもつねに[どうやって心を安定させるかの]方法を考え、それに応じて観察すべきである。[以上の<止>の修行について]が無く修練を積んで、その仕方に習熟すれば[心は]次第に鋭利になり、心はいつも安定する。心がいつも安定するようになればやがて<真如三昧>(真実のあり方のみひたすらに念ずる禅定)に随い入ることができるようになる。そうすると煩悩をよく克服し、信心はいよいよ増し、いち早く[さとりに向かう道において]不退の状態に到るであろう。・・・また次に、このような<[真如]三昧>に入ることによって、諸々の現象の根元は全て同一の相であるということ(法界一相)をさとる。すなわち、一切諸仏の本性としての<法身>と衆生の身とは、[その根元において]平等・不二であるという意味で、[それ故にこの三昧をまた](一行三昧)と名付ける。汝は知るべきである。[このように] <[真如]三昧>はあらゆる三昧の根本である。もし人が[この<[真如]三昧>を]修習すれば、あとは次々と無量の三昧を生ずるに到るからである。
◇◇◇
実は、この後、ヨーガ・スートラと同様、起信論においても「魔境」(本ブログ第17章21を参照)に就いての説明があるのだが本稿では割愛し、最後に「正観の修習」を紹介する。
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正観を修習する者は、次のように正しく観ずべきである。
[(一)法相観] 世間の全ての縁起した諸現象(有為法)は久しくその状態を持続することができず、たちまちに変化し、壊れる。また、一切の心のはたらきは刹那ごとに生滅する。それ故に、それらの現象は全て苦であると観ずべきである(筆者註:本ブログ第17章⑬一切皆苦を参照)。また、過去に思い浮かべた一切のことは恍惚として夢のごとく、今思い浮かべている事は稲妻のごとく、未来に思い浮かべることは突然湧き起る雲のように、[生滅変化はなかにものと]観ずべきである。
[(二)大悲観] また、次のように念ずべきである。一切衆生は無始よりこのかた、みな根元的無知のはたらきに浸透されているので、心の生滅を起こし、これまで己に身心のあらゆる大苦を受け、その結果として、今生において無量の苦にひっ迫されており、未来世にあってもその苦は限りなく、それを捨て、取り除くことは難事である。それなのに、なおそれを覚知しないとは、何と衆生は憐れむべき存在かとの思いをもつべきである。
[(三)大願観] このような思いを持ったとき、人は心を奮いたたせて、次のような大誓願をたてるべきである。―願わくは、わが心をして、[主客・自他等の]分別を離れ、それによって[心を]十方世界にあまねく行きわたらせて、一切の善行、徳行を実践し、未来の限りをつくして、あらゆる方便を巡らして、全ての苦悩する衆生を救済し、涅槃という究極最高の安楽を得させたいものである―と。
[(四)精進観] このような願を立てることによって、何時、如何なる処にあっても、あらゆる善行を、己に出来る限り、捨てることなく修習し、決して怠ってはならない。座禅中は言うまでもなく禅定(止)に専念すべきであるが、そのほかの時には、常に作すべきこと、作すべからざることを観察、判断すべきである。
こうして、[日常生活にあって]歩いたり、立ち止まったりして活動しているときも、或いは休んで臥しているときでも、また起きたときでも、禅定と正観を並び修すべきである。・・・
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以上はあくまでも、筆者が起信論の骨格と思われる部分を抜粋したものであり、これによってアートマンの存在を否定する説も誤りであることが大体お判り頂けたかと思う。しかし、本稿で起信論の概要を余す処なく示すことはとてもではないが不可能である。本書は仏教の枢要な教えを簡潔に網羅している大変素晴らしい書物なので、読者諸賢に於かれても、これを機に買い求めて是非一読することをお奨めしたい。
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