アセンションへの道 PartⅠ その理論と技法

2012年には銀河の中心と太陽系そして地球が整列し時代の節目を迎えます。アセンションの理論と技法について考えます。

第18章 真理 ④本来無一物

2012-10-12 06:58:54 | 第18章 真理
ここまで唯識の、かなり難解な説明が続いたが、大乗仏教は唯識のみに非ず、これを『禅』の方面からも考えてみたい。

筆者はアップル社の製品をこれまで買ったことも使ったことも無いが、スティーブ・ジョブズ(以下、彼或いはスティーブ)の名前と顔くらいは当然ながら知っていた。但し、彼個人に対する興味は殆どなかったので、彼に就いては全くと言って良いほど知らなかったのであるが、彼が死んだ後暫くして彼に関する本が多く出版され、それを読んだ知人が、「彼は菜食主義者だった」という話をしたのを聞いて彼に対する親近感が湧き、彼もヨーガに興味を持っていたのではないかとの漠然とした疑問を持ったものの、暫くそのままになっていた。ところが、この夏(2012年7月)に、ババジのクリヤー・ヨーガTeacher Training Courseに参加したところ、参加者の一人、モントリオール在住のA氏から、「彼はアデプトだった(元々錬金術を行う“達人”のことを指し、転じて超人とか名人といった意味あいも含めて使われているようであるが、筆者はその時、常人とは異なる霊的なパワーを修行等で獲得した人物と受け止めた)。」という話を聞き、益々彼に対する興味を深めた。
唯識に関するブログを書き始めてからも彼のことが頭から離れず、スティーブのことをもう少し知りたいと思ってウィキペディアを読んでいたところ、彼がヨーガに興味を持っていたこと、その修行を目指してインドに渡ったところすぐに赤痢に罹り、やむなく帰国したこと、後に彼は禅に興味を持ち、曹洞宗の乙川弘文氏を師と仰いでいたことなどを知った。そこでアマゾンで彼に関する本を捜したところ、石井清純氏(以下、著者)が監修した『禅と林檎』(以下、同書)という本を見つけ、早速取り寄せて読んだ次第である。

同書は、彼の残した「スティーブ語録」とでも言うべき名言を、禅の精神や曹洞宗関連の書籍(正法眼蔵など)に記録されている言葉と比較しながら、その真意を明らかにすると共に、スティーブの到達していた深い心境を明らかにしたものであり、禅の精神を知る上でも大変良い本だと思う。以下、筆者が興味を持った個所を引用していきたい。

◇◇◇
「金で人生を台無しにされたりなんかしないぞ」  スティーブ・ジョブズ

アップル社が大きな成功を収めた後、多くの社員は裕福になり、変ったとジョブズは言っています。中には、ジョブズから見て堕落したとさえ感じた人もあったようです。そのような状況の中で、ジョブズは「金で人生を台無しにされたりなんかしないぞ」と自分に誓ったそうです。

・・・この本(筆者註:『正法眼蔵随聞記』を指す)の中には「仏道を学ぶ物は、財を蓄えてはならない」という戒めが良く見られます。・・・その他、『正法眼蔵随聞記』には、「僧侶が道を損なうのは、多くは富んでいることから起こる。ただ、自分を損なうばかりでなく、他人に悪をさせる原因ともなるものである。仏法者は衣鉢の外は、財を持つべからず。」など、多くの説示があります。
ジョブズは、どんなに多くの財を持っていても、それに惑わされず、自分を律し続けました。財に惑わされたくなければ、それを遠ざけるのが一番の近道です。しかし、多くの財を持ちながらも、それにまどわされなかったジョブズは、もしかしたらそれ以上の境涯に至っていたのかもしれません。
◇◇◇

因みに、スティーブはその奇矯な言動を理由にアップル社から一度放逐されるが、再度その最高経営責任者に返り咲いた時に、年収1ドルで引き受けたことは有名な話である。
ところで、この「お金」の問題は、ラーマクリシュナも口を酸っばくして戒めていることで、以前本ブログにおいても紹介した記憶があるが、この問題は聖書でも取り上げているので紹介しておきたい。それは、イエスに走り寄って「永遠の生命を受けるために、何をしたら良いのか」と聞いた若者に対し、イエスが語った言葉である。

「いましめはあなたの知っているとおりである。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな、欺き取るな、父と母を敬え』」 すると彼は言った、「先生、それらの事はみな、小さい時から守っております」。 イエスは彼に目をとめ、慈しんで言われた、「あなたに足りないことが一つある。帰って、持っているものをみな売り払って、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、私に従ってきなさい」。 すると、彼はこの言葉を聞いて、顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。 それからイエスは見まわして弟子たちにいわれた、「財産のある物が神の国に入るのはなんと難しいことであろう。富んでいる物が神の国にはいるよりは、ラクダが針の穴を通る方が、もっとやさしい。」  (マルコ第10章19~24)

こうした事を、物語或いは他人の話として理解するのはたやすいのであるが、いざこれを自分に当てはめ、グルから「実践せよ」言われた時、本当にそれができるのか、正直な処未だ筆者には100%の自信が無い。

次は、英語で彼の言葉を先ず紹介するので、ここで一旦立ち止まり、どんな訳が適切なのか考えて頂きたい。

◇◇◇
「Journey is the reward.」  スティーブ・ジョブズ

沖縄県出身で米アップル社最高経営責任者を務め、ネクストジャパンの代表取締役も務めた比嘉ジェームズ氏によれば、ジョブズはよくこの言葉を語っていたそうです。「Journey is the reward.」を直訳すれば、「行程(道程)そのものが報酬である」という意味になります。これを「終着点は問題ではない」と訳したのは誰なのか、まさに名訳です。そして、この言葉は、丁度道元禅師の教えと直結するものです。
『法華経』「譬喩品」に、次のような語があります。

<此の宝乗に乗りて、直ちに道場に到る。>
これは、「ブッダは宝で飾られたすばらしい乗物に私達を乗せて、直ちに悟りの道場に連れていってくれる」という意味です。この言葉を取り上げて道元禅師は、
<ただちに至るという仏の道場は、この宝の乗物の中にある。>
と解説しています。終着点は、既に今乗っている乗物そのものだというのです。通常は、乗物に乗って、終着点である目的地に至る、ということになります。しかし、目的地に至ることが究極の目的ではなく、その営みの中に大きな意義があるということです。道元禅師はこのことを「修証一等」とも言いました。

仏法には、修証これ一等なり
<仏の教えにおいては、修(修行)と証(悟り)は同じである。>
というのです。ですから、
修のほかに証をまつおもひなかれ
<修行のほかに悟りを待つ(求める)ことはいけない。>
ともいわれます。
また、道元禅師は、修行ということについて、『正法眼蔵随聞記』で、次のようにも示しています。

仏道に入りては、仏法の為に諸事を行じて、代わりに所得あらんと思ふべからず。
<仏の道に入ったならば、唯仏の教えに従って修行を行い、その代償として何かを得ようと思ってはいけない。>
というのです。修行そのものが「悟り」である。この言葉は、まさにジョブズの言った、

「Journey is the reward.」 行程そのものが報酬である。

という言葉と同じです。「代償を求めない」ということは「終着点を問題としない」ということです。ジョブズは、これら道元禅師の言葉を学び、そして自らの生き方としていたと思われてなりません。
◇◇◇

正直な処、この「修証一等」という言葉は、筆者は初めて聞いたように思う(或いは依然読んだのかも知れないが、余り心に残らなかったのかもしれない)。しかし、今回同書を読んでこの言葉に触れただけでも、その価値が十分にあったと思える程のインパクトがある。筆者は今ババジのクリヤー・ヨーガの修行中であるが、その修行そのものが悟りなのであるという言葉は胸に迫るし、自分を勇気付けてくれる。
又、修行の他に「悟り」を求めてはいけないという言葉も、これはバガヴァッド・ギーターに説かれている離欲或いは無執着の教えと一致する。
以前本ブログ第16章⑧出家と離欲において既に紹介済みだが、関連する箇所を再掲する。

バラタ王家で最も秀れた人よ
離欲についてのわたしの判断を聞け
人類のなかで最も秀れた人よ
聖典は『離欲に三種あり』と説く   (第18章4節)

供犠 布施 修行に関する行為は
止めてはいけない 進んで行え
まことに この三つの行為は
賢者をも益々浄化するからである   (第18章5節)

だが これらの活動をするとき
執着なく 結果を期待せず行え
当然の義務だと思って行うことだ
アルジュナよ これがわたしの結論である  (第18章6節)

即ち、「悟り」ということにすら執着してはいけことを戒めている。筆者も心得ておく必要がある。
ところで、もう一つ彼の言葉を同書から紹介したい。

◇◇◇
「自分はいずれそのうちに死ぬと思うことは、私が人生で大きな選択にせまられた時に助けになる、最も重要なツールだ。」   スティーブ・ジョブズ

ジョブズの言葉には、続きがあります。
「なぜなら、殆ど全てのこと・・・・全ての外部からの期待、全てのプライド、全ての恐れ、きまり悪さや失敗に対する恐れなど・・・。これらのことは、死を前にして、本当に大切なものを残して消え去ってしまうからだ。あなたが死に向かっているということを自覚することは、何かを失うのではないかと考える落とし穴から逃れる、最高の方法だ。本来無一物(もともと何も持っていないのだから、何も失うものはない)。心のままに生きればいい。」

・・・道元禅師も同様のことを示しています(以下、原文は割愛)。  
<夜話に言われた、修行者は「必ず死ぬのだ」ということを思わなければならない。その道理はもちろんであるけれども、たとえば、その「必ず死ぬのだ」という言葉を思わなくても、まずは時間をいいかげんに過ごすまいと思って、無用のことを行って無駄に時を過ごさないで、有益なことを行って時を過ごすべきである。その行うべきことの中で、またあらゆる行いの中で、なにが大切であるかというと、(僧侶にとっては)仏祖が教えられている行い(筆者註:おそらく修行のことを指していると思うが、供儀や布施も含むと解する)以外は無用であると知らなければならない。>

・・・先ほどのジョブズの言葉の中で、「本来無一物」と日本語訳した部分の原文は「You are already naked」です。直訳すれば、「あなたは、すでに裸である」という意味です。ジョブズは禅の「何も持たない」あり方を、まさしく自分自身のありのまま、裸の姿として捉えていたのでしょう。
◇◇◇

この「本来無一物」という言葉は、よく掛け軸などにも書かれていて、時折目にするし、筆者も好きな言葉である。無論スティーブのように解釈するのが普通なのであろうが、筆者は「物質本来無し」と解釈している。これは、般若心経の「色即是空」と同じことであり、物質と見えるものは本来見える通りに「実在」するのではなく、すべて「空」即ちブラフマンが顕現したもの(ある意味で投影されたものであり、唯識で言えば心の中に現れたもの、ヴェーダーンタ風に言えばマーヤ即ち幻影)であるから、それに執着してはいけないし、かと言って無駄にしてもいけないという趣旨である。人によって様々な解釈があって良いと思う。

ところで筆者にとって、同書を読んで良かったと思える大変重要な点がもう一つある。引用箇所は、道元禅師の『学道用心集』の引用からはじまる。

◇◇◇
発心正しからざれば、万行空しく施す。
<発心が正しくないと、全ての修行が空しいものとなってしまう>

という言葉が出てきます。発心とは、修行の最初に起こす心です。その心が正しくなかったら、その後の全ての行いが無意味なものになってしまうというのです。つまり、動機が大切だということです。
ジョブズはこの言葉を知っていた筈です。そして、歳をとればとるほど、この言葉の通りであるという確信を深めた、と言っているように思われます。先ほど大切な「動機」とは、「正しい主体性」「正しい心の働き」による動機と言いましたが、それがどのようなものであるのか、禅の教えからも探ってみましょう。
禅の教えは、私達の心そのものの中に、仏としての本質(本性)を見るものであり、それと真正面から向き合う主体的な姿勢を要求します。例えば、「自性清浄」「見性成仏」「以心伝心」「即心是仏」といった禅の基本的な概念を示す言葉の中に、そのことはよく表れています。・・・・これらの言葉が示すように、禅は基本的な思想において、自己存在を清らかなものとして肯定し、本来清らかな自己存在を明確に把握し認識するものであると考えます。・・・
◇◇◇

本章でこれまで紹介した唯識論において「アートマン」の存在は否定されていたのであるが、筆者は同書を読んで、ここに書かかれている、「私達の心の中の仏としての本質」こそが「真我」であり「アートマン」であると読みとった。どうやら同じ大乗の中でも、「アートマン」の存在を肯定する派と否定する派が対立しているように思える。次回は「禅」の教えをもう少し検討して見たい。
最後に重要なことを一言、スティーブの愛読書は『あるヨギの自叙伝』で、年に一度は読み返していたそうである。若しそれが事実であるなら、これは筆者の想像だが、未だスティーブが若かった頃、インドに渡ったのは恐らくヨーガのグル(正師)を求めての旅だったのではないだろうか。そしてそのヨーガの技法は、ババジのクリヤー・ヨーガであった可能性が高い。

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