アセンションへの道 PartⅠ その理論と技法

2012年には銀河の中心と太陽系そして地球が整列し時代の節目を迎えます。アセンションの理論と技法について考えます。

第18章 真理 ⑰存在神秘の哲学 

2013-01-11 06:33:23 | 第18章 真理
これまで仏教の唯識派、禅宗、サーンキャ哲学、更にキリスト教などの一致点について述べてきた。この辺りで少々趣向を変えて、これらの宗教の説く真理と哲学との接点について考えてみたいと思う。
筆者にとって多くの哲学者の所説は正直なところかなり難解で、学生時代から余り得意な分野ではなかったのであるが、これまで興味を持った哲学者の思想を、本ブログ第6章世界劇場で紹介している。それらは、スピノザであり、プラトンであり、ハイデガーであるのだが、ハイデガーに関しては、本稿で以前彼の世界劇場論だけを取り上げている。ここでは、もう一度古東哲明氏(著者)の『ハイデガー=存在神秘の哲学』(以下、同書)に戻り、著者の助けを借りながら彼の存在論を掘り下げてみるつもりであるが、その前に彼の世界劇場論の意味するところを、今一度振り返ってみたい。第6章③から要点のみを抜き出して、コメントしてみる。「 」内の記述が同書からのものである。

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ハイデガーの著作には世界劇場論に関する幾つかの言及個所がある、と古東氏は言う。「・・・『根拠とはなにか』(筆者註:ハイデガーの著作)には‘演劇人間論’が登場。‘世界とは日常的現存在が演じている“演劇”と明言する。」 そして演劇と同様に、「ぼくたち人間が生きる生の現場には必ず、ある一定の‘世界’がつむぎだされてくる。目にはみえないがたしかに、ぼくたちの生の営みの辺り一面(周囲)に、まるで大気のように深くひろく、時々の場面に応じた重層的で可動的で濃密な、意味と情動のネットワークとしての‘世界’が分泌されてくる。つまり、生(現存在)と世界(周囲世界)とは、分離不可能な仕方で錯合しあっている、ということである。世界は生に依拠し、生との深い相関性のなかで初めて成立する。・・・生と世界は一体二重的に生起する。そういうことである。
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この部分で、著者がいう「つむぎ出されてくる」世界というのは、まさに我々人類の阿頼耶識を通じて現ずるこの現象世界のことであり、仏教風に言えば三界唯心のことを指しているものと思う。

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「世界は、個人の生と、密接にむすびついて成立する。しかしだからといって、その世界が、個人的な世界だというわけではない。個人がつむぎだす世界は、同時にすでに最初から、共同世界的ななりたちをしているからだ。たとえば、サラリーマン劇を演じるあなたの会社世界。たとえそれがどんなにあなた個人の創意と工夫をこらした世界だとしても、同時に最初から、他の同僚との共演舞台でもあるはずだ。」
「総じて、大小の舞台装置、役柄、場面、シナリオなどが複雑にからみあう生活コンテキスト(世界性)が刻一刻形成され、その不可視のコンテキストに多面的重層的に織り込まれるようにしてはじめて、ぼくたち個々人の生存活動(現存在)が、実現されていく。世界は同時に共同世界だということを、ハイデガーがなんども強調するのもそのためである。逆にいえば、‘世界’とはある意味ではその程度のものだということである。だから、あなたご自身の存在それ自体(自己自身)を体現した次元ではないということだ。もっといえば、自己自身など消すことではじめて世界はなりたつ。役者が生身の自分を舞台上から消し、役柄になりきることではじめて、演劇世界が成立しえているように。つまりこの世は‘お芝居’なのだ。」
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ここで著者は、この世界は「自己自身」を体現した世界ではなく、それを消すことではじめて世界は成り立つ。つまり、本当の自分である真我とは何かといった哲学的な問いを発することなく、殆どの人はこの世界劇場の役者に成りきって生活している。そういう形でこの世が成り立っているという意味なのであろう。それを、これまで学んできた知識で更に説明すると、その世界劇場のシナリオは既に阿頼耶識の中に書きこまれており、個々人も夫々のカルマを運命として背負って生きている、しかしそれはあくまで自我(或いは偽我)として役者(或いは役割)を演じているだけ、ということになるのであろう。そして、その世界劇場を本当の意味で鑑賞しているのは、他ならぬ真我なのである。

世界劇場の説明は以上とし、続いてプロローグから、同書の意図するところに関しての引用である。著者は「存在はどんな味か」と問いかける。

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・・・それにしても、なぜか。なぜあえて存在を味わおうとするのか。いきなり言ってしまうが、とほうもなくうまいからだ。至高の味がする。極上のワインの百兆倍。この世のものとは思えないほどだ。極度にありえないことがありえている。そんな香味さえただよう。それを一瞬でも味わえば、あらゆる問題が消えてしまうほどだ。極度にありえないことが、なのにありえていること(稀有)。この世ならぬものが、にもかかわらずこの世に実現していること(奇跡)。それを「神秘的」と形容することは許されよう。
ならば存在は神秘の味がする。
この本の意図は簡単である。存在を味わうこと。そして、存在が神秘の味(意味)を帯びていることを、どなたも直に確認して頂くこと。よって、あらゆる問題を解消して頂くこと。ただそれだけである。
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続いて著者は、「不問にされ続けて来た哲学の根本問題」について語る。

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そんなこの本を書くにあたり、なにより導きの糸になったのは、ハイデガーである。ハイデガーに言及することを縦糸や推進力にして、この本は編まれている。だが、それにしてもなぜことさら、ハイデガーなのか。理由は実に簡単。こんな存在の味(意味)について、まともに考え、ちゃんと応援してくれる哲学者は、彼ひとりしかいないからだ。
繰り返すことになるが、ぼくもあなたも死ぬ。その死のとき、こうして生まれ、この世に存在し、そして死ぬことの意味を得心して死にたいと思う。少なくともぼくはそう思っている。
哲学。それはまさに、そんな得心のための思考の営みのはずである。とりわけ存在論とはそんな、人間のみならず万物が<在る>ことへの、誰もが思いいだく疑念を晴らす営みだったはずである。「在ることへの問いかけ」。それが哲学であり、とりわけ存在論であったはずだ。
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暫く間をおいて、著者はハイデガーの生い立ちを説明する。

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はじめに、世界への素朴な信頼があった。南ドイツの深深とした田園地帯に、カトリック教会(聖マルティン寺院)の堂守の子として生まれた。質素な生活。だが世界は満ち足りていた。伝来の信仰がそれを補強した。秀抜な学業成績。当然のように神学生の道を歩む。将来の神父職を夢みる俊英だった(ヘーゲルもディルタイもニーチェもじつはそうだが)。・・・だが、世界とののどかな信頼と調和の関係はもろくも崩れさる。病気と戦争が引き金になる。まず1909年秋、最初の心臓発作(神経性心臓病)。死が濃厚に影を落とす。よくあること。とはいえ、若干二十歳で将来の夢(聖職の道)を断たれた。死の床をつきつけられた。この事実は思い。生老病死の不安問題が以後まさに肉体に刺さった棘となる。だがそれでもなお、むしろかえって、勤勉実直な神学徒でありつづけた。そのまなざしはいつも「彼岸的な生の価値」に向けられていた。 ・・・
だが、そのあとのことである。1911年と1914年。そしてさらに翌年。続けざまに心臓発作に襲われる。恐らく今度は、死すれすれの生を生きているような心地だったろう。もう、月面他界したような心地。そしてそれに追い打ちをかけたのが、第一次世界大戦である。 ・・・有史以来、最大の消耗戦。大量殺戮科学兵器が初めて使用されたからだ。電球や映画や飛行機が発明された栄光のベルエポックのなかで進歩した、科学技術の皮肉。しかも、後進国アメリカの参戦によって、ヨーロッパの紛争が解決をみる。西洋の自主性と知性の威厳は失墜。全世界に、「西洋の没落」を印象付けるにたる事件だった。
当然ではあるが、青年ハイデガーも、そんな時代の混迷と不安の渦のなかに、投げ込まれる。存在不安やニヒリズムの想いが襲来。西洋精神とその歴史や文化を支えて来たはずの、伝来の宗教システムへの根本疑念が、忽然とわく。素晴らしき世界。そう思われていたキリスト教信仰体系という名の月世界。それは良く見れば、クレーターだらけの不毛の土地。「生きた精神」が凍結する、まさに死の世界と痛感する。・・・
だが、その極限の不安と、ほとんど同時ではなかったかと思う。初期書簡や初期講義録の痕跡のなかに、憶測するしかないのだが、極限的不安といわば刺し違いのようなかたちで、ある決定的体験が、落雷のようにハイデガーを直撃したようだ。
もともとが神学青年。身に着けた宗教的瞑想法も、それに拍車をかけたろう。故郷メスキルヒ近郊のボイロン修道院にて、本格的な深い瞑想生活に入ることもあった彼。それはときとして、まずは殆ど死者ででもあるかのような境地へ誘う行法だったようだ。
別段特殊なことではない。瞑想行とは洋の東西を問わずもともと、生体を可能な限り死体に近づける擬死化の技法(メレテ・タナト)。・・・彼が「思索と人生の師匠」としたエックハルトの言葉で補えば、「そのときもはや肉体感覚はない。この世では死んだも同然である」(『離脱について』)、ということになろうか。
さて、死を極限まで思うそのメレテ・タナトの行法がこうじた或る日。ハイデガーは、最終最期のあるなにかを、確りつかむ。度重なる発病。その殆ど生を揮発されたような神学徒生活のなかで、しかも戦争で残虐の野原と化した焦土のなかで、むしろだからこそかえって、それまで見失われ、忘却されていたものがあぶりだされてきた。それが、先に述べた「生の事実性」である。「この生が存在するということ」。そう、初期講義録では、わざわざ言うこともある。・・・
そして絶体絶命のある日。突然、憑きが落ちたかのような覚醒の瞬間が訪れる。この世が有るということ。生が事実このように実現しているということ。その変哲もない存在の事実や生の事実の凄さに、まるで雷のように打たれる(脚注:存在に襲撃され、存在神秘に覚醒するこの出来ごとが、後にいうエルアイクニス。もっとも、「神聖顕現(パルージア)つまりエルアイクニス」という言い方で、すでに1921年講義に登場)。ハイデガーが初めて<存在を存在した>時である。
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これまで、本ブログを読んできた方に対する説明は不要と思われるが、上記は明らかに、ハイデガーが‘カトリック’の瞑想行法を通じて、「無想三昧」(アサムプラジュニャータ・サマーディ、本ブログ第17章⑱参照)に到達したことを示す記述であると思う。
因みに、プロテスタントではなく、常に‘カトリック’である。例えば、前稿にて触れた、仏教或いはヨーガとの共通点はプロテスタントではなく、カトリック或いはギリシア正教に見られる。映画、『オーメン』に出て来た悪魔祓いの神父もカトリック。又、本ブログ第14章⑪で紹介した通り、マーシャル・ゴヴィンダン師が助言を受けた、悪魔払いの神父もイエズス会の所属と言っているので、やはりカトリックである。つまり、筆者の推量ながら、同じキリスト教でも、カトリックには、イエスが伝えたところの、超常的な能力(所謂シッディ)をもたらす何らかの瞑想の秘義があるのではないかと思われる。そして更に踏み込んで言えば、それはイエスがインドでの修行を通じて習得したものと思う(本ブログ第11章③イエスの実像参照)。

次に、ハイデガーが言うところの、「最後の神」に就いて。

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それでは、ハイデガーが言う‘存在’とか‘存在の素顔’或いは‘存在神秘’とは何なのであろうか。古東氏が言うには、「最後の神。『哲学への寄与』の言い方をかりれば、むろんそれはもう、特定の宗教宗派の神ではない。複数か単数かもどうでもいい。だからもちろん、存在の起源に神をおこうというのでもない。・・・むしろ、議論は逆である。存在が神なるものを存在させる。・・・だから存在が神の起源。‘最後の神’ということでいわれていることの、それがエッセンスである。・・・よくいわれてきたように、‘神が存在である’ということでは、だからない。・・・さきにひきあいにだしたエックハルトなら、Istic-heitというところだ。その意味合いで晩年にハイデガーも、エックハルトを踏襲し、‘存在が神である’(存在が神をあらしめる)とふと漏らしている。」
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さて、上記をどのように解説したら良いのか、筆者ははたと迷ってしまった。というのも、仏教においてもキリスト教においても、ヨーガやサーンキャ哲学でも、「存在」ということばは使われないからである。いや、敢えて言えば、キリスト教(聖書)で云うところの、「I am」(「私は存在である」という神の言葉)が近いのかも知れないが、ハイデガーの言うところは、「存在が神」であるとは逆に表現している。恐らく、ハイデガーの意味するのは、存在即ちこの世に現象しているもの全ては神(或いは神の現れ)である、ということであろうから、釈尊が悟りを開いた時の言葉として知られている、「有情非常同時成道 山川草木国土悉皆成仏」という意味と推測される。ということは、やはりハイデガーは、エルアイクニス即ち無想三昧を通じ、釈尊のように神我一体の境地に至ったのであろう。

最後に、この「最後の神」とニヒリズムとの関係に関する部分を、同書から引用する。

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・・・だから、ハイデガーは存在に、さらに加えてそのかなたに神を認識したのではない。それでは彼岸の神。伝来の神に逆戻り。のちにみるよう、ハイデガーにとって、ニーチェの「神の死」(ニヒリズム)は決定的な問題だ。そこで死ぬ神とは、「最初に置かれた神」や「途中で召喚される神」、或いは「超越的な究極原理」のことである。・・・
ニーチェ同様に、彼も思う。神は死んだ。「最初に設定された神」や「途中ですがる神」。そんな神なら死んだ。死んでもいい、そんなものは神じゃないからだ。・・・
その<神の死>を真剣に引き受けて、彷徨い、惑い、苦しみ、死ぬほどの破局の果てに、まるで想いもしなかった「別の神」を体験する。それは、最後に神さえ想うほど、深く真正面から、存在の真理(存在神秘)に撃たれたことの別表現。そしてそれだけのこと。そう、ぼくは今では思っている。
◇◇◇

つまり、これまでキリスト教世界で伝えられてきた「神」の概念に、ハイデガーもニーチェと同様、別れを告げ、「存在」自体の素晴らしさに目覚めたということであろう。
かなり長くなったので、この先は次稿に譲ることにする。

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