アセンションへの道 PartⅠ その理論と技法

2012年には銀河の中心と太陽系そして地球が整列し時代の節目を迎えます。アセンションの理論と技法について考えます。

第18章 真理 ⑱時の秘密

2013-01-18 06:46:52 | 第18章 真理
前稿に続き、古東哲明氏(著者)の『ハイデガー=存在神秘の哲学』(同書)の内容を紹介して行きたい。本題から少し外れるようにも思えるが、ここで著者は「なぜ映画はおもしろいか」を問いかける。

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映画はおもしろい。つぎつぎおもしろい映画がやってくる。それにしても、なぜ映画はこんなにおもしろいのか。おもしろい映画とは、いつまでも見続けていたいと思わせるほどすばらしい映画。そう、ラフにいいかえていいだろう。では、いつまでも見ていたい(=おもしろい)映画であるために、最低みたさなければならない条件はなんだろう?
脚本がいい。映像が素晴らしい。監督の力量や、俳優の演技力がすぐれているなどなど。だが、それらは必ずしも、不可欠ではない。台本が不完全でも、未熟な役者なのに、感動的な映画はいくらでもある。・・・だとすれば、そうした要因は、おもしろい映画であるための、必要条件ではないことになる。
では、おもしろい映画であるために、最低みたさなければならない条件とはなんなのか。それはじつは、エンドマーク。・・・もしこんな終了マークがでてこなかったら、どうだろう。だから、いつまでもいつまでも、その映画を見続けなければならないとしたら、どうだろうか。吐き気がする。拷問のようだ。逃げ出したくなる。
おもしろい映画だから、それは定義上、いつまでもいつまでも見ていたいはずの映画だ。当然、終わってほしくない。だが、本当に終わりの無いエンドレスフィルムだとしたら、とたんに恐怖映画になってしまう。奇妙なパラドックスだと、いわなければならない。幸か不幸か、映画は終わる。どんな映画にも終わりだけはある。・・・
さて、世界劇場で上演されるぼくたちの人生劇。それもまた、事情は同じはずだ。だれだっていつまでも生きていたい。少なくともそう思える愉しい人生を生きたいと願う。だから死にたくはない。終わって欲しくない。死ぬのはいやだ。死は怖い。
だが、もし本当にいつまでもいつまでも生きていなければならないのだとしたら、どうなるのか。さきの映画の理屈からすると、愉しい人生が、とたんにつまらなくなる。むしろ、人生に終わりがあり、そのつらく哀しい死を想えば想うほど、いまこの一瞬一コマの生の光景が、輝きを増すことになる。・・・エンドマークにまつわるそんなパラドックスを、頭のかたすみにそっとおいたうえで、ハイデガーの実に独特な死の思想に潜入しよう。
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この後著者は、「日々の臨終」と題する、普通の人が驚くような説を展開する。

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死者ばかりが死んでいくのではない。生きながらぼくたちもみな、臨終している。
まずはこの奇妙なロジックを理解することから始めよう。ハイデガーはこう言っている。
 「ぼくが、ぼくの現存在(生)の<最期>にそうであるだろう存在。それは、じつは
  ぼくがどの瞬間にもそうでありうる存在なのだ」
「最期」とはむろん、生の末端の死去の時。そのとき、ぼくたちが死に切迫され、まさに死へ至る瞬間にあること。このことを、誰も否定はしないだろう。だがハイデガーはそんな平凡なことを確認しているのではない。ハイデガーの死の思想の独特なところは、そんな最期のありまさ(「死への存在」)が、実はどの瞬間にもあてはまる様式だと見抜くところにある。刻一刻、毎瞬が死に切迫され、死へ至る存在構造をしている。それが「もともとの生のありさま」(本来性)。そうハイデガーは言うのである。・・・
だから有名な「死への存在」とは、ぼくたちのいわば日常性。まさに、「死の瞬間が生命の標準時」(藤原新也『メメント・モリ』)というわけだ。パウロも言っている。「日々ぼくは死んでいる」(「コリント人への第一の手紙」15-31)。日々どころか、毎秒、毎瞬、死んでいる。
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このことを、筆者は映画の仕組みを例にひいて説明する。同書に掲載されている図を表示できないので多少判り辛いかもしれないが、そのまま引用する。

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映画のフィルム。図のフィルム末端が、死(終わり)に切迫され死へ至る一コマであることは、どなたもご異存なかろう。その最期の一コマをスクリーン上に映写すれば、左側の図(銀幕上の動画面)となる。↓は終わり(死)に臨む動性(臨終性)を示す。それはしかし考えてみると、次の画面へ以降しようとする動性。べつだん最期の画面だけに固有の動性ではない。動画であるかぎり、どの画面もみたさなければならない前提構造だ。最期の画面の場合、たまたま次の画面へ連接していかないだけ。それ以前の画面の場合、消失するこの動性ゆえ、ふたたび画面が戻ってくれる。つまり、終わり(死)に臨む動性は、どの画面にもあり、それが同時にあらたな画面を生み出す動性ともなっているということだ。
そんなスクリーン上の画面のことを、いま一度静かに想い浮かべて欲しい。むしろあなたご自身が、上映中の画面だと想ってほしい。一枚の銀幕の上に、刻一刻くりひろげられる動画面(現存在)の、奇妙な死と性の同時進行がみえてこないだろうか。
左の図をご覧いただきたい。動画である上映中の画面は、映し出された端から消失し①、消失しながら同時に現出しているはずだ②。現出しながら消えているというべきか、消えながら現出しているというべきか。死が生で、その生が死となり、その死において生がはじまる・・・そんな生(初発)と死(終滅)との奇妙なパラドックス構造、或いは同時進行。だから、もはや、終わりと初め、死と生といった思い慣れた二分法では割り切れない、両項の奇妙な回互運動のなかで刻一刻、画面が生起していることが、おわかりだろう。
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次に、いよいよ著者は「時の秘密」に迫る。

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先ず指摘しておきたいことは、「現存在が行う運動としての時」ということである。むしろ端的に、現存在(生)が時である。時なるものが流れていて、その中に現存在という舟が浮かんでいるのではない。「もともと現存在が時なのだ」。主客をかえせば、「時が生である」という、M.エンデ著『モモ』の時論にも通じる話しだ。
ここで「時」とは一瞬の運動生起。先に見た、①と②とが交差する一瞬刹那のできごとである。だから所謂「時-間」ではない。間(スパン)のある、まるで川の流れのような直線時間を考えてはいけない。或いは、変化の順序を規定する図式(カント)を考えてはいけない。考えてはいけないといっても、普通時間といえば、そんな直線時間や計測スケールを考えてしまうから、なかなか得心はいきはしない。いきはしないが、現存在(生命のいぶき)が時だということだけ、先ずはしっかり記憶して頂きたい。繰り返すが、時とは一瞬刹那の生起。瞬時のことである。というか、瞬時以外にリアルな時などない、ということだ。
 「時は決して長くはならない。なぜなら、時は、根源的に、いかなる長さももって
  いないからだ」
先に見た動画面。それはまさに一瞬で始まり、と同時に一瞬で終わる。その「生と死との間に伸長する」一瞬刹那の動的生起を、時というわけだ。だから、現存在が生きている<間>があるとしたら、それは一瞬だけであり、それで「現存在の全体」は尽きているということになる。そんな現存在の有様を、だからハイデガーは刻一刻性とも形容する。はかない刹那の刻一刻の<時>が、現存在(生)の全貌というわけだ。だからストレートに、「時は瞬間」とも「しばしの時」ともいう。・・・もちろん、そのしばしの時なる一瞬刹那は、先に見たように、とても動的ななりたちをしている。死して消失していく将来的動性は、しかし同時に、次の瞬間を取り戻し創出させ、死なずに「在った」という既在的動性へ変成し、その結果、刻一刻の現在へ見開かれていくことに、つらなる。この三つの動性が、三位一体的につくりなす一瞬の生起。それが<時>なのである。・・・
この三つの時制(将来性・既在性・現在性)が切り結ぶ、まさに儚い一瞬の時を刻んで生きるぼくたちの現存在の在り方(時を刻む刻み方)。それが、いうところの刻時性(普通「時間性」と訳す)である。あくまで<時>を刻一刻に刻んで生きる、ぼくたち人間存在の在り方や態度を、ハイデガーは刻時性と呼ぶのである。誤解ないように注記するが、時なるものが、人間の生と無関係にまずできあがっていて、それを後から刻むということではない。生きるということがそのまま、時を紡ぎ出すことに他ならないということだ。だから、刻時性と時とは、別々のできごとではない。
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そして、驚くべきことに、著者は「一瞬刹那がぼくたちの全生涯である」と言う。

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・・・生涯とは、生誕と死亡との中間地帯。過去の方向の一端に誕生があり、未来の端に死亡があり、そのゆりかごから墓場までを結ぶ直線区間のこと。・・・だが、リアルな時の考え方からすると、そのような間隔や区間という名の持続時間など実在しない。時は、刻一刻の刹那だけである。そしてその<時>が、一方で「死への動性」、他方で「生誕への動性」を内填し、その両動性の相互包含的な<間>として、ぼくたち現存在が生起する。その意味で、一瞬一瞬の刹那存在それだけですでに、「死と生との間の伸び広がり」としての生涯概念の内包を満たしている。つまり、一瞬刹那の存在が「現存在の全体」(随所)である。直線時間論からすれば儚く見えるどの一瞬もが全生涯であり、<生誕から死までの全幅>を尽くしていることになる。
 「現存在は、自分の存在を[死亡と生誕とへ]伸張することとしてはじめから構成される
  という仕方で、自らを[死と生誕とへ刻一刻]伸張している」
つまり、現存在は、その外部に誕生や死を持たない。実存それ自体がもとから、初めと終わりとを同時に内に含んで展出し、自らを繰りだし繰り拡げ終滅させていく、「自己完結的な自己伸張運動」なのである。実存のこの自己内発的な刻一刻の生滅性に着目して選ばれた概念が、そもそも「生起」である。そんな生起論が理解できれば、これまで誤解や糾弾ばかりにさらされてきた、ハイデガー独特の一連の歴史語群も、すっきり理解できるようになるはずだ
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次に、ハイデガーが用いる「歴史性」、「宿命」、「運命」という言葉の独特の意味について触れている。

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先ず、素朴な確認をしておくが、今ここのこの一瞬の生起は、「二度とない、永劫に唯一一回きり」である。時は今ここに始まって、今ここで終わってしまうのだから、そういうしかない。この「唯一一回性」ということが、「歴史性」という形容詞の基本義である。そんな唯一一回的な今ここの生起を、刻一刻、だれしもが過ごしているありさま。それを歴史性という。刻時性(筆者註:既出)と同様に、歴史性もまた、あくまでぼくたち現存在の在り方のことである。
一瞬の生起を見過ごすことだって、立派に<過ごし方>には違いない。それが非本来的歴史性である。これに対し、刻一刻の生起のその唯一一回性を自覚し、覚醒的な態度(打ち開かれた態度)で過ごす在り方が、本来的歴史性(歴史性の覚醒態)である。
もう少し補って言えばこうだ。つねに過ぎ去りゆく一瞬が、生。その一瞬の生をしかと目撃し、ことさら引き受け、そこへ開けきっていこうとする態度。それが本来的歴史性ということである。だからとくに宿命ともよぶ。
 「打ち開かれた態度に含まれていることだが、瞬間の現(Da=今ここ)へ、先駆する
というしかたで引き渡されていくことを、宿-命という」
文字どおり、<命が宿る、この世に、刻一刻に>。それくらいの意味で、「宿-命」をお考えいただきたい。だから「宿-命」とは、『今ここの刹那の命の宿りを享け、その唯一一回性にピタッと即応しつつ過ごすありかた』、というほどの意味。もはや通念的な歴史性(人間が伝承や時代や社会に制約されているありさま)や、宿命概念(人間の意思を越えて身に及んでくる事のなりゆき)とは、一線を画す次元の話である。
もしそうであれば、ハイデガーのいう「運命」も、通念から大きく離れて考えなければなるまい。運命とはおおむね、『今ここに登場する物や人と、永劫に唯一一回きりの出会いの時を果たしていること』ほどの意味。本人が気付いていようといまいと、『奇しくも今ここで座を時を共にすること』といった仕方以外に、人がものや他者に出遭う在り方はない、ということである。全てのものが「命を共に運ばれている」。そのぼくたちの存在様式を「運-命」というわけだ。「運命ということで理解しているのは、現存在が他なるものと共に在るという生起のことである」。だとすれば「運命」は、「存在論的めぐりあい」が適訳かと思う。決して通念的運命概念[意のままにならない超越的な力に左右されていること]ではない。一期一会的な、ささやかだが気付けば清冽きわまりない、ぼくたちのリアルな有様だ。相手も場所も時も選ばない。全てのものに、いつどこででも無条件に樹立されてゆく、存在論的共同性つまり「共存性」の実現のことである。
◇◇◇

筆者は上記を読み返してみて、茶道でよく言われる、「一期一会」という言葉を思い出したが、それは個人レベルでも比較的普通に考えられている話。ところが、実のところハイデガーは、この時刻性を宇宙レベルまで広げて考えている(同書P186)。

◇◇◇
この存在神秘の想いは存在の刹那性を重ねあわせるとき、さらに高騰しよう。存在が刹那の『念々起滅現象』(筆者註:『』は筆者が付した)だということ。ここには、あらゆるものが、在化を兌換できず、いつ非在化し切っても不思議でない事が含意されている。なぜなら、非在化を代価に在化が兌換される必然性など、「存在の非必然性」ゆえ、ないからだ。・・・
さて、存在が念々起滅の刹那現象だということは、その始点がそのまま終点と重なっているということでもあった。とすれば、どの刹那の存在も、それ自らが、自らの発現地であると同時に、自らの消尽点をなすことになる。・・・
つまり<今ここ>の存在は<今ここ>で「最期の一滴まで飲み干される。明日、次の時のために、なにひとつ、残していない」(レヴィナス『存在から存在者へ』P127)。瞬間の起源は、それ自身にあり、その結果も自らつけていくわけだ。・・・
言い換えれば、一瞬一瞬が全面的に新しい再発、不断の創造。どの瞬間もが新しい時の開始であり、その意味ではいつも常に天地創造だということである。が、いつもつねに始まりでありうるためには、同時にいつもつねに終滅でなければならない。そのかぎり刻一刻の存在(瞬間)それ自体、つねに天地の初めにして最期の時。
さてもし刻一刻が、不断の<天地創造即世界終末>だとすれば、刻一刻の<今ここ>それ自体が、天地の全幅をそのつど尽くすことになる。つまり、刻一刻の瞬間が、宇宙のリアルな長さだし広さ。刻一刻が創造にして終滅であるような時空しか、現実には実在しないのだから、そうなる。
ここから、刻一刻の<今ここ>のどの瞬間生起(存在)もが、無窮性(永遠)をたたえているさまも、透見されてこよう。刻一刻の瞬間で、天地世界が尽き果て簡潔をみていくのだから、地球も宇宙も、彼岸も此岸が、過去も未来も、在るといえるものならすべて、一瞬の<今ここ>に含まれ、尽き果てているはずだからだ。つまり、一瞬が永遠(すべて)。
◇◇◇

筆者は、上記の引用文のなかで、念々起滅現象と言う言葉に『』を付したが、これは仏教でも「刹那」という概念と共に良く用いられる概念である。更に、本章⑥にて紹介した大乗起信論においても、「心生滅」という概念に対応している。つまり、本ブログにおいて以前から筆者が主張している通り、この現象世界を創っているのは、我々の『心』であり、それが念々起滅(心生滅)することで、瞬時にこの世界を映し出しては消し、その現象(創造と終滅)の連続が時として刻まれている、そのように我々の心は感じているのである。そして、一瞬の中に過去も未来も含まれているのであるから、大きくはその映し出されている世界全体の歴史、或いは個人レベルの人生のシナリオに至るまで、仏教的な表現を用いれば既に阿頼耶識の中に書き込まれている、だからこそラマナ・マハルシが言うように、人の運命は生まれた時から定まっているのである。また、世界の行く末も既に決まっている、であるからこそ未来の予知が可能なのであろう。

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