アセンションへの道 PartⅠ その理論と技法

2012年には銀河の中心と太陽系そして地球が整列し時代の節目を迎えます。アセンションの理論と技法について考えます。

第18章 真理 ③五位百法

2012-10-05 06:56:19 | 第18章 真理
本章の①仏教の中のヨーガにおいて、『やさしい唯識』から八つの識、即ち心王(チッタ)と六つの心所の二種類に心を大きく分けて考える分類法を説明したが、『成唯識論』においてはそれらに加えて、色法、心不相応法、無為法の三種類の心(法)を加えて、都合五つのグループを立て、それらのグループを更に細かく分類している。そしてこれら全てを纏めて「五位百法」と呼んでいる。前稿に引き続き、同書から引用して行く。

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五位百法についてですが、五位とは、心王・心所有法(心所)・色法・心不相応法・無為法の五つのグループでした。この中、無為法は変化しない世界、心王・心所・色法・心不相応法は有為法と言われます。つまり有為法は、変化していく現象世界を構成するダルマ(筆者註:法)です。心王については、説一切有部(筆者註:小乗仏教の上座部から分派した一部派で、一切の存在を七十五種に分類して、存在するものや、それに対する心の働きをすべて整理しようとした)の場合は意識一つだけですが、唯識では八識すべてを個々のダルマと見ます。心所は詳しく分析されており、色法は一言で言えば物質的な世界です。心不相応法は物でも心でもないものです。これらと無為法の五つの範疇の中で、世界の現象を構成する単位となるものが、詳しく分析されているわけです。唯識の理解に、この百法のアビダルマ(筆者註:諸法の分析)の理解は欠かせません。以下、五位百法のおのおののダルマの概要について簡単に説明しましょう。

[五位百法]  心王八 心所五一 色法十一 心不相応法二四 無為法六

心王         眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・末那識・阿頼耶識
心所  (1) 遍行   触・作意・受・想・思
    (2) 別境   欲・勝解・念・定・慧
    (3) 善    信・慚・愧・無貪・無瞋・無癡・勤・軽安・不放逸・行捨・不害
    (4) 煩悩   貪・瞋・癡・慢・疑・悪見
    (5) 随煩悩  忿・恨・覆・悩・嫉・・・害・無慙・無愧・・・不信・懈怠・放逸・・・
    (6) 不定   悔・眠・尋・伺
色法          眼・耳・鼻・舌・身・色・声・味・触・法処所摂色
心不相応法     得・命根・・・無想定・・・名身・句身・文身・・・無常・流転・時・・・
無為法        虚空無為・択滅無為・非択滅無為・不動無為・想受滅無為・真如無為
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以上の中で、心王については既に本章①で説明済みであり、然程変った点はないのだが、遍行に就いての説明が若干異なっている上、他にも「心」の働きで興味深い説明が幾つかあるので同書から引用する。

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[遍行]は、一切性・一切地・一切時・一切俱を満たします。一切性とは、心が善の傾向を持っても悪の傾向を持っても、どんな時でも心王と一緒になってはたらく、即ち相応するということです。一切地とは、我々は三界に生きています。欲界・色界・無色界といいますが、これは六道輪廻の世界でもあります。その迷いの世界を、九つの段階に分けて見る場合があります。九地というのですが、要するに三界と同じであります。そのどの段階であっても、必ず心王と相応するというのが一切地です。一切時とは、とにかくどのような時でも、どの心王とも相応するということ。一切俱とは、その遍行の心所は必ず一緒に起きることです。・・・「触」は『俱舎論』では、根(器官)・境(対象)・識(主観)を和合させて認識を成立させるはたらきのあるものだといいます。『成唯識論』の説明では、心・心所を境に接触させ、そして感覚・知覚等を成立させるものです。そういうものがあるというのです。「作意」は、『俱舎論』では対象に関心を持つというはたらきですが、唯識では、種子を警覚して心を起こさせるものをいうようです。「受」は苦楽等の感情です。「想」は認知作用です。「思」は、心をはたらかせるもので、意思に相当するものです。これらの五つの心所は別々の心として存在して、しかもどの心王とも、どんな場合でも、必ず一緒になって起きるわけです。
[別境]の心所は、特別の対象に対した場合のみ起こります。「欲」は、欲求の対象に対して起きます。「勝解」(しょうげ)は、明確な事柄に対して、断定的に了解するような場合に置きます。「念」は、記憶のことで、過去の対象に対してのみおきます(筆者註:本章①での説明とは異なることに注意)。「定」(じょう)は、観法で何かを観察する場合に、心を統一していく、その心の統一をもたらすものです。「慧」は、分析的知性のことなのですが、これも主に観法において起きてくるものです。・・・(筆者註:心所の善から不定までの説明は割愛する)・・・

次に「色法」ですが、まず、眼根・耳根・鼻根・舌根・身根は五根です。私達が知っている眼や耳は、普通の物質から成り立っているでしょう。しかし根の根たる所以は何かというと、対象を取りこんで認識を起こさしめるもの「取境発識」のもの、これが根です。根の本質は、そこにあります。『俱舎論』では、その本当の根を、眼に見えない微細な物質であると考えます。それは物質なので色法になります。さらにその本当の根を包んでいる眼球とか耳殻とか、そういうものをも含めて根なのですが、唯識でも感覚器官としてのこの五根を、色法と考えています。
また、色境・声境・香境・味境・触境は五感の対象です。色法というときの色は、物質一般です。色境というときの色は、視覚の対象に限定されます。『俱舎論』では、色と形が視覚の対象になっていますが、大乗唯識では、形の認識は意識の対象です。・・・

[心不相応法]は物ともいえないし心ともいえないものです。一つ例をあげますと、心不相応法のダルマのなかに、名身・句身・文身というものがあります。この場合の身は集まりという意味です。名身は単語の集まりと考えればよいでしょう。文章とか命題、そういうものを句といいます。その全ての集合が句身です。文身の文は文字なのですが、音声言語を考えていますから、その場合の文字は母音・子音です。音素というか、要するに母音・子音の集まりが文身です。つまり名身・句身・文身というのは言語です。いったい言語というものは、物でしょうか、心でしょうか。・・・母音・子音は、音に載っているのだけれども、音そのものではありません。ですから声法としての色法(物質一般)ではないのです。かといって心とも云えません。そういう、物ともいえない、心ともいえないようなものが、心不相応法で、そういうものが、いくつもあるというのです。・・・

無為法は変化のない世界です。説一切有部の場合は三つありまして、択滅無為(涅槃)・非択滅無為(縁欠不生、本来生ずべきものが、縁が欠けたために生じなくなってしまったもの)・虚空(ダルマが縁起することができる空間)です。大乗唯識になると六つあげられていますが、実際は真如一つです。真如は有意法の本性です。縁起ゆえに本体を持たない無自性なる現象世界の、そのすべての本性。それは空というあり方、「空性」です。その空性を別の言葉で「真如」とか、現象(諸法)の本質として「法性」とかいったりします。本当は、無為法はその真如一つなのですが、それを別々の角度から見て述べたのが、虚空無為・択滅無為・非択滅無為・不動無為・想受滅無為です。
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五位百法の説明は以上である(一文字で表されている心の内容に就いては、ここでは一つひとつ詳しく説明しなかったが、大凡の察しはつけて頂けるものと思う)。
尚、読者諸賢も既に気付いたかも知れないが、筆者はここで初めて「真如」なるものを説明しており、それは有為法の本性で「空性」であり、無為法は真如一つとまで言い切っているのであるが、筆者に言わせればこの「真如」こそが「空」即ち「ブラフマン」ではないかと思う。そして、それが個々人の心の中にあるのであるから、詰まる所「アートマン」であると断言して構わないと思うのであるが、著者は前稿でも触れた通り、何故か釈尊の言葉、「五蘊無我」を、「アートマン」は無いと解釈しているようである。

それでは、真我であり、「アートマン」である本当の「自己」は無いというのだろうか。
次に同書が説明する「唯識思想の根本構造」という部分から引用する。

◇◇◇
(筆者追記:『唯識三十頌』の)第一頌と第二頌の前半に、唯識の根本命題が説かれているのでした。この一頌半を巡っての議論を少し考えてみたいと思います。私たちは言語を用いて人とコミュニケーションをとったり、物事を理解したりします。しかし、言語を用いることによって本来の真理を見失っている、言語が真実を覆い隠してしまうということもあるわけです。ふつう我々は、言葉というものは、すでに外界に自立的に存在している物があって、それに対応してあるものと考えています。しかし少し反省してみるとして、我々は何に対して言葉を立てているのでしょうか。本当に外界の物に直接、言葉を立てているのでしょうか。
たとえば見ることを考えたときに、網膜に映った像が、視神経を通じて脳に伝えられます。そうすると、脳がつくり出した映像を、脳が見ていることになります。とすれば、心の中に浮かんだ色や音、それに対して言葉を立てているのです。すでに外界に何か実在していて、それに直接に言葉を立てているのではなく、見たり聞いたりしたものに対して言葉を立てていることになります。
唯識の場合は、普通は外界にあるかと思われるものも、阿頼耶識の中にあるというかたちで処理します。そのうえで、少なくとも見たり聞いたりしているものに対して言葉を立てているとするのです。そのことを巡っての根本的な考え方が、『唯識三十頌』の最初の一頌半の中に示されています。

  仮(け)に由りて我・法ありと説く。種々の相転ずること有り。
  彼は識が所変に依る。此れが能変は唯だし三つのみなり。
  謂(いわ)く、異熟と思量と及び了別境の識ぞ。

私達はすでに物があって、それで言葉があると考えていますが、実は言葉を用いているのは、ない物をあるかのように説いているにすぎない。本当にはない物に対して、何かあるかのように言葉を用いているだけなのだ。それが第一頌の初め、「仮に由りて」ということです。「我」には自分という意味もありますが、のちに「主宰」と説明されますから、いわば主体的存在を表す言葉ということになります。我に関する種々の言葉を、我々は用いるわけです。「法」は「軌持」とありますが、これはいわゆる「任持自性 軌生物解」です。自分の特質を維持し続けてやまないものということで、唯識では五位百法を分析しました。ですから、法とはいわば客体的な存在(但し個々の心等も含む)のことで、我々はこれらについても種々の言葉を用いるわけです。
我々は、何もないところに言葉を立てることはできません。かといって、素朴には本当にある物に対して言葉を立てていると思っていますが、実はそうではなくて、「識が所変」、つまり識において現れたものに対して、言葉を立てているのです。サンスクリットの『唯識三十頌』には「識転変」の語があるだけで、識の所変と能変を区別する言葉はありません。「識の変化」という意味の「識転変」の語しかありません。所変とか能変とかの言葉はないのですが、玄奘三蔵は、識において現わされたものに対して言葉を立てているのだ、という意味合いを非常にはっきりさせた訳をしているのです。識の所変とは、眼識の中に色が現れている、耳識には音が現れている、そういうもののことです。具体的には、相分・見分(筆者註:本章②を参照)になります。これに対する能変は、自体分(=自証分)となるのです(以上は護法らの立場の場合)。

次に、「異熟」というのは阿頼耶識、「思量」は未那識、「了別境」は六識を意味します。この三つで、要するに八識です。これらが、前の識の所変を表す当体(識体)だというのです。ですから、結局、八識の相分・見分において世界は現れているのであり、それに対して、言葉を立てているというのです。決して言葉に対応して外界に実在があるわけではありません。我に関する種々の言葉をしばしば用いますが、その言葉の意味する常住で単一で主宰者であるような存在、そういうものは存在しない(筆者註:即ち「アートマン」は存在しないと著者は説いているが、護法や玄奘三蔵がそのように説明したかどうか、ここでは明確にされていない)。また、法(もの)に関する種々の言葉を用いますが、その言葉に対応する実体的なものも存在しない。あるのは、八識の中に現れた世界(現象世界)のみです。八識は、生滅を繰り返しながら相続していきます。本来はそういう世界のみなのです。そこを言葉によって固定化することによって、物を認識し、それにしがみつく。自我にしがみつき物にしがみつく。ここに根本的な錯覚が存在しているのです。そこに我執・法執がつきまとってくるわけですが、その我執を克服していくと、涅槃が実現します。日常の錯覚、迷いを翻して我執・法執から解放されていく。そうすると菩提と涅槃という言葉で表されるような「本来の自己」が実現します。この「本来の自己」を実現するためにも、どういうかたちで自我や物に執着しているのか。『唯識三十頌』はその構造を解明していくのです。
◇◇◇

因みに、上段の引用分で本来の自己を「 」で括ったのは筆者である。ところで、著者はこの「本来の自己」をどのように捉えているのであろうか。筆者がこれまで使い分けてきた「自己」と「自我」は、前者が「アートマン」或いは「真我」であり、後者は「エゴ」あるいは「偽我」という意味である。そもそも著者が指摘する通り、元々は我々の心(識体)の中に生じた概念を言葉で表しているのであるから、こうした議論は非常に難しくなってしまうのであるが、少なくも著者は「アートマン」の存在を否定している訳であるから、「本来の自己」はアートマンではなく、「識」が転変した結果、限りなく清浄になり、ブッダに近づいた状態(所謂涅槃)を指しているものと思われる。それでは、その「本来の自己」は五位百法のいずれに整理されるのか? 恐らくそれは「無為法」の中の「真如」だと思われるのであるが、これは果たして八識の枠内(そうであれば、「唯識」の立場からすれば恐らく阿頼耶識の延長線上だと思うのだが)にあるものなのか、それともその枠外にあるのか、又それはアートマンと何が違うのか、これは非常に難しい問題である。引き続き考えて行きたい。

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