それでも前へ進む... But I must go on...

劇症肝炎からの奇跡の復活を遂げた主による、闘病と趣味のブログ。

自分の中の覚悟

2017年05月17日 | §日常§
他の方のブログ記事を拝読していて、ふと思い立ったので書くことにしました。

平成29年2月16日、祖父が亡くなりました。

昨年(平成28年)2月に大きな病気が見つかりましたが、喘息発作があったり慢性的に心臓が弱くなっていたり、そもそも当人が無理な治療を望まなかったため治療をせず、経過観察だけを続けていました。

見つかってから亡くなるまで、月に1度のペースで入退院を繰り返し、自宅と病院を往復する日々でした。
同居していた祖母は入院するたびに祖毎日着替えを届けに病院へ足を運び、祖父の通院にも付き添っていました。
私も通院には付き添うことがありましたが、家業の決算期はどうにも時間を作れず行けなくなってしまった矢先に怪我をしてしまったので、結局、次に祖父に会えたのは、入院している病室でした。

祖父は1月が誕生日で、今年は米寿の祝いということもあり、「皆でご飯を食べに行ってお祝いしよう!」と話していた矢先に「また入院した」と祖母から連絡があり、お祝いをしようと言っていた日に皆で祖父の顔を見に行きました。
まぁ、痩せてました。見つかって半年後くらいから「食事が苦行だ」と私に言い、硬いものを一切食べなくなったと、通院に付き添っていた時に祖父は言っていました。体重の減少傾向が著しくなってから、本人もそれをずっと嘆いていました。
体重減少と筋力の低下で、動くこともしんどくなってからは布団から起き上がるのは必要最低限になっていたそうです(祖母談)

誕生日前後の入院から一時的に退院はしたものの、家で生活すると祖母自身の通院や日常生活がままらななくなるため、再度入院しました。
そこから2週間ほどたった頃に“療養型病院”への転院を勧められ、MSさんに何軒か病院を紹介していただき、祖母や祖父母の友人などを含めてどこにするか相談し転院先を決定、転院先の病院へ見学と面談も済ませてあとは希望した日に転院するだけとなっていたところで祖父が危篤状態になり、そのまま息を引き取りました。

最後に会いに行ったのは、亡くなる2週間~10日ほど前でした。
1月のその日に会いに行った時よりもさらに痩せてしまい、目もうつろで声をかけて反応はするけれど話すのも一苦労という状態でした。


葬儀の際、色々良くしてもらったし、大好きだったから泣くのかなと思っていましたが、泣きませんでした。
他に泣いている人がいると自分が冷静になって泣けないという人もいますが、そういうわけでもありませんでした。
葬儀の後、亡くなったことに対して悲しくはなりましたが、涙は出ませんでした。
四十九日が過ぎた頃、ふと祖父のことを思い出しましたがやはり涙が出ず、どうしてだろうと考えた末に1つの結論に至りました。

それは、
「祖父が亡くなることに対しての“覚悟”がいつの間にか自分の中にあったのではないか」
ということです。

病気が発覚した際に先生から話を聞き、それ以来、通院に付き添ったり、入院中に会いに行ったりしていて、心のどこかで祖父が近いうちに亡くなることを受け入れていたため、哀しみはあったけれど悲しくはならず、冷静に葬儀に参列し送ることができたのだろうと。


人はいつか亡くなるけれど、その人の死までの日々を見ていると、感情が溢れてくるけれど心はどこか客観的に、冷静になっていくものなのかなと、祖父の死を通して感じました。


誰かが亡くなった時は涙を流したかったけれど、今回は自分があまりにも冷静に事態を受け入れていて泣けませんでした。というお話しでした。

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