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ウィーンわが夢の街

ウィーンに魅せられてはや30年、ウィーンとその周辺のこと、あれこれを気ままに綴ってまいります

こうもり

2010-12-31 19:08:58 | オペレッタ
今日は12月31日、大みそか、2010年も残すところあと数時間となりました。
この冬寒波に見舞われたウィーンは今日も雪化粧をしていることと思われます。

ウィーンの大みそかで思い出すのは、前回の記事でも書きました1997年です。この年私たちは楽友協会でジルヴェスター・コンツェルトを聴くことが出来たのです。飛行機のチケットが翌日1日の帰国便でしたから、ラッキーだったと思います。

私たちはもともと切符も持っていなかったし、一日に帰国することになっていましたから、フォルクスオーパーでマチネーの『こうもり』(このチケットは到着早々国立チケット前売り販売所で手に入れておりました) を聴きに行く他に夜の予定はありませんでした。しかし、街を散歩しているときにいくつかのチケット販売店のウィンドーに切符が貼ってあるのを目にし、だんだん日を追うごとに、ここでアクションをとっておかないと、のちのち悔むことになるだろうな、との思いが強くなり、国立歌劇場前の地下にあるチケット取扱所のドアを開けました。

チケットの有無を尋ねるや、こちらの返答も待たずに (それくらい即答でした)、売り子の女性は「無理です」と答えるではありませんか。「チケットはありません」というのではありませんよ。「無理です」という返答だったのです。言葉を補えば、「あなたがたに買うことは無理な値段です」という意味です。なんとまあ、失礼な。でも、店員さんの言葉は正しかったのです。今はもう忘れてしまいましたが、25万円くらいのチケットでした。ふたりで50万前後かあ。あきらめざるを得ませんね。今思い出しても、ちょうど日本人がわんさか押しかけていた時代で、そんな値段のチケットが売られていることがニュースにもなっていた頃のことです。

そこで、いったん火がついた以上、こっちもとことんやってやろうじゃないか、って気持ちにそこでギアが変わってしまいました。つまり、当日券です。立見席は当日券での販売ですからね、寒い時期でしたが、並びに行こうとなりました。

マチネーがひけて、れんちゃん、ってやつですな。13年前の話ですから、わたしたちもまだまだ若かった。もう薄暗くなっている夕方、楽友会館にやってくると、さすがに、さすがに長蛇の列。あとは意地です。しかし、並んでいると、だふやの声です。最初は声をかけられても、知らんふりをしていましたが、ついにそのおにいちゃんに、値段はいくらか、聞いてみました。今手元の資料で確認してみると一人1,200シリングでした。たしか、一人1万円ほどだなと記憶しています。ウィーン・フィルのコンサートでも立ち見だと、通常は数百円だったと思いますが、さすがにジルヴェスターとニュー・イアーのときだけは1,000円くらいの特別料金になっていました。その10倍の値段だったわけですが、寒さをまぬかれる誘惑のもと、わたしたちはチケットを手に入れたのです。

そしたら、そのあと、二人の日本人から次のように言われました。

一人目の人は、ウィーン・フィル友の会の会員で、日本からチケットを買って来たという方です。で、その方は、これも簡単には手に入らないんだ ( たしか抽選を経て手に入れたというお話でした) と、そして、手には入ったが、ジルヴェスターとニュー・イアーのチケットのどちらか片方は必ず、立ち見券、というセットなんだというお話でした。「チケットもなしで会場にやってきて、だふやからチケットを手に入れるのはずるい」と言われた記憶が残っています。

そして、もう一人の日本人は、わたしたちにこう言ったのです。「あなたがたは当日券を求めて並んでいるの?」「ええ、でも、さっきだふやから買いました」「ああ、そうか。そういう人がいるからね、いけませんな。わたしについてくれば、立ち見ならチケットなしでも入れてあげたのに」

ん?

「ひょっとして変な人?」

いいえ、変な人ではありませんでした。あとで開場になってホールにはいっていったとき、その人の顔を見かけました。不法、違法なことだったのかもしれませんが、その当時はそういうことがありました。もう時効だな。その人を調べて見つけ出して罰したりしないでね。

1997年のジルヴェスター・コンツェルトの指揮はズービン・メータでした。3大Mが順々に交代して指揮していた頃です。一夜明けると、1998年のニュー・イアー・コンサートになるわけですね。プログラムも全く同じです。ORFのテレビ・カメラも入っていました。生中継は翌日でも、この前夜の演奏会がリハーサルになったんでしょうね。

ところで、これを書くにあたって今ネットで調べてみたところ、今年はニュー・イアー・コンサートだけになっていますね。指揮はヴェルザー・メストです。いつからジルヴェスターはなくなったんでしょうか?

わたしたちは立ち見でしたし、走りはしなかったので、演奏は多くの人の後ろで聴くだけ、という形でした。立っているだけで汗ばむほど立見席は人でいっぱいでした。なるほど、当日券の販売数以上の観客が入っていることは間違いなしです。でも、ウィーン少年合唱団だけは、ステージの上のほうで歌いましたから、姿も見ることが出来ました。

さて、大みそかのウィーンと言えば、先ほども触れましたが、『こうもり』です。この日のウィーンは、フォルクスオーパーもシュターツオーパーも『こうもり』を各2回づつ公演します。

これも先ほどネットで検索してみました。

フォルクスオーパーが、13:30からと19:00からの2回公演。
シュターツオーパーは、11:00からと19:00からの2回公演です。
どうやら、フォルクスオーパーの夜の公演だけ、まだチケットが余っているようです (本日31日の日本時間17時半くらいに調べた結果です)

ウィーン・フィルのジルヴェスターがないのに、切符が売れ残っているのか。

ウィーンを愛するからこそ言わせていただきますが、やはり、昨年ウィーンでいくつかの出し物を聴きましたが、フォルクスオーパーもシュターツオーパーも、本当に残念なことにずいぶん水準を下げてしまいました。フォルクスオーパーはとくに悲惨です。

さはさりながら、ウィーンの『こうもり』は、やはり大みそかの定番プログラムです。

そこで、今夜は雪のウィーンに思いをはせながら、『こうもり』について書くことにします。

☆ ☆ ☆

このオペレッタの舞台となる場所はどこか、みなさんはご存じですか?

楽譜、CDにはおそらく、ほとんど物語の場所として、「ある大都会の近くの温泉町」とだけ、記されていることと思います。それ以下でも、以上でもないはずなのですが、調べてみると、<大都会>、これをウィーンと断定的に書き換えている解説が存在するようです。そして記憶に間違いなければ、<温泉町>、これをバート・イシュルとしているものも存在します。

いったいどっちなんでしょう。

しかし初演当時まだ現在のバート・イシュルはイシュルと名乗っていて、バート・イシュルと名乗るのは『白馬亭』の記事でも書きましたが、1906年以降です。それに当時イシュルにオルロフスキーが構えるような大きな館、裁判所、留置場、銀行、こういったものが存在したかというと、現在のバート・イシュルの様子から推測しても、否定的にならざるを得ません。

となるとやはり、ウィーン近郊のバーデンとするしかないのかな、とヨハンは思います。
バーデンには今も貴族の館、ヴィラがたくさん残っています。

オペレッタ『こうもり』の台本はリヒャルト・ジュネとカール・ハフナーによって書かれました。
ジュネは名前からフランス系移民と思われますが、生まれたのは1823年、ダンチヒです。フロトーと親交があり、1868年からアン・デア・ヴィーン劇場の第一指揮者を勤めています。なかなか才能豊かだったようで、自ら1876年 『海軍士官候補生』(Der Seekadett) というオペレッタの作曲もしています。このジュネが亡くなったのはバーデン(1895年) で、バーデンの市営墓地に埋葬されています。

カール・ハフナーは1804年にケーニヒスベルクで生まれました。ペストの劇場での作家活動を経たのち、やがてアン・デア・ヴィーン劇場の作家になっています。この人はウィーンの中央墓地に埋葬されています。

ウィーン・オペレッタの代名詞とも言えるこの作品、シュターツオーパーが今でも大みそかに舞台にかける、この最もウィーン的ともみなされるヨハン・シュトラウスのオペレッタ『こうもり』の台本がふたりのプロイセン人によって書かれていることはなかなか興味深い話だと思いませんか?


ところで、ヨハン・シュトラウスが3度結婚していることはご存じの方も多いと思いますが、1878年最初の妻ヘンリエッテ(イェッティ) が亡くなって、数週間後に彼は歌手のアンゲリカ・ディトリヒ(リリー) と再婚します。結婚の前年1877年の夏リリーはバーデンの弁護士夫妻の家に滞在していました。52歳になっていたヨハン・シュトラウスは毎日足しげく彼女を訪れたと言います。
しかし、これはもう『こうもり』が出来上がった(1874年初演)あとの話ですから、脱線です。

ところで、この作品のタイトル、こうもり、って例のねずみか鳥か、はっきりしない、通常あまり気味のいい動物とは思われていません。作品があまりにも認知度が高いので、なんで、こんな動物の名前が楽しかるべきオペレッタのタイトルになったんだろう、って疑問すら湧いてこないでしょうし、疑問がわいても、オペレッタを聴けば直ちに第一幕でそのわけが明かされるので、それ以上深入りすることもないのではないでしょうか?

直接作品との関係はない話で恐縮ですが、実はバーデン近郊には、あちらこちらに、こうもりの洞窟があるのです。鉄道の開設によって、ウィーンの人々にとって、身近なこのバーデン近郊の洞窟を探検しにいくことが一時ブームになったと、どこかで読んだことがあり、ハイキングをかねて、わたしたちも2005年に洞窟探検にでかけてみました。
バーデン側から歩いていったのですが、案内板の地図にもそれらしいものが載っていないので、やむなく人に尋ねてみました。が、聞いたこともない、という返事。それでも、粘って、昔ウィーンからいっぱい人が探検にきたと本に書いてあるところですよ、と話しているうちに、「ああ、そうか」、なんとなく聞いたことがある、それはこちらの方角にあるでしょう、とやっと答えを引き出すことができたのです。

無事その洞窟に辿りつくことができたわけですが、このEinöd Höhle (ハイキング・ガイドブックにはこうもり洞窟、妖精洞窟と紹介されています)、バーデンから一駅ウィーン方向に戻ると、Pfaffstätten駅があります、そこから行く方が近いです。

こうもりは、ウィーンの人たちにとって、とても馴染みの動物だったのだというお話でした。

    
(2005年撮影)


ヨハン (2011/02/13一部書きなおしました)

『ヴィクトーリアと軽騎兵』 ― オペレッタに登場した日本人モガ

2010-09-18 21:23:55 | オペレッタ
2009年4月13日はOstermontag (復活祭の月曜)で祝日でした。日本から出発する前にインターネットでこの日アウグスブルクでパウル・アブラハムの『ヴィクトーリアと軽騎兵』、翌14日レハールの『ジプシーの恋』が上演されることを知り、e-メールでチケットを予約。ただ、料金を払い込むカード払いの手段が相手方になく、かならず当日劇場にでかける旨と当方のホテル宿泊先を連絡し、信用していただき、チケットは当日窓口で料金を払うことで受け取ることができるように配慮していただきました。この演目はこの機会を逃したらいつ見られるか、分からないですからね、本当にうれしかったです。

4月1日成田からウィーンに出発、翌2日にチューリヒに列車移動、3日、4日とアルトというチューリヒ近郊の村でオッフェンバックの『パリの生活』を見て、9日再びドレースデンに移動、11日土曜にドレースデン州立オペレッタ劇場でヨハン・シュトラウス(息子)の『女王のレースのハンカチ』という珍しい出し物を見、12日三たび移動して、アウグスブルク入りした次第です。

実はここに書いた5公演、すべて相手方にカード払いの手段がなくて、メールで「なにがあっても絶対にいきますから、チケットを取っておいてください」と頼み込んで、見ることが出来たものです。チューリヒ滞在中の歌劇場でのオペラ『トスカ』公演は、日本からカードで支払いを済ませ、自宅のプリンターでチケットをプリントできたのですが、オペレッタをやるような劇場は、そういう設備がないのですかね。

4月12日アウグスブルクの予約していたホテルにいくと、劇場から確認の電話がきていたらしくメモを受け取りました。中身は、切符は完売されたので当日券売り場は窓口をあけない、しかし切符はとってあるから、劇場内の手荷物預かり所 (Garderobe) の受付の人から受け取れ、という話でした。(宿泊ホテルを告げておいて正解でした)

劇場はパルク劇場と言います。この劇場の位置など出発前に日本で調べ、出来る限り劇場の近くにホテルも確保したつもりでしたが、地図で見るのと、実際に行くのとではやはりずいぶん違います。泊まったホテルの宿泊客は市内交通を無料で利用できる旨説明も受けたのですが、そんなに遠くはないと思っていたので、歩いてでかけたのです。たっぷり一時間はかかったでしょうか。(公演後、帰りは夜遅くなり、路面電車の停留所も分かっていたのですが、意地をはって、というか、健康のためにやはり、来た道を歩いて帰りました)

このパルク劇場、インターネットで検索すると、必ずしもオペレッタではありませんが、なにがしかの出し物をほぼ毎日公演しているようです。かなり歴史のある由緒ある劇場で、それ自体一見の価値があるものでした。



アウグスブルクのパルク劇場 (2009年撮影)


問合せ先、HP
Parktheater, Klausenberg 6, D-86199 Augsburg, Tel: 0821-906-2216
http://www.parktheater.de/



パルク劇場内部 (2009年撮影)

Kurhaus Göggingen (ゲッギンゲン・クアハウス) という保養施設の一部として劇場が併設されているのです。
インターネットのHPに歴史が記されています。

「これはグリュンダーツァイト (注: 19世紀半ばから末にかけてのドイツ・オーストリアの建築ブームの時代、特に普仏戦争勝利によってもたらされた好景気のなか泡沫会社が乱立した時期をさしたりします) に出来たヨーロッパにただ一つ今も残る多機能劇場です。
施主はフリードリヒ・フォン・ヘッシングという当時整形外科医として成功し、企業家でもあった人物、そして建築家はジャン・ケラー。1886年にこの類例のない施設が建築されました。
英国の「プレジャー・ガーデン」をモデルとして、ヘッシングの「整形外科治療施設」の一環として構想されたこの施設は19世紀末にはヨーロッパ最大規模の整形外科専門クリニックに発展しました。
クアハウスはヘッシングの治療コンセプト上重要な役割をもつものでした。劇場で精神的な緊張をときほぐすと同時に、Milchkuranstalt (牛乳治療施設) により、肉体も強化されたのです。このMilchkuranstalt は三翼構造に建てられていましたが、今日ではもう施設から取り除かれ、建物の周りに劇場と公園施設の二翼の建物を伴ったクアハウスの造りになっています。」

*) Milchkur (牛乳療法) はスイスに始まり、18、19世紀に普及した飲料療法で、通常温泉地で温泉水を療法目的で飲むのに対し、温めた牛乳を療法目的に飲んだことを言う。Molkekurともよばれることがあり、Molke、すなわち脂肪分を取り除いた乳清が用いられることもある。今日では、この療法はダイエットに用いられている。


☆ ☆ ☆

オペレッタ『ヴィクトーリアと軽騎兵』

というわけで、4月13日『ヴィクトーリアと軽騎兵』を観てきました。



《ヴィクトーリアと軽騎兵》ポスター (2009年撮影)


予習していったあらすじ通りの運び。一幕目が始まる前に、シベリアのシーンがあり、第一幕は、捕虜として抑留されていたシベリアから脱走に成功したコルタイとその従者が日本にたどりつき、舞台は東京のアメリカ大使館。
この東京でコルタイは以前結婚を誓ったヴィクトーリアと再会します。彼女はコルタイが戦死したものと思い、今はアメリカ大使夫人となっています。

第二幕は大使カンライトの転任先のロシア、ザンクト・ペテロブルク。コルタイも大使に伴われてやってきています。しかし、カンライトは妻とコルタイ、二人の愛を知り、身を引く決心をします。このオペレッタで最も有名な《Reich mir zum Abschied noch einmal die Hände》「お別れの前にもう一度手を」が大使によって歌われ幕。

第三幕でコルタイとヴィクトーリアは故郷ハンガリーに戻り、収穫祭を祝う村で人々に祝福されながら、めでたく結ばれるという話です。

実はこのオペレッタ、日本を舞台としていることに、わたしはとても興味がありました。しかし、よく勉強してみると、ウィーンでは、パリのあとを追うように1873年に開催した万博を機に、いっきに日本ブーム、いわゆるジャポニスムがおこり、日本を舞台にした演劇、オペレッタも、今でこそ埋もれてしまいましたが、当時結構もてはやされたテーマだったようです。

日本人が今でも一番好きなオペラ作曲家にあげるプッチーニの『蝶々夫人』の初演が1904年でした。この『ヴィクトーリアと軽騎兵』の初演は1930年。最初ブダペシュトでハンガリー語での上演でした。評判を呼んだのでしょうね、直ぐにドイツ語版にして、ライプチヒで上演されます。『蝶々夫人』が待つ女、運命に耐える女を描いていたのに対して、第一次大戦を経過した後のヨーロッパにおいて、女性はもはやいつまでもそうしたイメージにとどまるものではなくなっていることがこのオペレッタで分かるのです。それが日本人モガである点がとても興味深いところです。


 (CDジャケット)
作曲家 Paul Abraham (1892年11月2日アパティン(現在セルビア)~1960年5月6日ハンブルク) ― この人はハンガリー系のユダヤ人で、才能に恵まれながらも、生まれた時代が悪く、『ヴィクトーリアと軽騎兵』が成功を収めた時代、ドイツではナチスの軍靴がすでに街に鳴り響いていました。1933年ナチスが政権の座につくと、ユダヤ人芸術家の活動はすべて禁止されてしまいます。そのため多くのユダヤ人芸術家はオーストリアに活動の場を移します。が、そのオーストリアも1938年ナチスドイツに併合されてしまいました。パリに逃げ延びた人々もいましたが、パリも1940年にはナチスドイツに降伏しましたから、ユダヤ人はもう逃げ延びるあてもなく、その間多くの人が強制収容所に送られました。パウル・アブラハムの人生そのものがそうなりました。彼はオペレッタの成功により、映画音楽の作曲家として請われてベルリンに移ったものの、1933年ブダペストに逆戻り、1938年はパリに逃れ、そして最後は海を越えアメリカに亡命という流浪の人生でした。しかし、病による精神の崩壊のなか1957年ドイツに戻りましたが、ハンブルクのサナトリウムで4年ほど生き延びたのちなくなりました。


ところで、しかし、このオペレッタ、第一幕の舞台が東京とされているにもかかわらず、アメリカ大使館のなかで物語がすすんでいくため、出てくる日本女性というと、O Lia San ひとりです (歌う役どころとして)。しかも、彼女はフランス人の父と日本人の母との間に生まれたハーフです。そのせいもあるのでしょうね、とても快活な明るい女性として描かれています (写真)。



オー・リア・サンとフェリの二重唱 (公演プログラム)

この作品については、わたしはハイライト版のCDをいくつか持っているだけで、オリジナルの舞台がどのような構成、コンセプトのもとに上演されたのか、なかなかイメージしにくかったというのが正直なところです。フォルクスオーパーによるCD (ワーナー・パイオニア)では、確かにO Lia Sanが中国風の音楽に乗せて登場してくるので、そのことをもって当時の欧米社会における日本理解が、まだまだ中国も日本も区別がつかないレベルであったという解説が出てくるわけでしょうし、実際アウグスブルクの公演 (これはソフィア国立音楽劇場によるものでした) でも中国風の音楽が演奏されました。しかし、ベルリン交響楽団演奏のCD (BMG)でも、フランツ・マルサレク指揮のグローセス・オペレッテンオーケストラ演奏のCD (PHILIPS) でも、これはジャズ風のアレンジで歌われています。CDの解説では、カールマン、レハールと故郷を同じくするアブラハムが打ち出した独自性は、チャールダッシュまでもジャズ風の味付けにしている点とされています。1930年代のドイツはまさに、ジャズの全盛期を迎えていたのです。後述する戦後のベルリン・メトロポール劇場での演出あたりから、どうやらこのチャイナ風日本というスタイルが出来上がって、ウィーンのフォルクスオーパーに踏襲されていったものと推測されます。

O Lia Sanという名前そのものが日本語の響きにないもの、というかむしろ中国風なので、ヨーロッパの人々のイメージのなかで中国と日本がちゃんぽんになったキュッチュなのかな、とわたしも思いそうになりましたが、このLiaの最初の一文字をLからMに変えた瞬間に、O Lia Sanはおみやさん、に変身します。もちろん強引に『金色夜叉』と関連付けようと思っているわけではありませんが、台本作家 (イムレ・フェルデス) や、またドイツ語版の台本を書いたアルフレート・グリューンヴァルト、フリッツ・レーナ=ベーダに日本女性の名前についての知識があったことだけは確実に思われます。


そしてこのおりやさん(おみやさん?) がフェリと歌う二重唱ですが、

わたしのママは横浜生まれで Meine Mama war aus Yokohama
パパはパリの生まれなの   Aus Paris war (ist) der Papa  
*ベルリン交響楽団演奏のCD (BMG)ではistになっています

ごろあわせで頭にこびりつくほどインパクトの強いこの曲、わたしが特に印象に残って、疑問に思っていたのは、次です

ママはいつもピジャマ姿   Meine Mama ging nur in Pyjama
だってパパのお気に入りだったからよ   Weil Papa das gerne sah

年がら年中パジャマ姿でいる女性? ジャージで町内をうろうろする親父と同類? そんなあほな。
わざわざPyjamaという単語を使っているからには、なにかメッセージがあると考えなくてはなりません。単純に寝るときの服装とは到底考え難いし、分からないから、パジャマ→寝巻→ネグリジェ→着物、なんて連想ゲームをしている場合ではありません。

おりやさんのパパはパリ生まれです。フランス語ウィキペディアで、ピジャマを調べてみると、こう書いてあります。

ピジャマは歴史的には、1920年ころから海水浴場で女性が身に付けた外着で、とくにココ・シャネルによって、これにより、日に焼けた肌がもてはやされることにつながっていく

ココ・シャネルは第一次大戦末にいたる時代まで女性を服装面で縛りつけてきたコルセットから、女性を解放したいという主張を持ったデザイナーでした。また、オーストリアでは大戦敗北後の1919年、ついに女性たちにも参政権が認められ、同権を勝ち取ったのです。(注: 男性の普通参政権は1907年からです)
日本でも、平塚らいてうの青鞜社運動があったように、先進国の多くで共有されていた動きです。

パジャマが寝巻として使われるようになるのは、もう少し時代が後になります。分かりやすい例としては、『ローマの休日』(1953年公開映画) のアン王女、彼女は、一度でいいからパジャマを着て寝たい、と家庭教師に言うシーン、ご記憶の方も多いのではないでしょうか?
当初の海水着から寝室着へと変化していくわけですが、いずれにせよ、これは女性解放のシンボルであり続けることには変わりないです。

おりやさんの母親は横浜生まれの日本女性です。その人がこうして時代の最先端の女性としてオペレッタで歌われているということは、なんと名誉なことではないでしょうか?

このyoutubeの動画をぜひご覧ください。

http://www.youtube.com/watch?v=6sWnls4FFJ4

わたしの大好きなLizzi Waldmüllerリッチィ・ヴァルトミュラー (相手はオスカール・デネス) がこの二重唱を歌っていますが、画面には1920年代、ピジャマ姿で町を歩く日本女性、というキャプションがついた画像が登場します。
ちなみにリッチィ・ヴァルトミュラーは前回書きましたオペレッタ《白馬亭》でレーオポルトを演じたマックス・ハンゼンの奥さん (1938年に離婚) でしたが、1945年4月8日ウィーン空襲で終戦を間近にして41歳の若さで亡くなりました。

もうひとつyoutubeの動画をご紹介しておきます。

http://www.youtube.com/watch?v=67DNmdpdpIQ&feature=related

こちらはベルリンのメトロポール劇場の画像です。完全に中国と日本がミックスされています。

お互いの国をたくさんの人々が交流する現在、こうしたキッチュも、もはやそれによって時代的に無知のそしりを受ける憂いがなくなっているという安心感から、あえて演出から排除していないと理解することにしましょう。めくじらをたてるような問題ではありません。ただ、本当はジャズ風のアレンジが作曲家バウル・アブラハムのモダンさを現していたのですが・・・・

やはり、オペラ、オペレッタのような歌芝居は、実際に舞台を見ないとコンセプトが分からないと実感した次第です。

パルク劇場の公演が始まる夕方までの空き時間、ヨハンは以前訪れたことがあるこのアウグスブルクの街を再びゆっくりと散策することが出来ました。

パルク劇場のあるクアハウス施設そのものがすでに民間人によって19世紀末につくられていることにはあらためて今回驚きましたが、このアウグスブルクを有名にしている最大のものは、なんといってもフッゲライです。インターネットでフッゲライと検索すると出てきます。これは16世紀に民間人の豪商ヤーコブ・フッガーによって造られた世界最古の社会福祉住宅です。16世紀ですよ。信長の時代です。驚くことは、それだけではありません。この福祉住宅、今でも人が生活しているのです。



フッゲライ (2009年撮影)


なにしろ最初に訪れたのは1982年でしたから、28年も昔のことです。ヨハンの記憶違いだったのかなあ。そのときは中に入るのにお金を払ったような記憶はありませんが、今回、そんな調子で入ろうとしたら、入口に窓口があって、呼び止められてしまいました。なにやら料金が書いてあることは、遠くから分かっていましたが、どうも特別展示の広告もあったし、その料金だろうな、と思い、通り過ぎようとしたのです。面目ありません。入場そのものにお金が要りました。
歴史的な建造物で、保存、補修のために徴収しているようです。それにフリーにしてしまうと、今現にそこに生活している人々の生活を、ただ好奇心で見に来る野次馬の数が増えてしまう恐れもあるからなんでしょうね。

アウグスブルクにいる地の利を生かして、2009年はフュッセンにも遠出してみました。
またまた最近日本人ツアーが事故にあってしまったあのフュッセンです。
以前はミュンヒェンからバスツアーで訪れたノイシュヴァーンシュタイン城。今回、ヨハンは、根性で、フュッセンまで鉄道で行き、駅から、歩きに歩いて、帰りの電車の時間を気にしながら、ついにこの写真が撮れるスポットまで行ってまいりました。往復、4時間。
ノイシュヴァーンシュタインと、すこし離れて左手にホーエンシュヴァンガウ城です。



ノイシュヴァーンシュタイン城 (2009年撮影)



ホーエンシュヴァンガウ城 (2009年撮影)

ヨハン (2010-09-18)



ザンクト・ヴォルフガング ― 幸せが出迎えてくれるホテル「白馬亭」

2010-09-16 12:03:48 | オペレッタ
オペレッタ『白馬亭』はオスカー・ブルーメンタールとグスタフ・カーデルブルクの二人がイシュル近くに滞在していた1898年 (96年としている人もいます) に書いた喜劇をもとに、ラルフ・ベナツキー他が作曲し1930年11月8日にベルリンで初演されたものです。ちなみにイシュルがバート・イシュルと名乗るのは1906年以降です。
このオペレッタが爆発的な人気を呼び、舞台となった実在のホテル「白馬亭」はザンクト・ヴォルフガングの切っても切り離せないシンボルとなったのです。 



ザンクト・ヴォルフガングにあるベナツキーの碑 (1997年撮影)


原作のお芝居とこのオペレッタになった作品との一番の違いは、オペレッタでは第二幕フィナーレから皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が登場し、第三幕でジードラーへの恋心 (弁護士ジードラーは後述するように訴訟相手ギーゼケの娘オッティーリエと恋に落ちてしまいます) をあきらめきれない白馬亭の女主人ヨーゼファに次のように歌って、彼女に思いを寄せている給仕長レーオポルトこそ彼女を幸せにしてくれる人だと気づかせてくれる、という点にありました。皇帝に重要な歌のパートが与えられているわけで、グローセス・シャウシュピールハウスの初演舞台では、バウル・ヘルビガーが演じました。以後舞台ではヴィーナー・リートの大御所がこの役を務めたりしています。2005年のランゲンロイス・ハインドルフ城野外劇場での公演ではハインツ・ホレチェクが皇帝役を演じました。

’s ist einmal im Leben so     人生はそんなもの
allen geht es ebenso       誰だって
was man möcht’ so gern      願い通りに
ist so fern            いかないもんだよ

実際フランツ・ヨーゼフ1世の人生がそうでしたからね。

音楽についても、最終的に興行側のグローセス・シャウシュピールハウス監督エリク・シャレルの意向で当時売れっ子だった流行歌の作曲家何人かに作曲を依頼し、合作という形に仕上げたということで、それまでのオペレッタとは異なりました。ただこのことは、ベナツキーにとっては苦々しいことだったようです。




ザンクト・ヴォルフガングにあるローベルト・シュトルツの碑 (2009年撮影)
ジードラーとオッティーリエのデュエット曲 《Die ganze Welt ist himmelblau》 を作曲したのはローベルト・シュトルツです。

ベナツキーの不満をよそに、レコードとラジオのメディア革新の時代につくられたこのオペレッタ・レビューはそれぞれの歌を取り出して聴き、歌うのに適し、まさに大ヒットしたのです。構成もしゃきしゃきしたベルリンの人たちと、おっとりしたオーストリアのひとたちが対比的に描き出され、ベルリン言葉とウィーン言葉が交錯するこのオペレッタは、初演されたドイツ、舞台となっているオーストリア、どちらの人からもいまでも愛されている楽しいオペレッタです。



開演前の舞台『白馬亭』、ウィーン・カンマーシュピーレ (2009年4月20日公演)

今回はこのオペレッタの舞台、ザンクト・ヴォルフガングのこと、そして登場する人々がどういう交通手段でこのホテルにやってくるかについてお話しすることにします。

まず舞台となるホテル「白馬亭」ですが、ザンクト・ヴォルフガングのシンボルとなっていて、ここを訪れた人はオペレッタの存在を知らなくても、ホテルの前は必ず歩いたに違いないと思います。ホテルのホームページをみると、こう書いてあります。

「白馬亭の歴史と名声がオペレッタによってもたらされたというのは正しくありません、歴史は500年前にさかのぼり、聖ヴォルフガング巡礼教会を訪れる人々をもてなしてきました。本来の「白馬亭」という旅館になったのは1878年です。バウル・ヨハン・ペーターが1912年に「白馬亭」を買い、家族経営をはじめ、今日5代目です。」

オペレッタ初演当時から同じ一族がこのホテルをずっと守ってきたということらしいです。ホームページには昔の写真も載っており、オペレッタの書き割りはもちろん、それを参考にしているので、同じに見えるわけでしょうが、女主人のヨーゼファが常連のジードラーのためにとっておいたというバルコニー付きの部屋もそれとわかります。



現在の「白馬亭」 (2009年撮影)

オペレッタは、幕があがると賑やかな音楽、団体旅行の客が白馬亭のテラスに陣取って、てんでに飲み物を注文しています。他方ガイドには時間がないからとせかされ、ボーイたちはてんてこ舞い。そこにボーイ長のレーオポルトが登場して、「みなさん、まあ、落ち着いて。ゆっくりこの素晴らしい景色をご覧くださいな」と歌います。
当時ツアーを組んでオーストリアの景勝地ザルツカンマーグートを訪れることが人気だったことが分かります。ザンクト・ヴォルフガングは今や巡礼地としてではなくて、観光地として人々が訪れる場所に変貌しているのです。しかもツアーは今もそうですが、分刻みで団体行動をする連中です。オーストリア人のレーオポルトには、そのせかせかした行動が気にいらないのです。




湖から眺めたザンクト・ヴォルフガング、背景の山がシャーフベルク、天気の好い日にはSLが煙をたなびかせて登って行く様子がよくわかります (2009年撮影)

人々をここまで運んでくる遊覧船はザンクト・ギルゲン―ザンクト・ヴォルフガング―シュトローブルを結んでいます。
皇帝も船で到着します。イシュルから馬車でシュトローブルまで来て、そこから専用のお召し船に乗ったものと推測されます。ちなみに映画では船着き場が直ぐに「白馬亭」の前になっていますし、わたしたちの記憶でもそうだったような気がしているのですが、現在船着き場は白馬亭から歩いて3分ほどシュトローブル方面に寄った場所にあります。

ところで、しかし、オペレッタでは船以外の乗り物でここにやってくる人たちがいるのです。後述する1952年制作の映画にははっきりと「Sankt Wolfgang」と書かれた鉄道駅も映されています。
ヒンツェルマン先生の登場シーンです。旅が大好き、しかも汽車で旅することがこの先生のなによりの喜びです。お金をこつこつ貯めて、あちこち大好きな汽車旅行をしているのです。このヒンツェルマン先生が娘のクレールヒェンを伴ってザンクト・ヴォルフガング駅に到着するシーンがでてくるので、どこかに駅があったはずです。
わたしはずっとこの駅が白馬亭側にあったのだと思い込んでいました。しかしそうではありませんでした。今回やっとこの疑問が解けました。
対岸の、現在ポストバスが走っている道、ここを鉄道が走っていたのです。

ザルツカンマーグート・ローカル鉄道 (略称SKGLB) と呼ばれるその鉄道は1893年全線が開通しました。イシュルから、シュトローブル、St ヴォルフガング、St ギルゲン、モントゼーを経てザルツブルクに至る、総延長およそ67キロの路線で、年間215万人の乗客を運んだと言います。最大勾配25パーミル、最高時速40キロ、ほとんど登山鉄道というべきものでした。惜しまれつつ、地元の猛反対のなか1957年に廃線となったようです。




ザルツカンマーグート・ローカル鉄道、資料写真 (出典: www.skglb.at)

このことを知って、シュトローブルのポストバスの駅 (しっかり今もBahnhofと書いてあります) がやけに立派であるわけも、納得しました。バーンホーフは勿論鉄道の駅ということですからね、バス停には使いませんが、鉄道が廃線になった今もその建物がバスの発着場所として使われているのです。
したがって人々はシュトローブルで遊覧船に乗り換えたか、鉄道でStヴォルフガング駅までやってきたにしても、駅は白馬亭の対岸にあったため、ここで船に乗り換えたのです。湖の両岸はこのあたりで一番接近していて、今も渡し船が運航されています。ケチケチ旅行をせざるを得ないヒンツェルマン先生親娘は、遊覧船に乗らずに、運賃の安い渡し船に乗って対岸に渡ったというわけです。

ちなみに1893年には、サウンド・オブ・ミュージックで私たちにもなじみの、シャーフベルク登山鉄道も開通しています。1893年というと明治26年です。そんな時代に標高1732mの山頂に登山鉄道を通したというのは驚きです。麓の駅は標高542mですから、標高差1190mです。シュネーベルクの記事のところに書きましたようにオーストリアで最も標高の高い駅はシュネーベルク山頂駅の1795mです。こちらは、しかし、完成したのは1897年でした。そしてシャーフベルクの方は今もすべてSLが牽引しています。(注: 東海道線全線、新橋、神戸間が開通したのは1889年です)



シャーフベルク山頂駅 (1997年撮影)

この人気のオペレッタ作品は何度も映画化されました。わたしが好きなのは1952年のヴィリ・フォルスト監督、ヨハネス・ヘースタースがジードラーを演じた作品です。まだ鉄道が現役で走っていた時代です。しかし、このヘースタースが演じるジードラーは自転車でStヴォルフガングにやってきます。ヘースタースはオランダ人です (ちなみに彼は現在106歳、決して行方不明ではなくて、公式のホームページを持っています)。自らオランダ人と自転車は切っても切り離せないくらい自転車好きだと言っています。そしてバート・イシュルからやってくる途中で係争相手のベルリンの工場経営者ギーゼケの娘オッティーリエとぶつかりそうになって、お互い、知りあうというシチュエーションでドラマが展開していくのです。




映画『白馬亭』のジードラー役を演じるヘースタースと白馬亭の女主人ヨーゼファを演じるヨハンナ・マッツ (出典: Johannes Heesters 公式ウェブ・サイト)

シュトローブルで乗り換えるか、Stヴォルフガングで乗り換えるか、どちらにしても鉄道で来ても白馬亭側にでるには普通は船に乗り換えるしかありません。しかしヘースタース扮するジードラーは映画では白馬亭側の高低差の多い山道を自転車でやってくるのです。
現在シュトローブルからStヴォルフガングにやってくるポストバスは最後にトンネルをくぐり抜けて町に到着します。途中も起伏の多い山道で、いくら自転車好きだと言っても、決してサイクリングに適しているとは思えません。
ところが昨年シュトローブルからStヴォルフガングまでバスに乗ってよく窓の外を見ていると、この山道 (もちろん今はとても整備された舗装道路です) サイクリングしている家族連れをいっぱい見かけました。こどもだってヘルメットを着用して、山道を自転車で走り抜けていきます。余暇の楽しみ方がやはり、日本人とは違いますね。

もし、あなたもザンクト・ヴォルフガングを訪れることがあったら、レンタサイクルでバス路線と対岸の山道を走ってみたらいかがでしょうか?

ヨハン (2010-09-16)