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自分の自分による自分のためのブログ。
だったけど、もはや自分の備忘録としての映画やドラマの感想しかないです。

「おーの、いつ死んでくれんの?」

2006年06月26日 22時25分14秒 | Weblog
「おーの、いつ死んでくれんの?」
「あと80年ぐらい先かなぁ。」
「えー。今死んでよ。」
こーゆー言葉のやりとりは倉田としかしないと思っていたが、
まさかゼミでも行われるとは正直驚いた。
全然関係ないところで、同じ言葉のやりとりが行われるということは、
きっと俺には「死んだ方がいい」オーラが出ているんだと思う。
とゆーわけで、生と死について考えてみる。

人は何のために生きているのか?
人は何かをするときに必ず目標を設定する。
その目標のために人は行動するのだ。
なんの目標もない人もいるけど、
きっと無意識のうちに何か設定しているんだと思う。
「目標タイムを切る」ために「練習する」とか、
「好きな子に好かれる」ために「シェイプアップする」とか、
「志望校に合格する」ために「勉強する」とか、
このように人は何かしらの目標を定めて、
それを達成するために行動を起こす。
その目標を最終目的地として、
それに向かって歩いていくのだ。
その歩いていく内容が、
勉強だったりシェイプアップだったりするわけだ。
だから言い換えれば、
「練習する」ことにおける最終目的地は「目標タイムを切る」ことであり、
「シェイプアップする」ことにおける最終目的地は「好きな人に好かれる」ことであり、
「勉強する」ことにおける最終目的地は「志望校に合格する」ことである。

さて、「生きる」ということも行動の一つであるから、
そこにも目標があるはずだ。

「○○○○」ために「生きる」。
「生きる」ことにおける最終目的地は「○○○○」ことだ。

この○○○○には何が当てはまるのだろうか。
「幸せになる」ために「生きる」。
「運命の人と出逢う」ために「生きる」。
「人生を楽しむ」ために「生きる」。
くどいようだが、それらは言い換えると、
「生きる」ことにおける最終目的地は「幸せになる」ことであり、
「生きる」ことにおける最終目的地は「運命の人と出逢う」ことであり、
「生きる」ことにおける最終目的地は「人生を楽しむ」ことである。
人によってその目標は異なる。
最終目的地に着いた人は普通どうするだろうか。
当然、歩みを止めるだろう。
つまり、目標が達成されてしまえば、
同時にそのための行動も終焉を迎えることになる。
例えば「志望校に合格する」ために「勉強する」場合、
「志望校の合格」という目標が達成されたら、
この「勉強する」という行動は一応の終わりを告げる。
「志望校の合格」という最終目的地に着いたら、
「勉強する」という歩みを止めてしまうのは自然のことだ。
もちろんその後も勉強を続けるかもしれないが、
それはまた別の目標のためであって、
志望校合格における勉強は終わるのである。
同じように、目標タイムを切ったら、そこにおける練習は終わるし、
好きな人に好かれたら、そのためのシェイプアップは終わる。

では、「幸せになる」ために「生きる」だったら、
幸せになった時点でそのための生きるという行動は終わるわけだから、
その次に新たな目標を設定しない限り、
その人は死ぬことになる。
運命の人に出逢えたら死ぬことになるし、
人生を楽しめたら死ぬことになる。

しかしもっと普通に考えてみよう。
人が生きて生きて生き続けて、その最後に待っているものは何か。
それは「死」のみである。

命あるものはいつか必ず死ぬ。
誰もその運命から逃れることはできない。
人の最終目的地は死であることに従えば、
人は「死ぬ」ために「生きる」のだ。
「生きる」ことにおける最終目的地が「死ぬ」ことなのだから、
なんだかんだ言って、
今を生きる人々は死に向かって歩み続けていることに他ならない。
行動と目標が正反対の性質を持っているが、
これが生と死の関係なのだろう。

と、勝手に思ってみる。

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2 コメント

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Unknown (みつばちりんご)
2006-06-28 01:12:19
そーなんじゃない♪

人は死ぬ為に生きるのよ。きっと。



あたしはお馬鹿ちゃんだから死ぬのは怖いなー。

だから生きますね。ひとまずは。
Unknown (oono)
2006-06-28 01:39:54
僕はそろそろ死にますよ☆

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