明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

ポリーニの平均律

2017-05-28 18:00:44 | 芸術・読書・外国語
一番芸術で肝心な事は「張り詰めた緊張感の持続」ではないかと思う。音楽の場合は特にだが、「時間の流れが何かに完全に満たされている」と感じられるものは楽曲の質が高い。絵画が名画や傑作と呼ばれる場合は、「空間そのものが主張を持って見る人間を引き寄せる」ように思える。私はクラシック音楽をよく聞いているのだが、モーツァルトやショパン・バッハの良い曲の場合など特に楽想が次から次へと流れ出て途切れることがなく、一瞬たりとも無駄なフレーズや隙が無い。和声法や対位法の中で曲想と曲想の間を類型的なパッセージを使い問題を処理する時「中身の無い音符の連なり」をやむを得ず書いてしまうことがあるが、彼等はそれが非常に少ないのである。

これが演奏の場合も同じであるということはやはり、何か「芸術の本質」を表しているのじゃないかと思う。モーツァルトのピアノソナタを「だらけずに聴衆を惹きつけたまま」演奏し切るのは才能である。技術的には小学生でも弾ける程度のものであるが故に、簡単にあっさりと弾いてしまうが、「心を込めて」とモーツァルト自身が言っているように、実際に上手に弾くのは至難の技である(とプロはよく言う)。テレビでよく聞く通俗的なピアノミュージックを比較に出すのはおこがましいが、「雰囲気を出すだけ」の曲と「主張する音楽」とは別物なのだ。では何処が違うのかと言うと「あるパッセージと次に続くパッセージの緊張感の持続」であると思う。

人間が一つのパッセージを聞いている時は「何か意味のある音」として聞いている。例えば絵画であれば山とか人間の顔とかミカンとかであり、音楽の場合はその意味のある音が「時間に沿って流れていく」のだと仮に想像してもらいたい。その流れが「期待を裏切らず、言わば期待以上の新鮮な変化を示した時」に聴衆は感動するのである。今日バッハのゴールドベルク変奏曲をアンドレイ・ガブリーロフの演奏で聞いた。名演である。もちろん左右の指が素晴らしく速く動くのはそれだけで聞く価値があるけれど、何よりバッハの対位法の中で現れるメロディの線が「美しく表情豊かに歌われ」ていることである。目にも止まらぬ物凄い打鍵の嵐の中で、甘美な主題が「可憐に、囁くように歌われる」のを聞くのはまさに至極の悦びである。

ポリーニの平均率を最高の名盤と持ち上げた私の意見に対し、私の同僚は「グレングールドのが一番じゃないですか」と言う。リヒテルの素晴らしい録音もあり、これは三つ巴の戦いかなと思っていたらネットの批評では、ポリーニ版は酷評されているという。何を今更しかも平板でのっぺりした練習曲のような平均率をリリースしたのか理解に苦しむ、と大方の予想にたがわず酷い扱いだ。だがポリーニ程の大ピアニストが人生の残った時間を割いて弾いてみようと思ったのには、それなりに自負があったと思うのである。いや演奏は、聴き込むほどに深みを増して、余計な感情を全く入れない「純粋な音そのものを、速く遅くまた高く低く連続した」楽曲に仕上げている。

モネが「モネは眼だ、だけど何と素晴らしい眼なんだ」と画家仲間から感嘆されたように、「ポリーニは耳だ、だけど何と素晴らしい耳なんだ」と思わざるを得ない。48曲が終わったら、また初めから聞き直したいと思わせる程に済み切った時間が流れる。ポリーニが、ショパンの書いた幾多の楽曲では表し得なかったものをバッハの平均率という巨大な音の構築物を得て、とうとう到達したのが「この極限の世界」である。人間臭さをとことん排除した無色透明の記号が次から次へと織り出される無限の絹織物の柔らかい感触となって私を包み込む、そんな別世界へ私を誘ってくれる。

一方リヒテルは確かに華麗で重厚だが、飽きてくるのである。どんな美女も3日で飽きるという。もちろん、たまに聞いて感動するのが本来の聞き方であろう。個性が強ければ、鼻につくこともある。その「人間の個性を徹底的に排除した』のがポリーニである。ただ音だけ。しかも純粋で透明で完璧な音だけ、である。この録音を聞いていると、バッハの究極の音楽が聞こえてくる、そう思わないだろうか。これは私の感想である。私はポピュラーミュージックも聞くし演歌もロックも聞くので「いい物はいい」という立場であるが、最後に何が一番聞きたいかと問われれば「モーツァルトの天上の響き」をあげたい。まだモーツァルトの最良の演奏を見つけられないでいるのだが。





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