フランス料理で食事の後にナプキンを綺麗に畳んで置くと「美味しくなかった」ってことになるらしい、え〜っ、そうなの?。美味しかった時は「くしゃくしゃ」にしておくらしいのだ。これは美味しすぎて「綺麗に畳むのを忘れてしまった」という意味らしい。またまた、え〜っ?。これ、お葬式の時の香典の宛名をを「薄い墨色で文字が滲んだように書く」のと一緒だ、と思ったのだ。つまり、悲しみの余り「涙が止まらなかったので文字が滲んでしまいました」という表現なのである。
始めは本当に悲しくて涙が出たのであろうが、終いには「悲しみを偽るように」なったというわけだ。こういう「その時々の感情の吐露」の量は、人それぞれである。美味しくて「うっかりナプキンを畳むのを忘れる」人もいれば、どんなに美味しくても「ナプキンを畳むなんてことは忘れない」人もいる。感動の表現は、人それぞれに「表に出る量が違う」のである。人間はどうしても比較したくなるのだが、比較する適切な方法を持ち合わせてはいないのだ。そのことに大概の人は気が付かない。
そこで大げさな感情表現には「より深い感動が隠されている」と思い込むのである。それがいつのまにかマナーとして定着し、理由もなく踏襲されて「出来る男はフランス料理のマナーぐらい」知らないとバカにされる、なんてことになるのだ。ナプキンを畳まなかったから「美味しかったんだな」なんて意味深な意思疎通の方法を取ったりせずにはっきりと、「きょうの料理は美味しかったよ」と口で言えばそれで十分なのである。
世の中には、仲間内だけで通用するつまらない約束事を「マナー」として流布させていることが一杯ある。実に下らないことだ。しきたりや作法というのも「きちんと説明できる理由」があればいいが、そうでない場合であれば無視するのが正しい。夜の社交場などでは「通」などと言われる専門的な約束事があって、それを知っている人が「知らない人を田舎者」などと蔑んで喜ぶ傾向があるが、一種のいじめである。知らない人には「教えてあげれば」済む話ではないだろうか。
人間は結局は同じ時間を「色々な境遇の中で過ごして」きた、それぞれ別々の体験をしている存在である。何かを知っている人はその分「別の何かを知らない」可能性がある。歴代総理の名前を全部暗記している人がいるとして、それでその人が何を感じているかが大事なんじゃないだろうか。例えば「楽しい思い出」とか「悲しい出来事」とかを一人ずつ覚えているわけじゃないのだ。ただの名前の羅列に過ぎない。だから雑学なんていうものは「雑な知識=雑多で関連なく集められた知識」なのである。こうなっては、もはや知識とも言えない。マナーなんて所詮は「社会階層の差別意識の表現」に過ぎないのだ。昨日、「バカリズムの大人のたしなみズム」という番組でフランス料理特集を見て感じた次第である。
ちなみに私ごとで恥ずかしながら申し上げると、バカリズムそっちのけで「アシスタント役の柳ゆり菜」目当てで見ている。出来れば「ゆり菜」にはミニスカートで登場してほしいのだが・・・、だめかなぁ〜?
始めは本当に悲しくて涙が出たのであろうが、終いには「悲しみを偽るように」なったというわけだ。こういう「その時々の感情の吐露」の量は、人それぞれである。美味しくて「うっかりナプキンを畳むのを忘れる」人もいれば、どんなに美味しくても「ナプキンを畳むなんてことは忘れない」人もいる。感動の表現は、人それぞれに「表に出る量が違う」のである。人間はどうしても比較したくなるのだが、比較する適切な方法を持ち合わせてはいないのだ。そのことに大概の人は気が付かない。
そこで大げさな感情表現には「より深い感動が隠されている」と思い込むのである。それがいつのまにかマナーとして定着し、理由もなく踏襲されて「出来る男はフランス料理のマナーぐらい」知らないとバカにされる、なんてことになるのだ。ナプキンを畳まなかったから「美味しかったんだな」なんて意味深な意思疎通の方法を取ったりせずにはっきりと、「きょうの料理は美味しかったよ」と口で言えばそれで十分なのである。
世の中には、仲間内だけで通用するつまらない約束事を「マナー」として流布させていることが一杯ある。実に下らないことだ。しきたりや作法というのも「きちんと説明できる理由」があればいいが、そうでない場合であれば無視するのが正しい。夜の社交場などでは「通」などと言われる専門的な約束事があって、それを知っている人が「知らない人を田舎者」などと蔑んで喜ぶ傾向があるが、一種のいじめである。知らない人には「教えてあげれば」済む話ではないだろうか。
人間は結局は同じ時間を「色々な境遇の中で過ごして」きた、それぞれ別々の体験をしている存在である。何かを知っている人はその分「別の何かを知らない」可能性がある。歴代総理の名前を全部暗記している人がいるとして、それでその人が何を感じているかが大事なんじゃないだろうか。例えば「楽しい思い出」とか「悲しい出来事」とかを一人ずつ覚えているわけじゃないのだ。ただの名前の羅列に過ぎない。だから雑学なんていうものは「雑な知識=雑多で関連なく集められた知識」なのである。こうなっては、もはや知識とも言えない。マナーなんて所詮は「社会階層の差別意識の表現」に過ぎないのだ。昨日、「バカリズムの大人のたしなみズム」という番組でフランス料理特集を見て感じた次第である。
ちなみに私ごとで恥ずかしながら申し上げると、バカリズムそっちのけで「アシスタント役の柳ゆり菜」目当てで見ている。出来れば「ゆり菜」にはミニスカートで登場してほしいのだが・・・、だめかなぁ〜?
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