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明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

歩きスマホ事故は人間無視の産物?

2015-11-15 12:30:00 | 今日の話題
最近の偶発的トラブルの顕著な例として、町田駅でサラリーマンが人をホームに突き落とした事件があった。原因は些細な事のようであるが、犯人が逃げているのではっきりした事は分からない。テレビのニュースなどではコメンテーターが自分勝手な(勿論それが役目なのだが)意見を言って結論付けているが、私は犯罪というものは裁判で判決が出て刑が確定するまで無闇に人の行為をアレコレ言うべきではない、という立場である。本当の事は、たかだか二、三分の事件報道では分からないと思う。中には明白な事例もあるが、名古屋毒カレー事件のように混沌とした状況証拠のまま刑が確定したものもある。我々は神ではないのだから慎重な態度で接することが求められ、感情的な結論を避ける努力をしなければならない。大まかに言って、罪を憎んで人を憎まず、である。

さて、今週の問題は歩きスマホの事故についてである。いつものようにプログラムに則って進めていく事にする。順次は以下の通り

(1)ぶつかられた人の論理
(2)ぶつけた側の論理
(3)スマホ事故の原因と対策
それでは今週もお楽しみください

(1)ぶつかられた人の論理

a. ぶつかられることを予測してないまたは、歩きスマホしてる奴にそもそも気づいていない場合。これはどっちもどっちで文句は言えない。不注意は誰にでもあるが、双方に瑕疵があるのに一方的に「気をつけろ!」などと怒鳴る奴がいて、こんな場合に遭遇したら腸も煮え繰り返ろうというもの。しかしここは一歩引き、自分が不注意だった事は確かなので、相手に怒鳴られた事を変換し優しい声で自分の過ちをたしなめてくれる「心の声」に耳を傾けよう。「気をつけなきゃいけなかった、混んでるところでは周りをよく見て先を予測して歩こう、注意力が不足だぞ」という感じだ。偉そうに怒鳴ってる相手の事は、ほっとけほっとけ。

b. 「予測していたからぶつからなくて済んだが、いつもいつも私の方が避けてばっかりは腹が立つ、第一、ちゃんと右側通行の決まりを守らないルール無視のやからは、私じゃなくて相手の方だ。今回だって私が避けなきゃ完全にぶつかっている、一言言ってやろうか」という状況。これは仰る通りだがぶつかってないので事件性がないため、何を言っても「だってぶつかってないじゃん、バッカじゃなぁい」と言われて終わりである。ますます腹が立ち、地団太踏むだけアホらしい。と言ってわざと避けずにぶつかれば、悪いのは自分である。結局あなたはこのような若者を避け続けなければならない運命なのである。もしそれが嫌であれば、立ち止まって靴紐を結ぶしかない。きっと相手は避けるだろうし、避けずにぶつかっても悪いのは相手の方であなたではない、「すいません」の一言ぐらい要求する権利はあなたにはある。まあ、よほど腹に据えかねるようなら、一度お試しを。但し、結果が思い通りにならないからと言って、私に責任をなすりつけないようにしていただきたい、それと相手は弱そうな奴を選んでやること、これ私のアドバイスである。


c. 身体が不自由であなたには避ける能力がないため予測していたのにぶつかってしまった、または、目が不自由なため予測ができないでぶつかられたという場合、あなたは保護される権利があるがそれが守られるとは限らないし、あるいは身体が不自由なことを相手が分かっていない場合もある。その場合はあっという間にぶつかられて転倒し骨折し、運悪く打ち所が悪くて寝たきりになったり、いくら相手が悪かろうが損をするのは一方的にあなたである。できるだけ一人で混雑したところに行かないようにと言うしか思いつかない。平等とか弱者保護とか言っても強いものがより多くの利益を得るのが自然界の摂理である。自分の身を守るというのは動物にとっては生死に直結する大事である。犬猫を見ればわかるが、絶対に無茶はしない。慎重な上に慎重を重ね、それでもはっきり安全を確保できなければ諦める、それが自然界で生き残る術である。バンジージャンプなどという馬鹿げた遊びは、はっきり言うが自然界ではサルでもやらない。よって、いつ何時自分が弱者の側になるかもしれない。だから人付き合いには金を惜しむな、これ私のアドバイスです。お大事に。

d. 自分から道を譲るなんてハナっから考えていない喧嘩上等の跳ね上がりタイプ、こういう人はどしどしぶつかってご自分の理屈を通されると良い。相手が、あらかじめぶつからないようにコースを変える充分な時間的余裕がある場合、結果は2つになる。1つはスマホ側が上手いことコースを変えてくれたおかげでぶつからずに済んだ場合。おめでとう、相手が折れて変えたのだからこちらは勝ったと思って内心ウフッと大満足だろうが、相手はスマホに夢中で何とも思わないままスタスタと歩いて行ってしまうパターン。空振りである。どっちかと言えばスマホ側の無視であり、意気込んでいった分の仕掛け損であろう。所詮相手にしただけ損したのだから、こちらもスマホ連中を人間と思わないことである。「スマホ虫」とでも思っておくと気持ちも落ち着き心が晴れやかになる。「今度の虫はちょっと大きいな」などと観察するのも楽しい。2つはスマホ側がコースを変えたのにこちら側も同じようにコースを変えてぶつかる場合、意図的にやったら「わざとぶつかった」ことになるが、証拠は無い。スマホ側はコースを変えたので大丈夫と思っているが、大丈夫だと安心しているだけに豈図らんや正面からマトモにぶつかり、思わず「あっ、すいません」などと口走ってとんでもない事態に自ら陥るという大失態を仕出かしてしまう。これこそ喧嘩上等の輩の思うツボ、引っかかったなと思って心では嬉しくてウキウキなのを噛み潰して、「何すんだ?コノヤロー!」と精一杯の強面で怒鳴りまくる快感、たまらんよぉー。この時しまったと思っても後の祭り、この楽しみをあっさり終わらしてなるものか、とネチネチグダグダ絡まること絡まること、最低でも10分はかかると思っておおよそ間違いでは無い。世の中は強いものが勝つようにできているので、痛い目を見ないようにお気をつけあそばせ、これ私のアドバイスです。

e. 結局ぶつからない事が一番、常にアンテナを張り前後左右の障害物を熟知し、余裕を持って避けるように心がけよう、それが心安らかに人生をエンジョイする秘訣である。早め多めに避ける位は何てこと無い、寧ろ快感ですらある。そういう努力をして行くと自然と「安全なルート」が見えてくるものである。是非お試しを。

因みに外人などは徹底していて、エレベーターなどで知らない人と乗り合わせるとニコッと「良い人の笑顔」を見せる。これは何も性格が社交的で明るいんじゃなくて、ニューヨークなんかメチャクチャ危ない所に住んでるとちょっとしたことでボコボコにされるらしく、「私は無害です」って意思表示らしい。自己防衛だね。確かに外人は普通の人でもどえりゃー強そうだもんな、デカイし腕っ節もプロレスラーみたいだし。東山36計、逃げるにしかず、である。

(2)ぶつけた側の論理

a. スマホをいじっていて完全に集中し、ぶつかっても全く動じず謝りもせず傲然とそのまま歩みを止めない奴。これは余り見かけないが、こちら側で避ける以外に解決策はない。ぶつかられた人の論理でも例に出したが、ぶつかる側にも当然同じような人間はいるのであり、これは飢えた獣であると考えたほうが良さそうだ、少なくとも私はそう考えている。普段から「俺は強い、強すぎる。俺といっちょやってみようという馬鹿はいつでも来い、喧嘩なら幾らでも買うぜ!」と、いずれ高転びする猿なのだが何しろ強いので無闇にことを構えない方がお利口である。「d.の2つ目」のタイプと正面衝突するのをこっそり期待しよう、それはそれは面白いショーが見られるはず。しかしまあ、出来たらそんな事には興味を持たずにもっと身になる楽しい事がこの世には一杯あるのだから、アホな連中はほっといてサッサと通り過ぎるがよろしい、これ私のアドバイスです。

b. スマホは何処でいじろうと人にあれこれ言われる筋合いは無い、と言う理屈屋。「ぶつからなきゃいいんだろ?ぶつからなきゃ」と、クソ生意気な御託を並べて足早に去っていく、仰る通りである。ぶつからなければ何の問題も無い。だが果たしてその理論は正しいのだろうか。残念ながら答えはノーである。たとえで申し訳ないが、公道で車が真っ直ぐ制限速度一杯にスピードを出して自分に向かって来たとして、10cm手前でピタッと止まるまで全く避けずに普通に歩いていられる度胸がおありだろうか。仮に絶対にぶつからないと保障されていてハンドルはF1の超一流ドライバーが握ってるとしても、人間誰であれ無意識に避けてしまうのは動物の本能である。同時に、精神も極限のシチュエーションにパニック状態になり呼吸も止まりそうになって、助かったと思った次の瞬間猛烈に怒りがこみ上げてきて、引っ捕まえて二、三発横っ面をぶん殴らなければ許さんぞ、位は当然思うであろう。ぶつからなくても人はこれくらい怒る、ましてや「ぶつかってないじゃん、ガーガー騒ぐなよ、おっさん 」とでも言いそうなふざけた顔をして「バッカみたい」と嘲られれば、ホームに突き落としてやろうという気持ちもよーく分かる(あ、これはニュースになった町田の事件とは全く関係無いのでご了承下さい)。とにかくこちらは「あー、ぶつかる!」と回避するのである。結果、スマホ側の思った通りにぶつからない、当然のごとく彼(または彼女)は直進して行く、避けた貴方だけバカを見るのである。ではそのまま真っ直ぐ歩いて行ったらどうなるか?その場合はスマホ側が避ける。当然である。

じゃあいいじゃ無いか、と思うであろうが実は事はそれ程簡単ではない。避けるには避けたが、問題はその避け方である、云々。全く人間というのは面倒な生き物である。ぶつかる側の論理がぶつからなければ何の問題もないと考えるその「考え方」が、スマホ事故の殆どの原因だからである。

(3)スマホ事故の原因と対策

a. 単独事故。スマホ側は99%が事故らない自信があり実際事故るのは1%の余程のバカである。口を酸っぱくして注意してもやる奴はやる。だから可哀想になど思わないことである。運悪く巻き添えをくったらとことん補償は請求するが、どうしてこんな事をしたのかと相手を責めて自分の人生をつまらないものにするのはやめよう。いくら相手を呪っても怪我したら人生台無しである。そうならないように恥ずかしいくらいに注意しまくるのが、賢い人のすることである。運の悪い人は何処にもいるものであるが、自分がそうならないように最大限努力しよう。頭上に大きな看板があれば落っこちてくるかもしれないから道の反対側を歩き、工事中の場所があれば鉄骨が飛び出してくることを想定して道の反対側を歩き、電車に乗れば走行中にドアが開くことを想定してドア袋の近くには立たないようにし、エレベーターに乗る時は突然下がって天井と床とに挟まれたりしないようにドアが開いた時を見計らって飛び乗るとか、あらゆる偶発的事故を避けるように出来るだけ気を付けよう。だがこれだけやっても「お気の毒ですが癌です」だって、ガーン!、ってことにならないとも限らないのだからいやになる。危険は常に身の周りを埋め尽くしている私、こわ~。だからせめて、スマホの単独事故なんてくだらないことで人生を台無しにするのだけは止めよう。これ私のアドバイスです。

b. さて、いろいろあるが一番の問題点を書こう。それは「人間無視の行動」である。性別に関わらず、若い者全体に蔓延している悪習といえる。特に若い女性が連れ立って歩いている時、感じることが多いように思う。それは人と人とが正面に対峙した時、ぶつかるコース上に双方がいるのか、或いはそのまま歩くコースを変えなくてもぶつからずに互いにすれ違えるのか、瞬時に判断する能力・習慣がないのじゃないかと思っているのである(違うかもしれないが)。私はいつ頃からか無意識に出来るようになっていた。教えられた記憶はないので、余程小さい時か又は本能的に身に付けたものと思う(そう言えば赤ちゃんはよくぶつかるが、視力や視野が大人より狭いという理由もある)。自然界では当たり前であるから本能的に覚えるというのが正しいだろうと考える(本能ではない)。

だが、現代ではどうもそうではないようだ。「ぶつからなきゃいい」というのは、人を人とも思わず「障害物」と考えることである。電柱やポストと同じ物体と考えることである。因みに、自分の勤める会社の社長・専務が並んで会話しながら向こうからやってきたら、少なくともぺーぺーの貴方は、ぶつからなくても通路の端によけて社長達が意識せずに通過できるよう配慮するであろう。相手が知らない他人だから障害物扱いするのである。

人間はお互いが人と認識して譲り合いする時は、10m位前から自然とどちらともなく左右を選びコースをずらして通り過ぎる。お互い様、である。駅の混んだコンコースであっても、流れを見極め次から次へストレスなく出来る。だが遺憾な事に、直前までコースを変えずぶつかりそうになるくらい接近してからようやくよける人間が余りにも多い、それも三人並んで歩いているのに後ろに下がって縦に並ぶのではなく、横に並んだまま三人が間を詰めギューっとなって何とか通り過ぎようとするのである、幼稚園児程度の頭しかない低脳だ。情け無い、ああ情け無い。これが日本の現状だと思うとため息が出る。人が多いせいだろうか、中国人は肩がぶつかっても双方何とも思わず平気で通り過ぎるらしい。いちいち気にしていたら駅までたどり着けないという現実があるのかも。日本人でも地方の田舎暮らしをしていると、知らない人でも道ですれ違う時には会釈するらしい。自然と人格が身につくのかなぁ。

とにかく、人間は障害物ではない。この事を言い続けてはや20年、この国には未来はないのか。・・・私は人の波が押し寄せる駅の改札口を通り抜けながら、黄昏の美しく照り映える西日が薄暗い闇へと落ちていくのを横目で眺めつつ家路を急いだ。「人間は障害物じゃない、お互い血の通った人間同士なんだ。貴方と同じように、彼にもかけがえの無い人生を必死に生きているんだ。権利はないけど・・・」って心の中でつぶやいて、私は少しコートの襟を立てた。

冷たい風がなんだかちょっと寒いぜ、ベイビー。


PS: 最後は二時間推理ドラマ風に仕立ててしまったが、大体の意図は伝わったことと思う。もう少し「他人」を大切にしたいものだ。では来週までさようなら~、またアクセス数のUPに貢献宜しくお願いしま~す。

PS2: ここまで書いた後、少し違うような気がしてきた。もしかしたら障害物ではなく人間だということは分かっているのかも知れない、と考えた。つまり、人間であるが全くの他人である。言葉は通じるが会話をする必要がないので、まったく何の感情も起きないただの対象物としての人間である。名前があることすら意識の中にはない、ただの「人」である。自分とは全く関係がない存在、これは障害物以上に人間の尊厳を傷つける。人間をそんな風に考えて生きている人々の心の中は、ジリジリ照りつける砂漠の中にポツンと一人で立っている、そんな感じだろうか。不毛の世界、人間のいない世界である。
解決の糸口は「名前」にあると思う。人を国籍や職業で呼ぶのではなく、その人の「名前」を呼んでみるのだ。中国人と呼ぶのではなく、◯◯さんと呼んでみよう。国と国とがぶつかるように思えても、実は抽象的な民族名でお互いを呼び合っていることに原因がある、という場合があると私は思っている。抽象名には個性はないが、個人名には一人一人の生きてきたストーリーが山のように詰まっているのだ。

それを尊重するかしないかは、貴方の自由ではあるが・・・


この問題は根深い。また別の機会に書くことにしよう。それでは。


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