明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

考えるヒント(31)記憶力を高める方法

2023-03-13 20:31:58 | 今日の話題

1、人の名前の覚え方

最近自分でも「ど忘れ」が酷くなったと思う。しょっちゅうテレビで見てる顔なのに、何かの拍子で名前が出てこない。すわ、これは認知症の始まりか?と焦ってネットで調べると、名前が出ないのは認知症じゃないそうだ。一安心である。しかし、物忘れが老いと共に激しくなって来たのは間違いない。何とか記憶力の衰退をストップする方法はないもんだろうか?

答えは、覚え方に「ひと工夫加える」ことである。

顔と名前の単純な組み合わせだけでは、どうしても「記憶力の衰え」に対応しきれない。昔からこういう「ひたすら覚えるだけ」 の問題には、「いい国作ろう鎌倉幕府」などと語呂合わせを使って「意味付け」をして覚えたものである(今は1192じゃなく1185らしいけど)。これは思い出すに当たっては顔だけで思い出そうとするのではなく、何かその顔と「関連するフレーズ」を間に挟むとそれと名前と「2段階記憶」にすることで思い出しやすくなるという、新しい知見の話である。

実は私は、これでいつも名前が出てこない「井上陽水」を、会社の同僚の「井上さん」という人を間に挟むことで、完全に自由自在に思い出す事が出来るようになった(間に挟まないと度忘れする点で、自慢できる話ではないが)。まあ、全部が全部この方法を使うというわけではないが、「ここぞ!」という場合にはこれを使うことで、記憶力をカバーすることに成功したのである。

ちなみにジャズ歌手のエラ・フィッツジェラルドという名前は簡単に出てくるのに、もう一人の大歌手「サラ・ヴォーン」の名前は、毎回思い出すのにとても苦労するのが不思議だ。二人の違いは「何なのか?」と考えてみたが、単に「記憶しやすい音」かどうか、ぐらいしか思いつかない。それで悩んだ挙げ句に私が選んだフレーズが「皿(サラ)!」である(まんまじゃないか!)。直接には「皿と彼女」が関係あるわけじゃ無いけれど、要はサラ・ヴォーンとお皿を「同じ言葉のカテゴリーとして」直接関連づけ、それから皿の「名前の連鎖」で彼女の名前にたどり着く、という画期的方法なのだ。これでようやくサラ・ヴォーンという名前を忘れることは、まず無くなったわけである(自慢!)。

多分、我々が何かを記憶するプロセスには「脳の記憶機能のメソッド」が大きく関係していて、エラ・フィッツジェラルドが覚えやすいのは「その音に、特別覚えやすい何かの理由」が有るのだろうと思っている(エラとサラでどこが違う?と思うかもしれないが、むしろフィッツジェラルドのほうに何かがあると思っている)。それがサラ・ヴォーンという音には「無い」、というだけなのだ(あくまで個人の感想です)。人としてエラとサラとで大きな違いは全然無い。なのに両者に違いがあるとすれば、つまり思い出すという作業は脳内で、どういう方法をとっているかを考えて見なければいけないのだ。顔を見て名前を思い出すプロセスは脳が「まずランダムに名前をサーチ」して、次々と候補を選び出しては名前と顔の照合を繰り返す、という「単純力技の連続」と思われる。ただ、対象によって「かかる時間」が違うだけだ。何故なら、顔と名前を直接結び付ける理由は、「本来は無い」のだから。

例えば「一度も見たことのない顔」を見て何という名前かを当てるのは不可能だ。それはりんごを見て「赤い」と言うのは世界共通だが、りんごの呼び方は言語ごとに「千差万別」だ、というのと同じことである。これは、知らない人には全く想像すら出来ないのである。理由は名前は「顔の属性」では無く、あくまで別個の「全く無関係」な独立した記号と脳は認識しているのだろうと思われる。

脳の行っているのは名前と顔を「直接関連付けて記憶する」のではなく、名前の表す「脳内の位置」と顔の表す「脳内の位置」をそれぞれ別系統のカテゴリーの中で「順位付け」を行っていて、その順番に従って呼び出しているだけだと私は思う。顔の記憶エリアと名前の記憶エリアは、直接関係は無いと言える。だから対象からいきなり名前を思い出すのではなく、まず対象の属性で「名前のエリア」を絞り込み、最後に「記憶の強度」の強い順に呼び出すという仕組みだ。だから何でもいいから記憶の強度を増すだめに「覚えていることの数」を増やすしかない。それがサラ・ヴォーンの「皿」というわけだ。

どちらにしても「記憶は最後は強度」で決まる。多分、度忘れした名前を思い出すのに論理的な方法が全くないことから、この世で一番「実体と無関係」な存在なのが名前なんだろう。もし貴方が「誰かとコミュニケーション」する必要がない環境にいるならば、物の名前などは「使う場面」は殆ど無い。何しろ、物の名前など知らなくても、生きるのには全然困らないのである。名前は自己完結世界の「外」にある宇宙語みたいなもの。私が思うに「名前」とは、自分の心を形成しているあらゆる記憶と思索の絡み合ったシナプスの構造体=脳の考えていることを、ただ「外部に発信する」ためだけに存在する「翻訳ツール」である。だから、外人と話す機会の無い孤独老人は、日常生活を「あれそれ」で済ましても何ら問題は無い、とも言えるわけだ。でも私は、もう少し「社交的な楽しい生活」を送りたいので、ここで記憶力を一段「強化する」ことにした。

もう、「あれ誰だっけ?」なんて、言わせないよ~!

2、「正直な性格」とは誰の為?

レジオネラ菌発覚問題会見で大炎上した老舗旅館「大丸別荘」の前社長が死亡していた。どういう心理状態で自殺に至ったのかは不明だが、会見で見られた前社長の「人柄」みたいなものから考えれば、自分のしでかした過ちの波紋の大きさに耐えられなくなって精神的に思い詰め、もう悪評を雪ぐことも出来ないと観念して、ついに「楽になりたい」と自殺したんだろう。彼の正直な人柄が選ばせた「最終的な結論」だったと思う。

まあ前社長としては3700倍もの菌が検出されたことには相当ショックだったらしく、そのことで「自分の判断の甘さ」を誰よりも後悔していたことは充分に想像できた。旅館では2019年から多少のレジオネラ菌が発見されていたが、検査を誤魔化したりしながら何とか「検査を切り抜けて」営業を続けていたようだ。それが抜き打ち検査で「高濃度の菌」の存在が明らかになったことで、初めて「事の重大さ」を知り、「とんでもないことをしてしまった」という自責の念に駆られたのだろう。

会見で余りにも正直に自分の「当時の判断」を述べたために、結果としては「開き直りだ」とか「罪の意識が無い」とか「客の健康を他人事のように思っていて無責任」とか言われて大炎上してしまった。会見に臨んだ前社長の内心を慮れば、多分「自身の過ち」をはっきりと認めたうえで、出来るだけ詳しく「何故過ちに至ったのか」の経」を説明したつもりだったのだと思う。それで「自身の過ちが許される」とは考えていなかっただろう。つまり、多少のレジオネラ菌が見つかったとしても、それ位なら自分も毎日湯に入っていたし、健康にも問題無い筈だという甘い考えがあった、と言っていた通りである。それが3700倍という高濃度の検出結果を突き付けられて、一転「もはや逃れられない」と観念したのだと思う。ウソはついていなかった。

正直な人である。

正直という徳目は、前社長にとっては世間に対するものでなく「自分に向けられた」ものだった。彼はお湯の中に基準値の3700倍ものレジオネラ菌があったことを知って「びっくり」し、それまでの自分の判断を恥じていただろう。もっと早く気が付いていたら、多分ではあるが、「今回のようなことにはなっていなかった」気がする。残念である。勿論、これまでの違法営業を痛切に反省し、コストとか考えずに「まず第一に温泉の水質管理を徹底」して、安全安心の温泉として再出発することによって、罪を償うことも出来たとは思う。ただ、彼の内側に向かった間違った自尊心は、それを「許してくれなかった」のである(私は昔の武士道を思い出していた)。結局は正直に自らの過ちを認め、自分に「やったことの責任を取らせ」たのだった。

何よりも「客の健康を害して何とも思わなかったのか?」と記者に質問された時、既に彼は自殺を考えていたのかも知れない。覆水盆に返らず、だ。「正直が仇」になって、人に言われるまでも無く自身に決着をつけた訳である。でも、3700倍というのはちょっと多過ぎのような気もしないでもないが・・・ご冥福をお祈りする。

3、マスクはつける、つけない?

今日からマスク着用は不要になった。勿論、政府の言い方は「そろそろ良いだろう」ってな話で、何ひとつ医学的な所見に従った判断で無い事は明らかである。一方、マスクは空気感染とか飛沫感染とかの感染症に対してどれだけ「有効なのか?」という点に関しては、これは未だに全く明らかになっていない。街中のインタビューでは「他人の目」を意識するとか「恥ずかしい」とか言った「医学と関係ない理由」が目立っているようだ。そもそも恥ずかしいって、いったい「どんだけ」主体性の無い人間なんだよ?、と私なぞは思ってしまう。

マスクをつけるかつけないかは純粋に医学的見地から判断すべきもので、しっかりとした「自分の考え・理由」を述べた人は皆無だったように見える(少なくとも、ニュースを見た限りではそうである)。それに比べて私の考えは「実験をして確かめる」というものだ。これは相反する意見に対して「正しい答え」を見つける唯一の方法である(要するに、「白黒つける」ってこと)。例えば群馬県はマスクを着けて、栃木県は一切着けない、とするのである。もしマスクを継続して着けた県の「新規感染者数の下降曲線」に対して、外した県が「統計学的に有意に上昇した」とすれば、その時初めて「マスクは有効だ」と言える。もし両県がそれほど変わらなければ、マスクは「意味ない」と結論がでるわけだ。果たして1週間後に新規感染者数がどう推移するか?

勿論、実験をするには「外す県」の感染者・犠牲者が多数出る可能性も当然ある。だが実験には多少の犠牲は付き物だ。科学はそうやって進歩してきた。自称「マスク警察」などと言ってる連中は率先して実験に参加するなどして、つけるかつけないかの論争に「決着」つけてもらいたいねぇ。但し、10万人やそこらのオーダーでは結果の信用性に疑問が出る。やっぱり東京都23区を西東に分けて、1000万人単位の大実験をやってもらう、ってのがスッキリして気分が良いねぇ。それに、これから発生する新規感染者には、この期間に「マスクをつけていたか外していたか」を必ず報告させることが肝心だと思う。

まあ、こういう大事なことを「実験で確認する」気概が今の政府にあるのかどうか、私は疑問に思うけど。それに私は「花粉症が酷いので」、どうしてもマスクを使い続けなければならないから、この実験には不向きである。困った・・・。

何れにしろ、マスクは当分誰も外しそうにないから、この問題も「答えが出ないまま」なし崩し的にフェードアウトしちゃうんだろうね。全く「科学的精神のかけら」も無い国民だというのが、ここではっきりしたわけだ。これじゃ日本の医学の発展も、余り期待できないって話である(オーマイガッ!)。しかし、これだけ全員が「未だにマスク着けて生活してる国民」って、世界でも「日本だけ」なんじゃないの。なのに未だにコロナが収束してないなんて・・・結局マスクは関係ないってことだと思わない?

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結論が出たようです。答えは「マスクは無駄」、でした。お後がよろしいようで・・・



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