明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

今日の気付き(16)孤独のブログ

2019-11-23 11:31:33 | 今日の話題
最近私のブログが不調だ。誰も私のブログを読んでくれない。何故なんだろうと考えたら、アクセス数ばかり気にしていて、何も実のあることを発信していないことに気が付いた。そこで古い私の記事を色々振り返っていると、面白そうな記事が昔は結構あったな、と気が付いた。少しランダムに選んで読んでみようと思い、「楽しい電車」というのを選んでみる。ちょっとしたアイディアだが、通勤電車を音楽で楽しくしようという企画である。一つの改善案であり、そこそこ笑いもあって「軽く読む」には面白そうだ。こういう楽しいブログであれば、暇つぶしに読もうかという人がいても不思議はない。毎日世間を騒がしているようなニュースを取り上げて、何かコメントするようなブログでは、余程の力量がなければ読者はつかないのだ。

こないだ或る人に会ってお茶したのだが、余り会話が盛り上がらなかった。その理由を考えてみたら、お互い社交的な人間ではなかったのだと気が付いた。自分の興味がある話題以外は特に反応する訳でもない者同士がテーブルを挟んで座っているのだから、当然話に行き詰まる。どちらかが自分の興味のある話題をしゃべれば一瞬場は盛り上がったように見えるかもしれないが、相手が相槌を打つだけの会話ではちっとも面白くないのは分かりきっている。これはこれで寂しいものである。そこで何か共通の話題はないかと探しているうちに、時間が過ぎてその日は別れてしまった。後で考えると、この人とは波長が合わないかも知れない、そう感じている自分がいた。では、どんな人だったら「波長が合うのか」と問われれば、よくよく考えてみれば「そんな人はいない」のである。孤独なのだ。

年をとって人付き合いもせず、ひっそり家の中に引きこもって世間に背を向けて暮らしている人がいる。だがそういう人も、決して人とコミュニケーションを取りたくないわけでは無いのだと思う。ただ方法が分からないのだ。それは他人から見て、自分に会話しようと思うだけの最低限のマナーが欠けているせいである。マナーとは、或る人には生まれつき備わった社交性つまり面白さや知識であり、その他の人には相手の話に合わせる努力である。そのどちらも持ち合わせていない人からは、自然と人が離れていく。他人が寄って来てくれるのを待っているだけでは、孤独になるのも当然だ。華やかに見える芸能人でさえ、皆必死に努力しているのであるから、何者でも無いただの人間が話題の中心になれる訳が無い。結局は、現実の社会もブログも同じで、つまらないブログは読まれないのである。それだけのことだ。

では、面白い記事を書くにはどうすればいいか。今はグルメ紹介記事全盛である。どこそこのカレーは絶品だ、というような記事は、誰しも興味を持つ話題である。それで、良さそうなグルメ記事を見ると実際に行って見たくなる。これは人々の欲しがる「情報」だ。人々は情報を求めてネットを見ている。そこで大事なのが情報の質である。だがそんな「へぇーっ」と驚くような凄い情報は、ずっと家にいてテレビを見ているだけの老人などには書けるはずがない。我々に書けるのはそんなスクープをものにしようとしのぎを削っているメディアのトップ記事ではなく、狭い範囲の日常に限られてしまうのは当たり前である。外に出掛けて行って何かを体験しなければ、人に伝えるべき内容が無いのは当然なのだ。人が注目している話題に乗っかってコメントするような安易な姿勢では、所詮は人に読んでもらえるような記事は書けない道理である。

それに気付いたのは、ついこないだであった。もうアクセス数を稼ぐだけの「狙った記事」を書くのはやめよう、そう決心したのだ。私自身に伝えるべきものがなくて、どうして人が集まってくるだろうか。まず私自身が興味を持ち、私自身が面白いと思ったものを発信してこそ、人が興味を持ってくれる可能性も出てこようと言うものである。世の中には、一つのことに専念して他人の評価などを当てにしてない人がいる。それでも世間の何人かは、その作業に関心を持ち、その人の仕事を見つめているのである。人々はその僅かなコミュニティに生きることで社会とのつながりを持ち、心の平穏を保ち続けることが出来る。それがその人に相応しい力量なのだ。

私は、人に社交的に成れとは言わない。成ろうとしても成れるものではないからである。ただ、人間は社会的動物である、と言った人がいた。確かにそうであろう。であれば、内なるコミュニケーションへの欲求を満たすために、今少し「努力」をする必要はあるだろう。たとえ意味のない会話であっても、言葉を発することでコミュニケーションは生まれてくる。自分を買い被りせず、実力通りの平凡な人間と評価して、普段からごく日常的な会話を続けていくことで、自分も社会の端っこに関わって生きることが可能になる。そんな控えめな生き方の中に、僅かではあるが「喜び」も生まれてこよう。喜びとは「相対的な価値」だから。それで単なるネット上のブログでは得られない何かが、この生き方の中に見つかるかも知れないという淡い期待を持って、今日から実社会に再デビューすることにした。

一日一会話、人間にとって会話こそが全てである。

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