みんなの僧

24で僧侶になり54で住職になるまで夢や悩みを聞き続けて30年。

里の村祭り!

2011-10-23 09:00:55 | 日記
この世の生を受けて20000日と365日

この「みんなの僧」ブログを書き始めて365日となる。

今日は早朝から獅子舞が各家を回り、演舞している。昨年の今日も上忍の里では村祭りが行われていた。
里村の神社は白山神社である。白山信仰が何故根付いたのかは研究途中であるが、別途に保管される神社資料では東大寺や興福寺の名を見る事が出来る。また、東大寺の文献にも この里を興福寺と取り合ったと書かれている。

取り合ったのは、燃料となる薪と伽藍の補修材の確保にある。つまり、荘園ならぬ荘園林であった。
縄文時代から続く原生林が魅力で始終、興福寺と東大寺は争っていた。

段々、争いがエスカレートし、本格的な戦いとなったので朝廷は白山神社の御神体である白山(城山)の尾根線の東と西で里村を分断 東部分を東大寺、西部分を興福寺の荘園林と定めたのである。
だから未だに 同じ里村名なのに「伊賀~」「大和~」と呼ばれ、当村は奈良県、東側は三重県となっている。
こんな山奥に、こんなちっちゃい村に38度線が存在する。その分水嶺があり、里の真ん中辺りの形良い山を「白山」と呼び、御神体山としているのが里村の白山神社なんである。

では何故、奈良の都、平城京から50キロも離れる当村の森林情報があり、燃料となる薪を遠く運んだのか?
それには理由がある。

里で一番神秘的なパワースポット、つまり神道的に表現すると「神籠」は 雨乞いをしていた山にある。
朝廷が正式に「雨乞い」スポットにしたのは聖武天皇の頃で その後 大和盆地や木津川、淀川水系が枯渇した時は このパワースポットで「雨乞い・水乞い」の儀式をしたのである。

なんとそれは昭和初期まで続いた。

しかし、何故当村のその山を神籠、パワースポットとしたのか?

それは、大和盆地に住む 先住豪族を制圧する為に、ヤタガラスと言う土着民と神武族が合流、その主戦隊キャンプ地が この山なのだ。
この神籠のある山の事を上忍の里人はこう言う

「神武山」と

または愛着を込めて「神武さん」と呼ぶ。

つまり、上記の2つの疑問の答えは初代天皇「神武」から営々と朝廷内で、上忍の里の存在、その必要性、その意味とを語り継がれて来た事にある。
その後、朝廷の介在をへて当村は東大寺と興福寺の直轄荘園林となり現在に至る訳だが、では何故、ヤタガラスと神武天皇が この地にキャンプを張ったのか?

それについては以後のブログにて