毎日モーツァルト!

モーツァルト初心者なので、モーツァルトの曲をたくさん覚えたい♪BS2の番組『毎日モーツァルト』の曲名を毎日?記録します。

【第190回】オペラ「皇帝ティートの慈悲」 K.621 第2幕 アリア「花で愛のかすがいを」 より

2006年12月08日 | プラハ
1791年 モーツァルト35歳の作品。
皇妃の座をめぐる野望と謀略を描いたこのオペラは寛大な心で首謀者たちを許す皇帝の徳をたたえる物語。
ウィーンの宮廷詩人ピエトロ・メタスタージョが18世紀前半に書いた古い台本に、台本作家マッツォラが手を加え、時代の趣味に合うように仕上げた。

ソプラノ: ルチア・ポップ
指揮: レナード・スラットキン
演奏: ミュンヘン放送交響楽団
出演: 中嶋彰子 (声楽家)


 ~ 最後のプラハ ~

1791年9月6日、国立劇場でオペラ「皇帝ティートの慈悲」が初演された。
皇帝レオポルト2世をはじめ多くの貴族が列席。
モーツァルト自らの指揮で初演の幕が開いた。

第2幕、皇妃の座を狙う先帝の娘ヴィテッリアのアリア。
自分が抱いていた野望と邪心への後悔を歌う。

“私のこの深い悲しみを知ったなら みんなは慈悲の心をかけてくれることでしょう
 花で愛のかすがいを編もうと 結婚の女神はもう降りてこない
 粗い縄にしばられた私にむかって きびしい死が迫ってくるのです
 不幸な女! なんて恐ろしい! みんなはなんて言うのでしょう?
 私のこの深い悲しみを知ったなら みんなは慈悲をかけてくれるでしょう”

モーツァルトが心血を注いだ「皇帝ティートの慈悲」だったが、台本には欠陥が多いと受け取られ、初演の評判は芳しくはなかった。
しかし近年熟達の音楽に光が当たり、傑作として評価されるようになった。

モーツァルトを大喝采で迎え入れ、モーツァルトを愛した街プラハ。
オペラ「皇帝ティートの慈悲」の上演を終えての帰途が、モーツァルトとプラハとの永遠の別れとなった。

【第189回】オペラ「皇帝ティートの慈悲」 K.621 序曲/第1幕 アリア「ああ 玉座を取り巻く」

2006年12月07日 | プラハ
1791年 モーツァルト35歳の作品。
オペラ「皇帝ティートの慈悲」は古代ローマが舞台。
皇妃の座をめぐって渦巻くさまざまな陰謀。
しかし皇帝はその首謀者たちを寛大な心で許す。


■ 序曲
指揮: ネヴィル・マリナー
演奏: アカデミー室内管弦楽団

■ 第1幕 アリア「ああ 玉座を取り巻く」
テノール: プラシド・ドミンゴ
指揮: ユージン・コーン
演奏: ミュンヘン放送交響楽団

出演: 檀ふみ (女優)


 ~ 祝典オペラ ~

1791年8月 モーツァルト35歳。戴冠式の祝典ムードただようプラハに到着した。

プラハ郊外にあるベルトラムカ荘はモーツァルトと親交の深かったドゥーシェク夫妻の別荘。プラハに到着したモーツァルトはこの別荘を訪れ、ドゥーシェク夫妻との再会を喜んだ。しかし目前に迫る戴冠式にむけてすぐにオペラの作曲に取り組まなければならなかった。

プラハの街では戴冠式に合わせてさまざまな祝賀行事が行われた。
1791年9月2日、国立劇場(現スタボフスケー劇場)ではプラハ市民に人気の高いオペラ「ドン・ジョヴァンニ」が上演された。
祝典オペラ作曲に追われていたモーツァルトだが、劇場に駆けつけ自ら指揮をとった。
客席を埋め尽くした聴衆からは拍手喝采が巻き起こった。

1791年9月4日、聖ヴィード教会で戴冠式の祝典が催された。
オペラ「皇帝ティートの慈悲」は初演の前日にようやく完成した。

第1幕、皇帝は策略のない理想の国を夢見て歌う。

“皇帝はこんな苦悩を堪え忍ばずに済むであろうに
 ああ玉座を取り巻くすべての心がこれほどに誠実だったなら
 広大な領土に苦しみはなく 幸福が支配するだろう”

かつて大成功を収めたプラハでオペラ「皇帝ティートの慈悲」はいよいよ初演の日を迎えた。

【第188回】ドイツ語小カンタータ 「無限なる宇宙の創造者を崇敬する汝らが」 K.619 より

2006年12月06日 | ウィーン
1791年 モーツァルト35歳の作品。
四男誕生の頃に完成した。フリーメイソンの集会用に依頼され、力強いピアノとともに啓蒙主義の理念が歌い上げられる。
この曲の依頼主はハンブルク商人ツィーハーゲン。
熱心なフリーメイソン会員で、この詩も自ら手掛けた。
モーツァルトは彼の詩をもとに崇高なカンタータに仕上げた。

“永遠の友情を誓い 手を差し伸べなさい
 汝らを長きに渡り遠ざけていたものは 真実の道理ではないのだから
 呪縛を断ち切りなさい そして偏見のヴェールを引き裂くのです
 さあ脱ぎ捨てなさい 汝らの望まぬ信仰の衣を
 
 この地上に真の不幸など 存在するはずはない
 正しい教えだけが 喜びを与えてくれる
 もしそれが汝らをよき行為へ導いてくれるのなら
 それは汝らを前へと駆り立ててくれる
 愚かしくも分別がつかず 後ろに進むのであれば
 汝らは不幸の中を さまようだろう

 ひたすら賢明に力強く そして兄弟であれ
 そのときわが満足は汝らの上にある
 そのとき喜びの涙が頬を濡らす
 そのとき悲しみは歓喜へと変わる
 そのとき汝らは芝野をエデンの谷間となす
 そのときあらゆるものが 汝らに微笑みかけるのだ”

バリトン: ディートリヒ・フィッシャー・ディースカウ
ピアノ: ダニエル・バレンボイム
出演: 宮本益光 (バリトン歌手)


 ~ 四男誕生 ~ 

1791年7月26日、モーツァルト家に四男が誕生した。フランツ・クサーヴァー・ヴォルフガングである。短命に終わった次女の死から1年半余り。モーツァルトとコンスタンツェは久々に大きな喜びに包まれた。

モーツァルト一家と友人が見守るなか、シュテファン大聖堂で四男の洗礼が行われた。
四男誕生の幸せをかみしめるモーツァルト。わが子の健やかな成長を願った。

妻コンスタンツェ、次男カール・トーマス、
そして新たな家族となった四男フランツ・クサーヴァー・ヴォルフガング。
家族4人での新たな生活が始まる。

【第187回】ミサ・ブレヴィス変ロ長調K.275「クレド」より/アヴェ・ヴェルム・コルプスK.618

2006年12月05日 | バーデン
■ミサ・ブレヴィス 変ロ長調 K.275 「クレド」より
ソプラノ: アグネス・メロン
アルト: エリザーベト・グラフ
テノール: オライ・プァフ
バス: フランツ・ヨーゼフ・ゼーリッヒ
指揮: ペーター・ノイマン
演奏: コレギウム・カルトゥジアヌム
合唱: ケルン室内合唱団

■アヴェ・ヴェルム・コルプス K.618
指揮: リッカルド・ムーティー
演奏: ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
合唱: ストックホルム室内合唱団

出演: 林望 (作家)


 ~ 珠玉の名曲 ~

1791年初夏、妻コンスタンツェは療養のためバーデンを訪れていた。
モーツァルトはそんな妻を気遣い毎日のように手紙を書き送った。

“この良い季節のバーデンはあの素晴らしい散歩もあってきみにとっては実に快適だろうし、きみの健康に合っていると思う。僕が迎えに行くかあるいはきみが喜んでくれるなら数日一緒に過ごそう” (モーツァルトの手紙 1791年7月9日)

1791年7月、バーデンを訪れたモーツァルトはこのミサ・ブレヴィスを自らの指揮で演奏した。

“ポンシオ・ピラトのもとにて われらのために十字架につけられ
 苦しみを受け葬られたまえり 聖書にありしごとく3日目によみがえり
 天にのぼりて父の右に座したもう”

妻コンスタンツェはモーツァルトホーフで療養生活を送っていた。
バーデンの友人アントン・シュトルが親身に世話してくれた。
教会の合唱指揮者だったシュトルへ感謝の気持ちをこめてモーツァルトは珠玉の名作アヴェ・ヴェルム・コルプスを贈った。

アヴェ・ヴェルム・コルプスは1791年6月10日、聖シュテファン教会で初演された。

“めでたし処女マリアより生まれたまいし まことの御体よ
 人のために苦しみを受け 十字架の上にていけにえとなりたまいし御者よ
 御わき腹はさし貫かれ 水と血とを流したまえり 
 願わくは臨終の戦にあたりて あらかじめわれらに天国の幸いを味わしめたまえ”

バーデンの地で生まれたこの名曲は時代を越えて人々に愛聴されている。

【第186回】 グラスハーモニカのためのアダージョとロンド K.617 より

2006年12月04日 | ウィーン
1791年 モーツァルト35歳の作品。
盲目の女性演奏家マリアンネ・キルヒゲスナーに捧げられた曲。

演奏: ナッシュ・アンサンブル
出演: 井上道義 (指揮者)


 ~ グラスハーモニカ ~

1791年5月 モーツァルト35歳。演奏旅行でウィーンを訪れていたグラスハーモニカの名手と出会う。盲目の女性演奏家マリアンネ・キルヒゲスナーだった。
彼女の奏でるグラスハーモニカの音色に魅了されたモーツァルトは、この「グラスハーモニカのためのアダージョとロンド」を彼女に捧げた。
澄み切った響きの中に深い翳りも合わせ持つこの曲は現在ではピアノで演奏されることも多い。

南ドイツの小さな町ブルッフザール。1769年キルヒゲスナーはこの町で生まれた。
キルヒゲスナーは4歳のときに失明してしまう。
しかしクラヴィーアを学び音楽的才能を開花させていく。
ブルッフザール城では郷里が生んだ名演奏家キルヒゲスナーを記念してその名を冠した演奏会が開かれている。

ブルッフザールの南に位置するカールスルーエ。
キルヒゲスナーは10歳のときにこの街へ移り住む。
宮廷楽長のもとで音楽を学び、その楽才にさらなる磨きをかけるなか、グラスハーモニカの名手となった。
1791年6月、ウィーンのブルク劇場でキルヒゲスナーの予約演奏会が行われ、この「グラスハーモニカのためのアダージョとロンド」が初演された。

“グラスハーモニカはあらゆる楽器の中でも最も高貴な楽器であり、哀愁を帯びた感情にとどまらず穏やかで崇高な感情を呼び起こす” (ウィーン新聞1791年8月13日)

盲目の名演奏家キルヒゲスナーとの出会いが生んだこの曲は、モーツァルト晩年の名作のひとつに数えられている。

【第185回】自動オルガンのためのアンダンテ ヘ長調 K.616

2006年12月01日 | ウィーン
1791年 モーツァルト35歳の作品。
装飾音が駆使された華やかな曲。
自動オルガン用に書かれた楽譜は後にピアノ用に書き直され出版された。

ピアノ: ワルター・ギーゼキング
出演:  羽田健太郎 (ピアニスト・作曲家)


 ~ 自動オルガン ~

11世紀に建設が始まったホーエン・ザルツブルク城は、今もザルツブルクのシンボルになっている。ここに自動オルガン通称「ザルツブルクの牡牛」がある。16世紀に作られたこの楽器は現在修復され、モーツァルトの父レオポルトの曲を演奏している。
生前レオポルトは自動オルガンのために多くの曲を残した。
息子のモーツァルトも自動オルガンのための曲を3曲作った。

ドイツ南部の小さな町ブルッフザール。
ここにヨーロッパ有数の機械仕掛けの楽器博物館がある。
ブルッフザール城内の博物館にはおよそ500台の自動楽器演奏装置が並ぶ。
自動オルガンはぜんまいなどを利用して機械仕掛けで演奏する楽器。
時計に組み込まれたものや人形が付いたものもある。

音楽愛好家のシュトリテッツ伯爵は、ウィーンのシュトック・イム・アイゼン広場にあった館に自動オルガンを設置していた。
伯爵はモーツァルトに度々作曲を依頼した。
自動オルガンの音色をあまり好まなかったモーツァルトだが、1791年5月、遂にこの曲を完成させた。
「自動オルガンのためのアンダンテ」。この曲は伯爵の館で多くの人々に愛聴された。

【第184回】弦楽五重奏曲 変ホ長調 K.614 第1楽章より

2006年11月30日 | ウィーン
1791年 モーツァルト35歳の作品
第1楽章は小鳥のさえずりを連想させる軽快さに溢れている。

演奏: ハウスムジーク
出演: 天野祐吉 (コラムニスト)


 ~ 追慕 ~

1791年4月12日、モーツァルトは自作目録にひとつの室内楽曲を加えた。
弦楽五重奏曲変ホ長調である。

この時期モーツァルトは宮廷作曲家としての棒給や楽譜出版など収入回復のきざしはあったものの、依然として借金を重ねていた。

“かけがえのない友よ!20グルデンと少々お貸しいただけたらありがたいのです。1週間後に棒給を受け取ります。感謝の気持ちをこめてお返しいたします。” (モーツァルトの手紙 1791年4月13日)

第6作目となるこの弦楽五重奏曲はヴァイオリン奏者のトストから依頼されたものだったという。トストはかつてハイドンゆかりのエステルハージ家に仕えていた。長年にわたってこの家お抱えの楽団で第2ヴァイオリンを務め、ヨーゼフ・ハイドンと親交を深めていった。この曲にはハイドンの四重奏曲「烏」を暗示する部分が随所に顔をのぞかせる。

4月中旬、モーツァルトはジンガー通りに面していたトスト家の音楽会に招待され、この曲を初演したという。かつて“弦楽四重奏曲の父”ハイドンを自宅に招いて共演を心ゆくまで楽しんだモーツァルト。師として尊敬したハイドンは既にイギリスに渡っていた。
涙ながらに見送った別れから4ヶ月、ハイドンへの追慕を込めたひとつの名曲が誕生した。

【第183回】キリエ ニ短調 K.341

2006年11月29日 | ウィーン
この曲は当初ザルツブルク時代の曲と言われていたが、最近の研究で1787年~91年の作品と推定されるようになった。

指揮: ペーター・ノイマン
合唱: ケルン室内合唱団
演奏: コレギウム・カルトゥジアヌム
出演:  千住明 (作曲家)


 ~ 大聖堂副楽長 ~ 

キリエとはミサで唱えられる祈りで、ギリシャ語で「主よ」を意味する。
通常ミサ曲の冒頭に歌われる。

“主よあわれみたまえ キリストあわれみたまえ”

短い言葉に渾身の祈りを捧げる合唱が重厚な和音で限りなく深淵な世界を作り出す。

1791年4月、シュテファン大聖堂の楽長ホフマンが病に倒れた。
ホフマンは1772年以来、大聖堂の楽長を務めていた。
教会音楽への意欲を高めるモーツァルト。
ホフマンの体調は間もなく回復したが、モーツァルトは栄誉ある職務を引き継ぎたいと願うようになった。

当時シュテファン大聖堂を管轄していたのはウィーン市当局。
モーツァルトはホフマンの後任を期待して市当局に申請書を出した。

“ウィーン市参事会の皆様!私の名は至る所で評価され、私自身市参事会の御好意に値するものと考えます。” (モーツァルトの申請書 1791年4月)

市参事会への懇願が実を結び、5月9日、副楽長に任命された。
モーツァルトは教会音楽に新たな情熱をそそぎ始める。

【第182回】B.シャックの「ばかな庭師」のリート「女ほど~」の主題による8つの変奏曲K.613より

2006年11月28日 | ウィーン
1791年 モーツァルト35歳の作品。

■ B.シャックの「ばかな庭師」のリート「女ほどすてきなものはない」の主題による8つの変奏曲 ヘ長調 K.613 より 主題 第1~第4変奏
演奏: ダニエル・バレンボイム
出演: 菊池洋子 (ピアニスト)


 ~ シカネーダー ~

1751年、南ドイツの小さな町シェトラウビングにウィーンの演劇界に旋風を巻き起こす人物が生まれた。エマヌエル・シカネーダーである。“モーツァルトのオペラ「魔笛」の台本作家シカネーダーはこの路地にある家で生まれた”と、今もその名はシカネーダー通りとして残っている。

ドナウ河畔に位置する世界遺産の街レーゲンスブルク。
かつてアルベルト・マグナス・キムナジウム(学校名)に通ったシカネーダーは演劇の虜になり、後に旅芸人の一座に加わり役者としてスタートを切った。

1780年、モーツァルトはザルツブルクを訪れていたシカネーダー一座を歓待した。
お礼にシカネーダーはモーツァルト一家を芝居に招待した。
そのころモーツァルトは旅先から父にこんな手紙を書いている。

“やっと今シカネーダーさんのためのアリアができました。シカネーダーさんは今でもしこたま稼いでいるかしら?” (モーツァルトの手紙 1780年11月22日)

モーツァルトはその後も歳の近いシカネーダーと親交を深めた。

1787年、シカネーダーは年少時代を過ごしたレーゲンスブルクに戻り、エギディエン広場にあった劇場の監督に就任した。しかし派手な演出や女性好きの性分が貴族の反感を買い、2年で辞任。そしてウィーンに移り住んだ。

シカネーダーはアンデア・ウィーン劇場の前身ヴィーデン劇場で再び一座を率いた。
当時の銅板画には“こけら落としの道化芝居「ばかな庭師」は大ヒットした”と記されている。
モーツァルトは劇中で主人公が歌うリートをもとにこの変奏曲を作る。
高度な技法が駆使される充実した作品に仕上がった。
同じ時期、シカネーダーからオペラ「魔笛」の作曲の依頼をされた。
モーツァルトはシカネーダーと共に新しいオペラの世界に挑む。

【第181回】 6つのドイツ舞曲K.600より第5番「カナリア」他

2006年11月27日 | ウィーン
1791年 モーツァルト35歳の作品。

出演: 茂木健一郎 (脳科学者)

■ 6つのドイツ舞曲 K.600 より 第5番 「カナリア」
指揮: ヘルベルト・フォン・カラヤン
演奏: ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

フルートやピッコロが愛らしいカナリアのさえずりを奏する。
ザルツブルク時代からカナリアを飼っていたモーツァルトはカナリアへの愛情をこの曲に込めた。

■ 3つのドイツ舞曲 K.605  第1番 第2番 第3番 「そりすべり」
指揮: コリン・デイヴィス
演奏: フィルハーモニア管弦楽団

モーツァルトは、第3番を「そりすべり」と名付けた。
そりすべりはウィーンの人々の冬の楽しみ。この曲では郵便馬車が合図に使ったポストホルンや鈴の音が雪の上を滑っていく馬車の光景を彷彿させる。


 ~ ドイツ舞曲 ~

1791年の年明け、舞踏会用の作曲に取り組んだモーツァルト。
1月29日「6つのドイツ舞曲」を完成させた。

2月12日、モーツァルトは「3つのドイツ舞曲」を完成させた。
舞踏会でドイツ舞曲が流れると、庶民も貴族に混じって踊ることができたという。
王宮で開かれた舞踏会には数千人が集い、朝まで踊りに興じた。

ドイツ舞曲は民謡風の旋律が特徴。
18世紀から19世紀にかけてドイツやオーストリアで愛好された。
3拍子のリズムにのって誰でも気楽に楽しめる曲。

かつて「そりすべりの音楽」という作品で鈴やトランペットを多用した父レオポルト。
第3番の「そりすべり」には父への想いも込められているのかもしれない。
1791年モーツァルト最後の年。前半の寡作ぶりが嘘のように、モーツァルトは作曲に取り組む。

【第180回】リート「春へのあこがれ」 K.596 他

2006年11月24日 | ウィーン
モーツァルト34歳の作品。
1791年1月14日に完成させた3曲の子どものためのリート。

歌唱: ウィーン少年合唱団
音楽監督: ウーヴェ・クリスティアン・ハラー
ピアノ: ペーター・マルシック
出演: 小塩節 (ドイツ文学者)


■ リート「春へのあこがれ」 K.596

“懐かしい5月よ来い 小川のほとりにすみれの花を咲かせておくれ
 すみれの花にまた会いたい 僕は散歩に出かけたいんだ
 天気がおだやかになって あたり一面緑になればなあ 
 いとしい5月よ 僕たち子供は君が来るのを待ちきれないんだ
 早く来てすみれの花を咲かせておくれ それから忘れずに小鳥たちも連れてきておくれ”

■ リート 「春のはじめに」 K.597

“花でいっぱいになった草原は あなたのための祭壇です
 萌えいづる季節があなたを祝福するでしょう
 最初のすみれの香りは あなたのために捧げましょう
 空を飛ぶひばりさえ あなたをたたえて歌うでしょう
 この喜びの創造主を わが魂は賛美して歌うでしょう
 神の作り出したものを 語り継ぐでしょう
 この花で満たされた丘から星々の通り道まで 祈りの翼に乗ってこの歌が届きますように”

■ リート 「子供の遊び」 K.598

“僕たち子供は 遊びながら仲良くなる
 叫んで 歌って 走り回って 草の上を飛んだり跳ねたりする
 見てごらん チョウチョだ 捕まえたりしちゃだめだよ
 あそこにも飛んでる きっとこいつの仲間だね
 ああ 太陽がもう沈んじゃう 僕たちはまだちっとも疲れてなんかいないのに
 じゃあみんな また明日 明日また楽しく遊ぼうね”


 ~ 春を待つ心 ~ 

「春へのあこがれ」の弾むようなメロディーは、直前に完成したピアノ協奏曲第27番の第3楽章にも使われていた。
春を主題にした3つのリートはフリーメイソンの仲間が出版。
「春のはじめに」の歌詞は自然の恵みを神に感謝するもの。
「子供の遊び」では、子供の世界が子供のまなざしで澄んだ音色に乗って描かれている。

【第179回】ピアノ協奏曲 第27番 変ロ長調 K.595 第2楽章

2006年11月23日 | ウィーン
1791年 モーツァルト34歳の作品。

ピアノ: クリスティアン・ツァハリアス
指揮: ギュンター・ヴァント
管弦楽: 北ドイツ放送交響楽団
出演: 中西俊博 (ヴァイオリニスト)


 ~ 白鳥の歌 ~

1791年 モーツァルトの人生最後の年。
この年に作られたモーツァルトの曲はいずれも澄み切った音色と切々とした情感をたたえている。

この年最初の作品が1月5日に完成した「ピアノ協奏曲第27番」である。
1月9日、アウエルスペルク侯爵邸でナポリ王の歓迎式典が開かれ、モーツァルトの弟子プロイヤー嬢がこの曲を弾いたといわれている。
当時ウィーンでのモーツァルトの人気は冷え込んでいて、モーツァルト自身の演奏会を開くことは難しかった。
この曲をモーツァルト自らが初めて人々の前で弾いたのはおよそ2ヶ月後の3月4日、自宅近くの馴染みのレストランでだった。

現在はカフェ・フラウエンフーバーになっているこの場所で、クラリネット奏者の演奏会が開かれ、そのときモーツァルトはこのピアノ協奏曲第27番を演奏した。
かつて華麗なピアノ協奏曲を携え音楽会場を満席にしたモーツァルトのこれが最後の公開演奏となった。

このピアノ協奏曲第27番はしばしば「白鳥の歌」と呼ばれる。
「白鳥の歌」とは芸術家の最晩年の傑作を指す言葉。
「白鳥は死ぬ直前に最も美しい声で鳴く」という伝承に由来する。
第26番「戴冠式」以来3年ぶりとなるこのピアノ協奏曲。
温かみのある旋律と清澄な響きが聴く者の心をとらえる。

モーツァルトのピアノ協奏曲の大部分は生前には出版されなかったが、この第27番はこの年の夏アリタリア社から出版された。
澄み切った情感のピアノ協奏曲で幕を開けた1791年。
後にモーツァルトの“豊饒の年”と呼ばれるようになる。

【第178回】弦楽五重奏曲 ニ長調 K.593 第2楽章

2006年11月22日 | ウィーン
1790年 モーツァルト34歳の作品。
ヴァイオリン奏者ヨハン・ペーター・トストの依頼で作曲されたといわれている。

演奏: ハウスムジーク
出演: 滝田栄 (俳優)


 ~ さらばハイドン ~

1790年11月、モーツァルトは1ヶ月半ぶりにウィーンに帰ってきた。
その間家族は新たな家カイザーハウスに移り住んでいた。
ウィーン中心部シュテファン大聖堂に近いここはモーツァルトがその死のときまで暮らした場所である。最晩年の名曲が数々生まれたこの家でこの「弦楽五重奏曲ニ長調 」も書かれた。

曲の依頼主はジンガー通りに住んでいたヨハン・ペーター・トストといわれている。
トストはヴァイオリン奏者でかつてエステルハージ家の楽団員だった。
モーツァルトが敬愛するヨーゼフ・ハイドンとも同僚だった。

1790年9月、ハイドンが仕えていたエステルハージ侯が死去。
ロンドンの興行師ザロモンがハイドンの演奏会を企画し、ハイドンはイギリスへの旅を決定する。

渡英を前にハイドンはモーツァルトと食事を共にした。
音楽の師としてだけでなく父のようにハイドンを慕っていたモーツァルトは、60歳近い年齢で英語も話せないハイドンの渡英に強く反対した。
しかし「言葉はだめでも音楽は通じる」とハイドンは決意を変えなかった。
モーツァルトは涙を浮かべながらこう語ったと伝えられている。

“パパ もうお会いできないような気がします” (モーツァルトの言葉)
ハイドンの身を案じる25歳年下のモーツァルト。

ハイドンがロンドンから戻ったのは1792年のことだった。
晩年を過ごしたウィーンの家は現在ハイドン博物館になっている。

終生ハイドンを敬愛し続けたモーツァルト。
常にモーツァルトを暖かく見守ったハイドン。
しかしハイドンの渡英以降ふたりが再会することはなかった。

【第177回】ヴァイオリン・ソナタ イ長調 K.526 第1楽章

2006年11月21日 | ミュンヘン

ヴァイオリン: フランク・ペーター・ツィンマーマン
ピアノ: アレクサンダー・ロンクヴィヒ
出演: 徳永二男 (ヴァイオリニスト)


 ~ 涙の手紙 ~ 

ライン川とマイン川が合流する街マインツ。
モーツァルトはフランクフルト演奏旅行の帰途、1790年10月16日マインツに立ち寄る。

モーツァルトは1週間滞在し、この「ヴァイオリン・ソナタイ長調」を演奏したといわれる。10月20日の晩にはこの選帝侯の館で演奏会を開く。
しかしその収入はモーツァルトが満足できるものではなかった。

“選帝侯のところで演奏したんだけど、たったの15カロリーンもらっただけだ” (コンスタンツェへの手紙 1790年10月23日)
モーツァルトはマインツを発ってミュンヘンに向かう。

バイエルン州の州都ミュンヘン。ミュンヘンはモーツァルトが幼い頃から何度も訪れた街だった。このときも中心街にある定番の「黒鷲館」に宿泊した。

モーツァルトの滞在を聞きつけたミュンヘン選帝侯からは演奏依頼が来る。
ちょうどナポリ王がミュンヘン訪問中で、モーツァルトは歓迎音楽会に出演した。

“ナポリの王様が異国で僕の演奏を聴くはめになろうとは、ウィーンの宮廷にとって素晴らしい名誉だ” (コンスタンツェへの手紙 1790年11月4日頃)
だがモーツァルトの心はすでにウィーンで待つ妻のもとへ飛んでいた。

“君に再会出来るのが嬉しい。話したいことが山ほどあるからだ。来年の終わりには君と一緒に旅するつもりだ。そうすれば君の気晴らしにも僕の健康にも効き目があるだろう。ごきげんよう 可愛い人 数百万回のキスをするよ”

ミュンヘンを発ったモーツァルト。
旅の成果は乏しかったが、愛する妻に会える喜びをかみしめていた。

【第176回】アリア「天があなたを私に返して下さる今」 K.374

2006年11月20日 | フランクフルト
愛する人が戦地から戻ってくる女性の喜びを歌ったアリア。

“天があなたを私に返してくださる今
   私の喜びはとても分からぬでしょう 愛がどんなものかご存じない人には
     今となっては懐かしく思い出されます いまわしい出来事の数々でさえ”

ソプラノ: リナ・ルーテンス
指揮: シギスヴァルト・クイケン
演奏: ラ・プティット・バンド
出演:  森麻季 (ソプラノ歌手)


 ~ ゆれる思い ~

1790年10月15日、新皇帝の戴冠式に沸くフランクフルトで演奏会を開いたモーツァルト。
このアリアはその演奏会でピアノ協奏曲「戴冠式」と一緒に演奏された。

フランクフルト到着当初は旅館に泊まっていたモーツァルトだが、旅費を節約するため3日目からカルベッヒャー通りにあった製パン所に宿泊した。
滞在中モーツァルトはこの通りにあった裕福な商人の家に食事に招かれた。

“僕がフランクフルトで有名であり賞讃され愛好されていることは確かだ” (コンスタンツェへの手紙 1790年10月8日)

あちこちで歓迎されながらもモーツァルトの心は重かった。

“僕には何もかもが冷たい氷のように冷たいんだ。もし君が僕のそばにいてくれたらみんなの愛想をもっと楽しめるだろうに” (コンスタンツェへの手紙 1790年9月30日)

ある日曜日、モーツァルトは気晴らしにカタリーネン教会でオルガンを弾いたという。
しかしモーツァルトの心は晴れなかった。

“君が僕の心の中を見ることができたらなぁ。君に再会して抱きしめたい切望と、たくさんお金を持って家に帰りたい願望が戦っている” (コンスタンツェへの手紙 1790年10月8日)

結局フランクフルトでの演奏会は収入面で期待はずれに終わった。
それでもモーツァルトは妻の手前明るく振る舞ってみせる。

“そういうことが色々あるにせよ 僕は上機嫌だし、みんなにも気に入られ、次の日曜日にもう一度演奏会を開くように懇願されたほどだ” (コンスタンツェへの手紙 1790年10月15日)

だが2度目の演奏会は実現せず、モーツァルトは10月16日、妻の待つウィーンへ向け出発する。