新潟地裁で行われていた遺伝子組換えイネ裁判の判決が1日あり、原告側(反対派)の訴えが全面棄却となった。
農研機構中央農業総合研究センター・北陸研究センターの組換えイネ栽培試験について、有機農家や有名歌手、漫画家などが差し止めを求めていたものだ。
北陸研究センターのプレスリリース
共同通信記事
判決前に裁判を詳しく説明した朝日新聞記事
判決を伝える朝日新聞記事
私は、裁判が起こされた直後に関係書類を読んで、原告側の荒唐無稽な主張に呆然となった。推論に推論を重ねて、「実験に使われる組換えイネは危険だ。大変なことが起きる」と主張する。一つ一つの推論にかなりの無理があるのに、それを積み重ねて行くのだから、どうしようもない。
これは、科学裁判と言えるような質のものではないというのが私の印象だ。
ただ、裁判を起こす権利はだれにでもある。世の中に常識の通用しない人はいっぱいいるし、運動のツールとして裁判を使う人もいる。ちなみに、この裁判の訴訟代理人弁護士の中には、京大教授が中西準子先生を訴えて敗訴した例の裁判で、原告側の代理人を務めたおひともいる。「裁判闘争ごっこ」なのだ。
被告側の北陸研究センターは大変だっただろうしお金も使っただろう。今回の裁判は原告全面敗訴で、裁判費用は原告負担となったが、研究者や関係者の無駄に費やした時間を考えると、被告側は莫大な損害を被っている。本当に同情するけれど、空しいけれど、でも、やっぱり仕方がない。
だから、私が腹が立つのは、こういう裁判をさも科学的な論争であるように報じる新聞や雑誌だ。「なぜ、取材が足りないことに気づかないのか? もっと勉強しろよ」と正直に言ってこれまでたびたび思った。
判決後の朝日新聞記事を読んで、さらに赤面。この手の、分かってないのに上から目線、というのは、同じ取材を生業としている人間として、読んでいて辛い。ああ、でも、新聞ってよくやります。私も現役の若い新聞記者だった頃にはやってしまったような。なんで、私が他人の書いた記事を、こんなに恥ずかしがらなきゃならんのだあああ。
そこで、ちょっと思い出したことがあった。提訴後の2006年6月、栽培試験の一般説明会があったので、私はわざわざ新潟まで聞きに行った。裁判が絡んでいるので、地元の農家の反応を知りたかったのだ。その時の様子が、この写真。
ざっと数えたところ、参加者は報道陣の数まで入れて40人強。報道陣とつくばなどから駆けつけたらしい関係者を除くと、たしかに前の方に反対派らしき人たちが10人くらい。でも、一般市民も普通の地元の農家も見当たらない。「もしや、一般市民は私一人では…」。そう思いながら、傍聴した。
肝心の質疑もつまらなかった。前に陣取った反対派はいろいろと言うけれど、鋭い質問はなく、センターの説明もまったく面白くなく、「うーん、交通費を返してくれ」という感じ。後で聞いたところによれば、地元の農家の方々は、その前の説明会で実験の意味をすんなり理解してくれたそうで、わざわざこの説明会に足を運ぶということがなかったらしい。
ところが、翌日の新潟日報の記事の見出しはこうだった。「2年目実験へ 疑問の声次々」
記事は、説明する。
…………………………………………………………………………
実験ほ場の周辺住民を対象にした、県条例に基づく説明会は4月に開かれたが、農林水産省の実験指針による一般向け説明会は本年度初めて。県内の農家ら約40人が参加し、同センターの研究者が今年の実験計画を説明した。
質疑では、会場から「本県の農業にとって迷惑な実験。遺伝子組み換え食品を食べたい人はいない」「歓迎されない実験だ」など、実験の必要性を疑う質問が出た。
…………………………………………………………………………
こう書いたら、なんだか農家がいっぱい集まって熱く抗議したような印象を与えるじゃありませんか。一般説明会といいながら、一般市民はたぶん私一人なんだけど……。
うーん、やっぱり文章を書くというのはマジックだ!
私は、この後しばらく講演などで、「マスメディアはこういう手口を使う」と説明しながらこの写真を見せていたけれど、あまりにも低レベルというかくだらないので説明するのも恥ずかしくなり、スライドから外してしまった。こういう裁判だったのだ。
農研機構中央農業総合研究センター・北陸研究センターの組換えイネ栽培試験について、有機農家や有名歌手、漫画家などが差し止めを求めていたものだ。
北陸研究センターのプレスリリース
共同通信記事
判決前に裁判を詳しく説明した朝日新聞記事
判決を伝える朝日新聞記事
私は、裁判が起こされた直後に関係書類を読んで、原告側の荒唐無稽な主張に呆然となった。推論に推論を重ねて、「実験に使われる組換えイネは危険だ。大変なことが起きる」と主張する。一つ一つの推論にかなりの無理があるのに、それを積み重ねて行くのだから、どうしようもない。
これは、科学裁判と言えるような質のものではないというのが私の印象だ。
ただ、裁判を起こす権利はだれにでもある。世の中に常識の通用しない人はいっぱいいるし、運動のツールとして裁判を使う人もいる。ちなみに、この裁判の訴訟代理人弁護士の中には、京大教授が中西準子先生を訴えて敗訴した例の裁判で、原告側の代理人を務めたおひともいる。「裁判闘争ごっこ」なのだ。
被告側の北陸研究センターは大変だっただろうしお金も使っただろう。今回の裁判は原告全面敗訴で、裁判費用は原告負担となったが、研究者や関係者の無駄に費やした時間を考えると、被告側は莫大な損害を被っている。本当に同情するけれど、空しいけれど、でも、やっぱり仕方がない。
だから、私が腹が立つのは、こういう裁判をさも科学的な論争であるように報じる新聞や雑誌だ。「なぜ、取材が足りないことに気づかないのか? もっと勉強しろよ」と正直に言ってこれまでたびたび思った。
判決後の朝日新聞記事を読んで、さらに赤面。この手の、分かってないのに上から目線、というのは、同じ取材を生業としている人間として、読んでいて辛い。ああ、でも、新聞ってよくやります。私も現役の若い新聞記者だった頃にはやってしまったような。なんで、私が他人の書いた記事を、こんなに恥ずかしがらなきゃならんのだあああ。
そこで、ちょっと思い出したことがあった。提訴後の2006年6月、栽培試験の一般説明会があったので、私はわざわざ新潟まで聞きに行った。裁判が絡んでいるので、地元の農家の反応を知りたかったのだ。その時の様子が、この写真。
ざっと数えたところ、参加者は報道陣の数まで入れて40人強。報道陣とつくばなどから駆けつけたらしい関係者を除くと、たしかに前の方に反対派らしき人たちが10人くらい。でも、一般市民も普通の地元の農家も見当たらない。「もしや、一般市民は私一人では…」。そう思いながら、傍聴した。
肝心の質疑もつまらなかった。前に陣取った反対派はいろいろと言うけれど、鋭い質問はなく、センターの説明もまったく面白くなく、「うーん、交通費を返してくれ」という感じ。後で聞いたところによれば、地元の農家の方々は、その前の説明会で実験の意味をすんなり理解してくれたそうで、わざわざこの説明会に足を運ぶということがなかったらしい。
ところが、翌日の新潟日報の記事の見出しはこうだった。「2年目実験へ 疑問の声次々」
記事は、説明する。
…………………………………………………………………………
実験ほ場の周辺住民を対象にした、県条例に基づく説明会は4月に開かれたが、農林水産省の実験指針による一般向け説明会は本年度初めて。県内の農家ら約40人が参加し、同センターの研究者が今年の実験計画を説明した。
質疑では、会場から「本県の農業にとって迷惑な実験。遺伝子組み換え食品を食べたい人はいない」「歓迎されない実験だ」など、実験の必要性を疑う質問が出た。
…………………………………………………………………………
こう書いたら、なんだか農家がいっぱい集まって熱く抗議したような印象を与えるじゃありませんか。一般説明会といいながら、一般市民はたぶん私一人なんだけど……。
うーん、やっぱり文章を書くというのはマジックだ!
私は、この後しばらく講演などで、「マスメディアはこういう手口を使う」と説明しながらこの写真を見せていたけれど、あまりにも低レベルというかくだらないので説明するのも恥ずかしくなり、スライドから外してしまった。こういう裁判だったのだ。
Twitterのリンクからたどり着き、初めてこの件を知り、読ませていただきました。
通常、このような裁判では原告側が被害者ですが、訴えられた方が被害者であるという事はわかったのですが、上記リンクだけでは、その確からしさに近づけませんでした。立証が今回の記事ではないのでしょうけれど、興味をそそられただけに、申し越し、深く知りたかった次第です。
※メルアドの登録が無いので、返事があってもわからないかも(笑)
当たり前の話だが、それをもってこの事業に反対するあらゆる根拠を否定し去ること、と言って悪ければ事業の意義、必要性、正当性を無批判に前提とすることはさらなる退廃だろう。
抵抗勢力が死に絶えることをひたすら待ち続けながら、同時に当初の意義の絶えざる見直しなど行われるはずもなく、メルトダウンのごとく粛々と予算は費やされ、廃墟のような既成事実だけが積み重なっていく。
こんな「なし崩し」政策、「日にち薬」行政の手法を過去のものにしなければ、もはや日本の再生はないだろう。
『前原氏は徹底的な「悪人」になれ…』という産経新聞の署名記事は実に正鵠を射た意見だと思う。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20091004-00000547-san-pol
当方も勉強不足を痛感しますが、そもそも遺伝子組み換えなんて、世の一般市民は真剣に勉強して無いから関係者の説明不足だと思う。勉強をしろというのはエゴ。勉強しないのは怠慢。でもこの場合怠慢が普通。難解な話しだったら嫌になるくらい説明すべき。たぶん殆どの人は遺伝子組み合えは恐怖ですよ。その意味からも未だに大豆製品には「遺伝子組み合えでない」表記があるのです。
ちょっと変な話しになりました。
稲のコレはちょっと手間をかけて調べても資料は少ないは分かりにくいわで、こんなんじゃ怠慢を払拭しても説明責任が果たされてない。もし市場に出てきたら絶対に買わない。
掛け合わせと組み替えは違う。でも安全?ならばもっと分かるように説明して欲しいなぁ。。。当事者の方々は。
貴方が買いたくないなら買わなければ良いだけの話ですよ。
被告の説明責任を云々言う前に危険性を立証責任する必要のある原告側が怠慢だったと言うことだけです。
要約してくれてありがとう。
--
必然的に市民の側も、知らなくちゃ議論にならない「必須知識」の量も多くなっていきます。
こうやって、一生懸命に伝えようとしてくださるメディアの方がいる一方で
正しい知識を得ることに興味も示さないばかりか、
イメージだけで拒絶反応を示す市民の姿勢というのは
何とかならないものでしょうか・・・。
事業者の説明不足、エゴと指摘するのも分かりますが、
説明会は必ず開いているし、今の時代、ちょっとGoogleで検索すれば、
かなり細かいことまで調べられますよね。
論文だって、Summaryだけなら、いくらでも引っ張れます。
英文読めっていうのは、ちょっと行き過ぎかもしれないけれど、
自ら目をふさぎ、耳を閉じながら他者を非難するその姿は、中世の魔女裁判を想起させます。
魔女裁判のように100年たてば、それが愚かしいことだったと
「一般の市民」にも分かる日が来るのでしょうか?
私たちはいつも科学的という名前の元ブラックボックスを提示されてきました。
ワクチンなどもそうです。
唯一科学的経験に基づく判断をするとすれば、「科学的」と名前の付くものは疑えということです。
「遺伝子組み換えが安全」と言っているわけではないのです。
安全だと思われる組み換え食品もあるし、当然ですが、危険な遺伝子組み換えだってあります。
ですから、全てのGM食品について、詳しく安全性試験が行われているわけです。
問題なのは、“自称”市民活動家たちが、反対している理由が、
「○○という部分が危険だから」という具体的なものではなく、
「遺伝子組み換えだから」という、殆ど感情的なものであることです。
そうなると、いくら安全性を試験で照明しても、そもそも議論がかみ合いませんよね。
「私、あなたの性格のこういう部分が嫌い」
というのと
「私、あなたが嫌い。どこをどう直しても嫌い」
というのとでは訳が違うじゃないですか。
蛇足ですけど「科学的」に言うとね、極端な所に真実は無いんですよ。
「遺伝子組み換えは全部安全」も間違い。
「遺伝子組み換えは全部危険」も間違い。
真実は、たいてい、その中間あたりにあるものです。
(原子核の周りを回る電子の軌道だって、確率でしか分からないじゃないですか)
「遺伝子組み換えには安全なものもあるし、危ないものもある」
だから、その見極めはちゃんとやらないといけませんね、
と理性的な判断ができる。
もう一つ、自然の食品にだって、毒性のある天然物質が山ほど含まれています。
みなさん、殆ど気にしないで食べてますけど。
よっぽど突出したリスクに対応するのでなければ、
大事なのは、一つのリスクだけに気をとられるのではなくて
着目しているリスクが、他のリスクに比べてどれぐらいの大きさなのか、
俯瞰的な視野を持つことだと思いますよ。
この視点が、全てでないにせよ、市民活動家の方達やマスコミに
決定的に欠けている点だと思います。
DNA組み換え技術をもっぱらリスクの面で議論することは無意味だと思います。(ただし、原子力技術では全く違うということは強調しておきたいと思います)
乱暴な言い方かもしれませんが、DNA組み換え技術は確率的には極めて低いとはいえ、自然界でも起こりうる事態を人工的にもたらす技術だと思います。したがって、変異の意義が人間にとってどれほど大きく感じられても、生命というレベルではきわめて限定されたもの考えられることから、いわゆる「モンスター」が生まれ出る可能性はほぼないのではないかと思います。
考えなければならないのは、その技術が自分にどんな利益もたらすのか、自分でなければ誰のための利益であるのかいうこと、もし自分のための利益でないならそれはあるいは自分または第三者の不利益ではないのかということだと思います。これはトレードオフの問題ではなく権利問題です。
多くのの市民運動、と言って悪ければ少なくともここで取り上げられているそれはその視点を失っています。それを目的意識的に対象化することがなければ、政治権力の抑止力、修正力としての、社会が真に必要とする市民運動の意義が復権される日は永久に来ないと考えます。