留守宅の玄関に茶封筒がおいてあった。
最近よくあることで、
届主がわからないで困ることが時々あって、
先日もお菓子等をいただいているが、
鹿児島(本土)のお土産らしいが心当てがない。
同窓生が講演に来てたことを聞いたが
逢ってないのでもしや・・・?
FBでつぶやいてみることにしたい。
そのうちに誰だかわかるだろう。
それぐらいの
のんびりしたお付き合いの人だろうから、
許してもらえるだろう。
一週間ほど前、「あまみーふまみー」のCDといっしょにお菓子が置いてあった。
これだったら、
かりゆしバンド」のてっちゃんだろう。
ミカンの接ぎ木を頼まれているが、
まだ仕事をしていないので、
責任を果たしてからお菓子をいただこうと思っていたら、
すでに食卓に並んでいた。
CDのほうは今朝開封して聞いた。
馴染みの旋律が心地よい。
昨夕は、
私が最後の提出だったであろう郷土研究会報の原稿が届いていたのにはびっくりした。
随分まえにブログに載せたものを、
手直しもせずに持って行った。
そんなでよければ書き直そうと思っていたのだが、
写真と後ろの部分を削除してもらうことでお願いした。
考える手間暇をかけずにすんでよかった。
与論郷土研究会を立ち上げるきっかけになったのが
先田光演先生の進めによるものと思う。
麓先輩から声がかかった。
私の心は、なにもかも、
兄弟島の沖永良部島に置いていかれるのが悔しかった。
農業も文化も沖永良部に差を付けられている。
同じ環境に生まれながらなんでできないのか悔しい思いを持っていた。
農業で頑張ったつもりを、郷土研究でもやりたかった。
先田先生が古文書を紹介してくれて、
調査現場に私を誘ってくれた時からこの道に足を突っ込むことになった。
10年前のことだったようで、
郷土研究会の規約やメンバーをワープロしていた。
発会当時は書記会計、そして監査、現在副会長をさせてもらっている。
このことで、
文化人の仲間入りができ、
町誌の追録のメンバーにも加えていただいた。
先田先生との出会いがなかったら、
おそらく私は生物の分野の方に足を運んでいただろう。
今度はさらに考古学に足を突っ込んでしまった。
今年に入ってからである。
呉屋先生との縁が墓場まで続きそうだ。
埋蔵文化の研究は生涯の学習のテーマになった。
今日の午後虹
呉屋先生と待ち合わせて調査を続ける。
とうとう生み出す苦しみから抜け出して、
動き出した。
前世からのご縁 義勝 安堵 凸凹 ここ惚れわんわん。