としちゃん&VTR250

のんびり、ドキドキ、ブランク10年のリターンライダーの日記

呉&耶馬溪&山陰旅行 2001年 No.1/3 呉市

2018-10-24 21:40:00 | 旅行
呉&耶馬溪&山陰旅行の日記

2001年 6月29日~7月8日
全日空の超割旅行(呉、耶馬溪、鳥取砂丘など)

6月29日 金曜日 ぱらぱら雨時々曇り

 全日空の超割利用の4日間の旅行第1弾の初日。山口宇部空港にお昼頃に到着し、レンタカー(トヨタのスプリンター)で山陽自動車道を東へ向かう。途中スプリンターのカウンタが666666になってちょっと嬉しい。
中国道はいつもの様に空いていて快適だ。

 岩国インターで降りて錦帯橋へ。河原に有る駐車場は川が増水しているらしく閉鎖されているので別の駐車場へ車を停める。平日のせいか観光客は少ない。

錦帯橋は見た目はとても急なのだが、実際に歩いてみると歩き易い様に場所によって傾斜が変えてあってとても楽だ。設計力にも技術力にも感心する。離れて見る橋はやはり噂通り美しい。

橋から山を見上げると芸予地震で被害を受けたため修復中の岩国城の天守閣が見える。
岩国市は落ち着いた街で趣きが有り私は好きだ。山口県と広島県は隣り合っていても雰囲気はかなり違っている。(山口県の方が広島や呉の雰囲気より私の好みに合っている。)

 岩国から呉市までは海岸沿いの国道を走る。
思っていた程、走りながら海を見ることは出来なかった。
広島呉間も自動車専用道路を使わず国道を走る。
昔通った呉市の港町小学校の円形校舎は道路からもよく見えたが、他には懐かしい場所は見ることが出来なかった。すっかり忘れているのかなあと思ったが、翌日知ったことには、昔住んでいた所は通っていないので、分からなくて当然だった。

 駅前にある呉ステーションホテルにチェックインする。呉駅から1番近いホテルは阪急ホテルだ。それは新しくて立派なのだが、呉ステーションホテルの部屋からは呉駅とその向こうに港が見えるので、とても嬉しい。

夕食は駅ビルの中の和食の店で「安芸御膳」を食べる。安くて入り易くて美味しくて良い店だ。ここでは翌日の夕食も取ることになる。

6月30日 土曜日 曇り時々晴れ

 午前中に歩いて出掛ける。呉駅から一駅先の川原石駅を下りた所に港町小学校がある。
港町小学校は 私が入学から2年生の1学期まで通った小学校。



学校では教頭先生に(帰る時にその人が教頭先生だということを知った)学校内を丁寧に案内して頂く。
円柱形校舎の最上階の4階からは360度景色がよく見える。海と反対側の山側には階段住宅が沢山あり、やはり地震の被害を受けてまだ青いビニールシートが掛けてある屋根を沢山見かける。

私が居た頃(1学年3クラス)とは違って、生徒数が半分以下に減っているので、空き教室を昔の生活展示室にして利用している。おかげで小学1年生の時の教室に入ることが出来た。円柱形校舎は普通廊下になる所がホールになっているので、私は好きだ。

先生からは校歌の楽譜と演奏テープを頂く。校庭の端(幼稚園側)にはプールが出来ている。プールは昭和46年に出来たということだ。25メートルで4コースの可愛らしいプールだ。プールや校庭で楽しむ子供達が可愛い。校庭からも呉の港がよく見える。

 小学校を出てから、その隣にある聖慈幼稚園へ行く。幼稚園児だった当時から狭いと思っていたが、やはり狭い。幼稚園の運動会は小学校の校庭を借りてしていたのだが、1度雨で延期になり、小学校の校庭が借りられず幼稚園の庭で開かれたことがあった。今考えても、この広さでよく出来たものだと思う。

 学校周辺の商店街、通学路、昔住んでいた所、その隣にあって昔よく登った水源地への石段(172段)、防空壕が続く通り(半分位は工事をして壁になっている)など懐かしい所を写真を撮りながら歩く。

 新宮寮が在った所は現在は日立の工場と集合住宅になっている。その裏は昔は大雨が降るとすぐに崖崩れを起こす山だったのだが、現在は一戸建ての集まる住宅地になっている。

隣の水源地へ登る石段はほぼ昔通りに残っている。「関係者以外は立ち入り禁止」と書かれているが、柵は無いので上ってみる。
石段脇の木々が大きくなって石段は日陰になる。

昔はシロツメクサが沢山咲く広っぱだった所は今は柵で囲まれていて入ることは出来ない。
ここにはよく平日の昼間に母、弟と来たものだ。母から聞いた話では、新宮寮でハーモニカを吹くと近所迷惑なので、ここに連れて来て吹かせていたのだということ。私の記憶の中のこの場所は 天国とはこういう所なのだろうと思う夢いっぱいの場所である。

石段を下りていると、高校生のカップルが石段途中に並んで座っておしゃべりをしているのに出会う。誰も来ない場所だからデートには最適なのだろう。後ろ姿を写真に撮らせて貰った。

 次に若葉寮や海上保安大学校が在る所へ向かう。
昔は防空壕がずっと続いていたのだが、現在は半分位は工事が完了して防空壕があったことが分からない様になっている。残り半分は丁度工事中なのだが、塞いであるものの防空壕の入り口がそれと分かるので、昔を懐かしむ旅をしている私としては嬉しい。
もう少し来るのが遅かったら 防空壕があったことさえ分からなくなっているのだろう。

海上保安大学校からジャージを来た学生がタクシーに乗って次々と通る。私は写真を撮りながらふらふら歩いていると、工事のおじさんに「トロトロしていると轢かれるぞ。」と言われた。呉の人のイメージが悪くなった。(爆)

 若葉寮では、いかにも平日の官舎らしく、小さい子供を連れた母親達がおしゃべりをしている。
海では釣り人がひとり。
都会の通勤などとは比べものにならないが、ここは呉中心部に出掛けるには車が無いと不便な所だ。

 川原石駅までゆっくり戻る。
バス停は昔と同じ場所に有るが、バス停の名前は変わっている。
昔は「海岸通り8丁目」だったと思うのだけれど、幼かったので 自信は無い。

7丁目止まりのバスと 8丁目まで行くバスの違いが分からず 運悪く7丁目止まりのバスに乗ってしまうと 子供にしては長い距離を歩かなければならなかった。途中に住宅が無くて 1区間が長かったのかもしれない。
今は家が増えて 何も無い区間は 無くなっている。

小学1~2年だったけれど ひとりでバスで耳鼻科に通って居た。
住宅の風上に亜鉛工場があったそうで 耳鼻科に通う子供が多かった。
愛媛県宇和島市に引っ越してからは 通うことは無くなったので やはり環境のせいだったのだろう。

昔住んでいたもうひとつの官舎を探して歩く。母から「黒瀬鶏卵」の鳥小屋になっていると聞いていたので、それらしい建物を探すが、どこにも無い。そこは官舎として使われる前はダンスホールだった建物だ。

ふと、ブランコのある小さい公園を見つけ、よく見ると隣にトンネルが在る。そうそう、トンネルを通って山に遊びに行ったりしたっけ。
小学生の頃には普通のトンネルだと思っていたのに、今見るととても小さいトンネルで、トンネルを抜けると山だったのに、今は住宅地になっている。しかしトンネルと公園のおかげで住んでいた場所が分かって嬉しい。

あまりの暑さに近くのスーパーに入って、中の喫茶コーナーでアイスコーヒーと梅ゼリーを食べる。

 そのスーパーから実家の母に電話をして情報を仕入れる。母からは、呉中心部に行ったら私がよく好物のうどん屋さんを探した商店街や孔雀が沢山居る小さい動物園に行ってみると良いと言われる。

電話のそばに居たおじいさんに昔の話を聞くと、呉市が人口40万人居て賑わっていた頃の話を沢山して下さった。動物園のことを聞くと、それは今は公園になっていると言う。とても親切な人だった。

 スーパーを出てまた歩き始める。八百屋のおじいさんに「昔、私が小学生だった頃、この道は通学路でした。犬を沢山飼っていた家があって、その前を通るのが楽しみでした。」と言うと、おじいさんはとても懐かしそうな顔をして「ああ、犬を飼っていたのはあのあたりだよ。相当昔の話じゃなあ。」と教えて下さった。そこで色々と昔の話をした。

犬を沢山飼っていた家の辺りは 朝鮮人で 母と弟が結婚式に行き合わせた時に 花嫁さんを見て 幼い弟が
「お母さん、お母さん、おとひめさまが居るよ!」と大喜びで叫んだと 後年母から聞いた。

さっきのスーパーで会ったおじいさんもそうだが、昔の話を懐かしんでしてくれる人は皆、遠い目をしている。

学校の帰り道だけ通った裏道(朝鮮人)、母との思い出の横断歩道、小学校近くの商店街を見て、川原石駅からまた電車に乗り、呉駅へ戻る。

 一旦ホテルへ戻り、車に乗って音戸大橋や昔通った耳鼻科のある吉浦へ行く。吉浦では耳鼻科の在った場所は分からなかったが、町の様子は記憶に近いものだった。ただ、記憶していたより道路の幅は狭かった。
車で走っただけで、ホテルに戻る。

 歩いて街に出る。メイン通りの中通りと本通りを歩く。呉市内の商店街の中通り(れんが通り)は、私の記憶には残っていないのだが、地方都市にある商店街という感じだ。所々閉まった店があるのも、この時代のせいだろう。

母から聞いた「昔は孔雀が沢山居た公園」を探す。商店街のはずれにあると聞いたので、そう思って探すとすぐに見つかった。現在は堺川公園という名前で、整備されて綺麗で沢山の子供達が遊んでいる。

私は動物園のことはあまり覚えていないのだが、弟と一緒に孔雀が羽を広げるのを待って、羽を広げると大喜びしたことだけは、はっきりと覚えている。
たまたま通りかかったおじいさんに「ここは昔、孔雀が沢山居た公園ですか。」と聞くと、
「ああ、孔雀、おったなあ。でもだいぶ昔の話じゃなあ。」と言って、そのまま去って行った。やっぱりここがそうだったんだ。

 商店街を抜けて地図を見ながら、今回の旅行のきっかけになった、インターネットで呉市内の小学校の掲示板を持っている「ささき酒店」へ行く。

この酒店の若主人(私と同年代の人)に掲示板で港町小学校の書き込みをした本人であることを告げると、御主人よりその隣に居た奥さんがぱっと笑顔になって喜んで下さった。「雨後の月」という地元でしか買えない純米吟醸の4合瓶を1本買って、お店を出る。

帰りは川沿いの歩道をのんびり歩く。朝から気温も湿度も高くてとても暑い日だ。
駅ビルの中の店で晩酌セット(生ビール)を食べる。暑い日のビールは最高♪

 今日は1日、とても充実した日だった。私が呉市に住んでいたのは、幼稚園から小学校2年の1学期までの短い間だが、第2の故郷の様でとても懐かしく、今回こちらに来て本当に良かったと思う。


祖母のお葬式 2001年

2018-10-24 11:50:00 | 特別
祖母のお葬式の日記

2001年3月 祖母のお葬式

3月10日 土曜日 晴れ時々曇り

 夜に弟ともぐちゃんから祖母(92歳)が亡くなったとの電話が入る。着信履歴によると、最初に午後7時19分に母から電話が入っている。亡くなったのは午後10時15分だそうだが、7時頃に悪くなったのだろうか。電話で話している時は大丈夫だったが、電話を切った途端に悲しみが込み上げて来て泣いてしまう。

 帰省して聞いた所によると、10日の朝9時過ぎに祖母が部屋から父を呼び、父が行ってみると片手がしびれると言って部屋で転んでいたそうだ。病院に連れていって検査を受けさせた所、どこも異常は無いとのこと。

祖母は両親に「お世話になります。」と言い、手のしびれも良くなって来ていたのだが一応安心のため入院することになる。

両親は帰って大丈夫と言われて夜に一旦家に帰ったのだが、遅くに急に悪くなったと病院から連絡が入り、間に合ったが10時15分にあっけなく亡くなってしまった。
祖母は午後11時前には家に戻って来たので、12~13時間病院に入っただけで、本当にぽっくり亡くなったという感じだ。

 祖母は9日まで元気で、6、7日には庭の草取りをしているし、歩いてひとりで買い物にも出掛けている。宇和島市には9日に大雪が降り、祖母の9日の日記には「銀世界」と書かれている。悪くなったのは突然の寒さのせいだったのかもしれない。
祖母の毎日の日記を読んで、私がずっと日記を書くのは祖母に似ているせいなのかもしれないと思う。

3月11日 日曜日 晴れ

祖母の告別式に出るために全日空の第2便で四国松山空港へ。当日にすぐに降りられる様にと前方席を購入したら、最前列のC席になる。

松山からJRで宇和島市へ。午後2時前に実家に到着する。弟は第1便で先に帰っていて庭の掃除や窓拭きなど色々としてくれていた。朝から親戚の人や母の友人が手伝いに来て下さっていてとても助かっている。

祖母はもうお棺に入っていて、昔の顔に戻ったその顔を見ると涙が溢れて来た。祖母は私と同じく若い頃はつり目だったのだが年を取るにつれて目じりが下がって来ていたのだ。それが亡くなると色が白くなって皺も無くなって目じりがすうっと上がって本当に若い頃に戻った様だ。祖母の死に顔を見ながら「私も死ぬと目じりが上がった昔の顔に戻るのだなあ。」と思う。

 通夜の準備など手伝いをし、午後6時半から通夜が始まる。焼香の後は殆どお茶出し係になっていた私だが、大勢の人に来て頂いて祖母の人生は良いものだったのだなあと思う。

日頃会うことの無い親戚の人たちや近所の人たちとも久し振りに顔を合わせて話をする。

みなさん帰られて両親と私と弟で祖母の話をし、夜は祖母の居る祭壇の前に布団を敷いて寝る。母は昨日は一睡もしていないので祖母に1番近い所に布団を敷いて今日は安心して眠った様だ。

夜中に甥っ子の熱が下がらないと妹から電話が入り心配になるが、それでも眠った様だ。何故なら翌朝弟から、としゴンが現れたことを聞いたから。(爆)(後日甥っ子の熱も下がって安心する。)

3月12日 月曜日 曇り後晴れ

 朝早起きをして喪服を着る。9時出棺。老師の「死に様あっぱれ!」の言葉に「おばあちゃん、褒めて貰ったね。」と母が話す。
棺おけに釘を打ってしまう時は悲しい。
霊柩車には龍が沢山居て、今回風邪で来られなかった龍好きの甥っ子に見せてやりたかったなあと思う。

9時半から11時に祖母は火葬になる。ドアが閉まる瞬間には「ああ、これで本当にお別れだなあ。」と思う。1時間半お茶やお菓子を出して祖母の話をしながら待つ。

11時にお骨になった祖母が出て来る。病気だった所は黒くなると言うが、健康だった祖母の骨には黒い所はひとつも無くて真っ白でとても綺麗だ。

明治生まれで身長が163センチ有った祖母は骨もしっかりしている。すべての骨を拾い、紺地に花模様の美しい骨壷に祖母は入る。小さくなった祖母は私が抱いて車で家まで帰る。母から「おばあちゃん、軽くなったでしょう。」と言われたが、生きている時に祖母を抱いたことが無いので、私には重みが感じられた。

 家で親戚の人や母の友人達と昼食を取る。
もぐちゃんも仙台から到着。道を覚えようと思って宇和島駅からこの家まで歩いて来たもぐちゃんは(間違わなければ徒歩15分位の距離)今回初めて駅やお城と、この家の位置関係や 駅や街の中心部から意外に近いことがよく分かったと言う。車に乗せて貰って来た時には分からなかったそうだ。
しかし初めて歩いたため、道を間違えて少し遠回りをしていた。

 午後2時からお寺で告別式が始まる。家から近い所に有るお寺には近所の人達も沢山来て下さっている。9日に降った雪がまだ日陰には残っていて、祖母の亡くなる前日の9日の日記の「銀世界」という言葉を思い出す。

お膳の後、午後3時58分宇和島発の汽車で弟ともぐちゃんは帰る。
両親と私は最後に祖母の遺骨、遺影、お膳やお酒を持ち帰る。
帰宅後、お膳は父と私で配り、お酒は主に私が横浜に戻るまでに夕食時に頂いた。「姫鶴」という宇和島市のお酒。
夜は祖母の遺骨のある祭壇の置かれた部屋に布団を敷いて寝る。祖母と一緒に寝るのは今日が最後だ。

3月13日 火曜日 晴れ

喪服を着て10時に両親とお寺へ行く。本堂でお経をあげて貰ってからお墓に行き納骨をする。祖母の綺麗な骨壷は祖父の隣に納められる。祖父と祖母が話をする様子を思い浮かべて穏やかな気持ちになる。

帰宅して洋服に着替えて1階の祖母のベッドと2階のソファーを入れ換える作業をする。その他片付けものなど沢山有り、暫くは忙しくなりそうだ。
母からは納骨まで居て欲しいと言われていたのだが、まだまだ大変そうなのでもう暫く残ることにする。

祖母の部屋に掛けてある使っていない柱時計のねじを回してみたらちゃんと使えることが分かる。しかもかなり正確である。私が物心ついた頃から居間で大活躍していた柱時計だ。日本製で「コンパスマーク」と書かれていてコンパスのイラストが描かれている。母の話では祖父母が結婚した頃に買ったものらしい。まだまだ元気な時計を見て嬉しくなる。

 新聞を見て祖母の死を知った弔問客が次々に来られる。12日は新聞の休刊日だったため、葬儀には間に合わなかった人達が結構あった様だ。大正14年にお嫁に来てからずっとここに住んでいた祖母は古い知り合いが市内のあちこちに多く居た様だ。

3月14日 水曜日 晴れ

弔問客は途絶えず。足が悪いのに遠くから来て下さる方も居て、感激する。
私は自転車で買い物に出る。普段自転車に乗ることは無いのでちょっときつい良い運動になる。出掛ける時にうちに弔問に来られる途中の同級生のお母さんに会う。透析をされているそうだが、来て下さって有難い。
帰宅してから着物を畳む。着物は好きだけれど、次に喪服を着る機会が早く訪れないことを祈る。

3月15日 木曜日 曇り時々晴れ

母の買い物のため運転手をつとめる。帰りに電器店に寄って店頭に並ぶファックス電話を見る。母は一目でソニー製品のデザインが気に入り、ほぼそれに決まるが、家で検討して明日のセールに改めて来ることにする。

 帰宅してから母と祖母の墓参りに行く。今日も弔問客が有る。

 夜に1989年12月の旅行のビデオを見る。
祖母、母、私の3人で車で回った旅行で、私の住む横浜から伊豆、石廊崎、箱根、彦根、広島と進む。

当時祖母は81歳だったのだが、浄蓮の滝の石段、箱根神社の石段、彦根城の天守閣の段差のある階段など杖もつかずに歩いて、とてもしっかりしている。
その旅行は私がビデオ(ソニーのパスポートサイズ)を買って間もない頃で、ビデオを触ることがとても嬉しい時だったので、長々と録画していたのだが、祖母との会話など沢山残っているので、今はずっとカメラを回していて良かったなあと思う。

 祖母の箪笥の整理をしていたら、祖父母の若き日の写真と私の小学1年から高校3年までの通知表が出て来る。
祖母と私が、祖父と弟がよく似ている。

通知表は、成績もさることながら、担任の先生の書かれている私に対する一言が面白い。
成績はとても良いものから同じ人のものとは思えない程悪いものまで色々様々だ。(笑)
中学と高校は何名中何位、とはっきりと数字で書かれているので非常に分かり易い。体重の順位が無いのは有難かった。(笑)

3月16日 金曜日 晴れ

 午前中に電器店へ行き、昨日見ておいた実家に置くファックス電話(ソニー)を購入する。在庫が切れていたので持ち帰って設定する所までは行かなかった。電器店は今日から20日まで春のセール中なので、プレゼントの鍋を貰う。昨日とは違って大勢のお客さんで賑わっている。

 外で用事を済ませて帰ると、今日も弔問客があったことを聞く。
午後に葬儀屋さんが祭壇を片付けに来る。祖母の写真を残して貰って、家に有る祭壇を出して祖母の遺影をかざり、新しく祭壇を組み立てる。暖房で少し葉っぱは枯れて来ているが、まだまだ菊の花は綺麗に咲いている。

 部屋の片付けを手伝い、昨日の続きの祖母と母との旅行のビデオを見て、父に宇和島駅まで車で送って貰う。
午後5時11分発松山行きのJRは、出発時には空席も結構有ったが、松山駅に到着するまでにはいっぱいになっていた。

午後6時43分に松山駅に着き、タクシーで松山空港へ。空港へは7時に到着し、7時15分発の東京行き全日空に間に合う。
飛行機の中では全日空寄席を聞いて笑うが、羽田空港からの高速バスではひとり祖母のことを思い出して涙が出て仕方が無かった。

 横浜の家に帰ってから実家に無事着いたよコールをした後に、今年の2月に祖母から来た手紙を出して読むと、また涙が出て来た。孫である私の健康を気遣う内容と「いつあえるか、あえる日を楽しみにして居ります。」そして「自分の体は自分で守ることと思います。」という文章が心に残る。
92歳まで健康に気を配り、亡くなる前日まで歩いてしっかりしていた祖母を「偉いな、見習わなければならないな。」と思う。

 横浜の家に帰るとびっくりすることがあった。テーブルの上にくまちゃんとクッキーの入った可愛い籠が置かれていたのだ。もぐちゃんからのホワイトデーのプレゼントだった。あんまり可愛いので暫く食べないで飾っておくことにする。

3月17日 土曜日 曇り後雨

 今回の日記を書く。1日に何度も涙が出る。時が経てば涙は出なくなるのだろうか。

祖母からの最後の手紙(消印は今年の2月7日)

一筆申し上げます。
長落御無沙汰致して居ります。
御元気に御暮しでしよおか
御伺い致します。
私の方は皆無事に暮して居ります故
御安心下さい。
節分も終わりました。段々暖かくなりますが
まだ寒い日もあると思います。
風邪をひかぬ様気を付けて暮して
下さい。御願い致します。
節分に御守の御札戴いて帰りましたので
御送り致します。自分の体は自分で守る
事と思います。

何とぞ良く気を付けて病気にならぬ様
気を付けて暮して下さい。
御願い致します。
何時あえるか、あえる日をたのしみに
して居ります。忠○さんも
御元気でしよおか、よろしく言って下さい。
何卒体に気を付けて元気に暮して下さい。
御願い致します。
婆ちゃんは、みんなが元気に暮して
戴く事が何よりの御願いです。
何卒御元気で。     さようなら

○○忠○様
○○○志様        キミヨ