雑談の達人

初対面の人と下らないことで適当に話を合わせるという軽薄な技術―これがコミュニケーション能力とよばれるものらしい―を求めて

自分の限界を「正確に」知れば、自分磨きともサヨウナラできる。

2010年10月29日 | その他の雑談
「自分の限界を知る」という表現に、後ろ向きなニュアンスが漂うのはなぜだろう。そこには、「自分の能力をあきらめている」「努力による成長の可能性を否定している」といった意味を感じるからだろう。みんな、「がんばれば、きっと何とかなる」と信じたいのだ。

でも、がんばっても、無駄なものは無駄であることを知ることこそが、大人というものだ。
中年の仲間入りをして、つくづくそう思う。そして、若かりし頃の自分を振り返ると、自分の非力さに焦り、無意味な努力をしたものだと、思わず苦笑いしてしまう。

「やってみなければ、きっと後で後悔する(=やってみれば、失敗しても悔いはないはず)」というのが、若者を駆り立てる殺し文句だが、何のことはない。大人になってみると「やりもしないが後悔もしない」という素晴らしい選択肢が転がっていることに気づく。

「自分にできること」「自分のやりたいこと」を無限の努力によって永遠に追求するのではなく、「他人と競争しても勝てそうにないこと」「自分のできないこと」「自分にとって苦手なこと」を早めに見極めることが、幸せへの近道だったのだ。

ただ一方で、自信を失い過ぎてしまい、自分を過小評価しているのも、これまた問題である。あと少しの努力や、何らかのコツや切っ掛け、有効なアドバイスさえあれば、何とかなったはずなのに、それをしなかった、あるいは出来る環境になかったことで、「限界」にぶち当たったと、思いこんでしまうこともあるが、それは「限界」でない。

そう。自分の限界を、寸分狂いなく正確に把握できていれば、空虚な自己啓発に駆り立てられたり、他人からの努力の無理強いに苦しんだりすることもないのである。

さて、現代日本には、自己啓発、自分磨きへの誘い、叱咤激励が満ち溢れている。ということは、みんなどこか自信過剰なのだろう。がんばれば、きっと何とかなる。そういうメッセージが、大いに商売になっているのだとすれば、多くの人々が自分を買い被っているのは間違いない。

社会に閉そく感が蔓延しているというけれど、日本の閉そく感の正体は、イラクやパレスチナやアフガニスタンの人々が感じているような、希望なき未来への絶望ではないと思う。日本人は、「やればできる病」に罹っているだけである。そして、いくらやってもできないものはできないという、当然の現実を受け入れようとせず、追い込まれているだけなのだ。

自分を過大にも過小にも評価せず、能力の限界を正確に知ること。そうすれば、くだらない自己啓発に踊らされることもなく、無意味な自分磨きともサヨウナラできる。

大人とは、もうこれ以上成長しないから大人なのだ。

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