goo blog サービス終了のお知らせ 

雑談の達人

初対面の人と下らないことで適当に話を合わせるという軽薄な技術―これがコミュニケーション能力とよばれるものらしい―を求めて

日本の技術力は、世界に誇るナンバーワンでなく、見向きもされないオンリーワン

2009年12月03日 | ビジネスの雑談
「日本は世界に誇れる高い技術力を持っている。」とは、日本の製造業をめぐる言説の中では、言い古されたものだ。

しかし、どうも怪しい。はっきり言って、日本人以外は誰もそう思っていないフシがある。まぁ、確かに技術は高いが、「世界に誇れる」かどうかは微妙だ。

日本の技術とは、端的に言ってみると

「製品をナノのレベルまで最小化することができる!」
「製品の寸法誤差が、±ウン千分の1ミリ以内である!」
「ウン万時間の耐久試験後も、故障の確率は0.001%以下である!」
「不良品の発生率が、数百万分の1の確率である!」
「エネルギー効率が、従来の数倍の高さである!」

と言った感じのものが多い(あくまで「感じ」だが)。

確かにすごい。すごいのであるが、単にすごいだけで終わっていないか。別にそんなスゴくなくても、十分使用に耐えるものが、中国辺りで大量に安く出回っている。

言ってみれば、メイド・イン・ジャパンの製品とは、高級料亭の懐石料理みたいなものだ。最高の食材、伝統を守り抜いてきた秘伝の調理法、熟練の凄腕の板前・・・出てくる料理は最早芸術の域だ。

だが、値段が高い。量が少なくて腹が満たされない。気取ったかんじで気楽に入れない、くつろげない。まぁ、スゴイものだとは認めるけど、別にいらないや…… というのが、広く一般からの反応だろう。日本の技術力とやらも、グローバル市場からの扱いはそんな程度だ。

製造業がグローバル市場で戦うために求められるのは、極上の懐石料理を作ることではなく、冷蔵庫のあり合わせの食材で、意外なほど美味しい料理をササッと作れるようになることだ。努力と根性と忍耐ではなく、要領とヒラメキとセンスの良さが求められる。

こういった方面だと、はっきり行って日本は無力だ。何より、素人が思いつきで行動したりすると、心底馬鹿にされる(成功したとしても見直されることはまずななく、軽蔑の対象であり続ける)。そして、結果の如何にかかわらず、精進に精進を重ねた玄人の判断がもてはやされる(結果がでなければ、世の中の方がおかしいと言わんばかりになる)。

結局、既存の産業が懐石料理ばかり作ったあげくに壊滅し、余計な茶々を入れる存在が消滅し、一度焼け野原になった後でないと、日本発では何も新しいものは生まれないのだろう。

「節約新時代」と「カイゼン」の行き着く先

2009年09月23日 | ビジネスの雑談
9月22日の「ガイアの夜明け」を視た。テーマは「節約新時代」であった。

大手のセットメーカーの社員が、下請けの部品工場にコスト削減をさせるため、下請けまで出向いてストップウオッチで作業時間を計測して無駄がないかチェックしたり、機械のレイアウトを見直して、作業員の機械までの歩数(移動距離)を縮めたりさせていた。よくある「カイゼン」である。

あとは、不要な照明をマメに消したり、格安の結婚式プランを用意したりと、番組が「節約新時代」と名打っている割には、古めかしい節約ばかりだった。

日本企業は過去の不況においては、こういう涙ぐましい努力により、数々の危機を乗り越えてきたのであろう。過去の成功体験というのは強烈で、それを捨て去るのは難しい。だが、もう「節約」で乗り越えられる時代は終わったのではないか。中国では、工場労働者の月給は1000元ぐらい(1万3千円!)らしい。照明を全部消しても、日本の労働者が歩数をいくら縮めても、追いつくわけがない。月給で単純比較するなら、日本の労働者は生産性を中国人の10倍以上にまで高める必要があるが、不可能である。

このまま「カイゼン」により、日本のものづくりを延命させるつもりなら、下請け工場のレイアウトに口を出すだけでは不十分だ。行き着くところまで行くなら、下請け工場の社員の私生活にまで介入するしかない。例えば、

「この通勤ルートは無駄ですので、変更してください。公園を抜ければ、50歩程度移動を節約できるはずです。あと、たかだか5kmの距離ですので、できれば自転車で通い、通勤手当を返上してください。」

「あなたは労働の割にはカロリーを取りすぎです。食費の無駄です。もっと安い給料で働けるはずです。」

「預金通帳をすべて持ってきてください。貯金ができる余裕があるということは、過剰な所得を得ているということです。給料カットの参考資料にさせていただきます。」

・・・といった具合である。「節約新時代」とは、こういう時代だろう。ただ、そういう時代では、「エコカー」や「省エネ家電」などは、真っ先に切り捨ての対象になるだろうが。

大学生の就職ランキングに見る日本沈没の序章

2009年09月16日 | ビジネスの雑談
前回のエントリでも書いたが、最近はチラチラと転職サイトなどを眺めるようになった。今のところ、さしたる成果はないのだが、自分が新卒として「シュウカツ(この言葉は既にあったのだろうか?)」をしていたころが懐かしくなり、近頃の若人にはどんな企業が人気なのか、就職ランキングなるものを除いてみた。

総合ランキングはこちら

で、唖然としてしまった。10年以上前の自分のころと、ほとんど大差ないような印象だったからである(実際のところは、めんどうくさいのでちゃんと調べていないがw)。

あれから10年以上も経つのに、筆者が全く聞いたことのない会社、何をしているのかさっぱりわからないというような会社が、全然ない。新しい産業というのは、全く起こっていないということか。まぁ、見方を変えれば、年寄りに理解不能な進路を、リスクも顧みずに突き進むような親不孝(?)な若者は皆無だということだ。良い子ちゃんたちばっかりで、親御さんたちも安心ですね。

そう言えば、筆者が学生の頃から、航空会社は超人気であった。内定をもらったらしい筆者の知人は、モテまくっていた。だが、筆者はどうも合点がいかなかった(やっかみ半分だがw)。当時から、日本の航空会社(といっても2社しかないが)の経営はかなり苦しかったと記憶しているのだが、何故ほとんど利益が出ていない(というか、赤字で経営再建中w)ような会社に応募が殺到するのか。まぁ、どうしても航空業界のロマンが好きだというなら、それは本人の勝手だが、なぜ周囲まで色めき立ち、モテだしたりするのか。

我が国の「ナショナル・フラッグ」を誇る某社の困窮ぶりは凄まじく、聞くところによると、外資の手に落ちようとしているらしいが、それでも来年も人気ランキングベスト10をキープしたりするのだろうか。だとすると、「アメリカの企業と提携するなんて夢があってステキ」とか、きっと脳みそパラダイスな方々が多いのだろう。

ランキングの上位から、業種を順に挙げていくと、旅行、化粧品、飛行機、銀行、飛行機、進研ゼミ(こどもちゃれんじw)、ディズニーランド、電車、銀行、ビール、テレビ、で、また旅行w

平々凡々な学生生活の中で、精一杯の視野に入ってくる日常の風景ばかりである。これは、幼稚園児に、「大きくなったら何になるの~?」と聞いてみると、「おもちゃ屋さん!」「お花屋さん!」「サッカー選手!」「ペットショップの店員さん!」、「ウルトラマン!」と答えるのと大差がない。大学生に、いたいけな幼稚園児を笑う資格は全くない。自分の日常生活の視野に入ってくる以外のものは、何も見えていないという点で、日本の大学生も同じなのだから。

筆者は期せずして商社の法人営業として、日本を代表とするような大企業から、家族経営の零細企業まで、数多くの会社を実際に目にする機会に恵まれたが、世の中は広い。「こんな会社があるのか」という、地味で一般には全く知られていないが驚くような利益を挙げておられる会社もある。労働力は使い捨ての風潮の中で、自前の人材育成に懸命に力を注いでおられる会社もある。学生の頃の自分に、今の知識と経験があれば、こういう企業への就職を狙うのに、と悔やまれるような会社もある。

だが、仮に筆者が今の学生にそういう話をしても、全くわかってもらえないだろう。かく言う筆者自身にしても、学生の時分はきっと同じレベルだったのかもしれない。「三流企業の負け組が何を言ってやがる」と、せせら笑うのが関の山だろう。彼らには、自分自身が見えておらず、同年代の自分の仲間しか見えていない。自分の仲間に「内定スゴイね!」と言ってもらえるような格の高い、世間体の良い組織に入ること、それが大学を出たに過ぎず、何の実力もない自分を上げ底する最も楽な方法なのだから。

幸か不幸か、筆者の場合、自分を上げ底できるような組織とは縁遠いため、無力な自分の現実を直視し、生涯にわたって自己研鑽をする覚悟を決めるほかない状況に追い込まれてしまった。某航空会社を端緒に、毎年変わり映えのしない就職ランキングに出てくる、素敵な企業が次々と行き詰まり、外資の手に落ち、あるいは勝ち組他社に飲み込まれ(銀行がまさにこのケース)、不採算部門をまるごと売り飛ばすか(メーカーはだいたいコレ)、子会社に分割する(大手商社などはコレ)ような日が既に来ている。このまま日本が沈没しても、何とか筆者は生き残り、愛する家族と人知れず静かに、ささやかに繁栄できればと思うのだが、果たして如何に。

転職活動を何故匿名で行うのか?

2009年09月09日 | ビジネスの雑談
厭世モード全開のエントリーを最近連発していたら、このブログの読者でもある筆者の奥さんからクレームがついた。曰く、アンタが世捨て人なのは勝手だけど、そんなお父さんを見て、今は小さい子どもが大きくなった時どう思うか? せめて、まだ幼い子供が物心つく前に、もう少し前向きな姿を見せて頑張るべきではないか?

確かにそのとおりである。筆者が如何に将来を悲観していようと、子供の将来まで引きずりこむのはあんまりである。とはいえ、このご時世、何をやっても結局ダメかもしれない。だが、せめて前のめりに倒れてみせよう。その姿を見て、お父さんの屍をたくましく乗り越えて生き抜く強い子になってくれ…

何をすべきか、五里霧中であるが、とりあえず、仕事をもっと充実させられないかと、転職サイトをいろいろ覗いてみた。筆者程度の経歴だと、転職先も今の会社に毛が生えた程度のレベルがやっとである。ちょっと背伸びして、試しに大手企業に応募してみると、あっさり書類選考で落とされた(泣)。待遇はともかく、もうちょっとストレスの小さそうな職場はないか、などと小市民的なことを考えてみたりする。

そんな中で気になったのだが、転職活動とは、今勤めている会社はもちろん、人知れずコッソリと行うべきものらしい。自分のプロフィールをウェブ上で登録できるのだが、個人を特定できる情報は巧妙に隠し、匿名とすることができる。まぁ、自分のところの社員が転職活動をしていたら、管理者は面白くないだろう、というのはわかる。ところが、自分の会社だけではなく、取引先の会社、同業他社にも知られることのないように、自分のプロフィールを特定の企業には非公開にする機能まで用意されている。どうやら間接的でさえ、転職活動がバレたらとんでもないことらしい。更に、「転職内定後の退職マニュアル」的な部分を読むと、何と勤務先の会社には転職先が決まっていることを絶対白状してはならぬ、と警告している。「円満退社」のためには、「転職の意思が固い」ことをひたすら強調して逃げ切れ、と勧めている。

こんな風に社会全体として、仕事をしながら転職活動をすることそのものがケシカラン、という風潮はいかがなものか。職業選択の自由は、わざわざ憲法で明文により保障されているほどの権利である。もはや昭和の遺物となりつつある年功序列・終身雇用に安住するのは個人の勝手だが、それに従おうとしない者を社会全体として何となく排除してしまおうとするのは、どう考えても行き過ぎである。私生活で浮気は許しても、仕事で浮気は絶対に許さない、というのが日本企業の態度である。

また、転職者の側も、もはや今の会社を出て行こうとするのに、何故そこまで「円満退社」にこだわるのか。まるで、「別れた恋人の心の中で、素敵な思い出の1ページとして居続けたい」などと、ムシのいいことを考えているかのようで、誠に気持ちが悪い。自分を思いとどまらせたいのなら、もっと給料をだせ、権限をよこせ、待遇を改善しろ、なんてことを言って、ビジネスにおいて本来あるべき交渉に持ち込むのは、この国では夢のまた夢なんだろうか。

格差社会を是正すべく「再チャレンジ社会」を実現しよう、などと牧歌的なことを述べていた、脳みそがお花畑のような人たちが以前たくさんいたが、こんな状況を鑑みるに、暗澹たる気持ちにならざるを得ない。小手先の改革では、まったく不十分である。勤務時間以外に、何をしていようと全く個人の勝手のはずだ。転職活動の妨害と、副業の禁止を法律で厳格に取り締まるぐらいのことをやらないと、労働市場の流動化など夢物語であろう。

「嫌われ役」と「嫌われ者」の違い

2009年08月28日 | ビジネスの雑談
筆者の会社に、「社の嫌われ役」を自称している人が居る。

要は、「会社の発展や従業員全体の生活を守るという大きな目標のため、たとえ嫌われても覚悟の上で、面倒で辛くてもやらねばならないことを、無理にでもやらせるため口うるさく言う」、というのをポリシーにしておられる。

「嫌われ役」には、どことなくヒロイズムが漂う。何となくかっこいい。たとえ自分は犠牲になろうとも、組織全体のためなら、あえて汚れ役を買って出る、みたいな。そして、遂には、その甲斐あって会社が輝かしい成果を成し遂げた時、「これも嫌われ役を担ってくれたあの人のおかげだ!」と、愚かな社員どもがやっと気付き、尊敬のまなざしを一身に浴び、伝説となる…

で、わが社の「嫌われ役」殿であるが、確かに嫌われている。非常に細かく、どうでもいいことに特に口うるさい。しかも、粘着質で陰険である。果たして、「嫌われ役」として機能しているかと言うと、全くそんなことはない。単なる「嫌われ者」にしかなっていない。本人は嫌われ役を買って出ているつもりだが、経営層から末端の従業員含め、だれもそのように認識していない。この自称嫌われ役殿に何を言われても、自分の利益しか考えていないように聞こえてしまう。

「嫌われ役」は、実のところ難しい。あくまで「役」であるということがポイントだ。本当のところは、嫌われていないのである。つまり、人徳や憎めないキャラクターや、日ごろの何気ない気配りなど、他の理由で十分に好かれているからこそ、ビジネスの上での嫌われ「役」が務まるのである。

もともと、大して好かれてもおらず、気の利いたフォローもしておらず、人徳に欠けるような人間に、やっかいなことを命令されて、

「あの人の言うことだ。それなりの事情があるに違いない。ここは我慢して従おう。」

などと、普通は誰も考えない。そのように感じさせるには、嫌われるレベル以上に、好かれていることが条件となってくる。

「嫌われ役」は、下手に買って出ないほうがいい。誰にでもできるようなことではない。自分がどの程度好かれているかに応じて、嫌われることのできるレベルが自ずと決まってくる。己の分際をわきまえず、嫌われ役のヒロイズムに陶酔しているようだと、ただの嫌われ者として扱われる羽目に陥るだろう。

精神論と営業

2009年08月20日 | ビジネスの雑談
このブログの常連の読者の方なら感じていただけるかもしれないが、筆者は基本的に精神論が嫌いである。前回の記事の「ダメモト論」への懐疑などは、その典型である。「戦略のない組織からは精神論しかでてこない」などという文章を読むと、思わずうんうんと頷いてしまう。

ところが、営業という仕事をしていると、精神論を完全に否定しがたいところがある。そもそも、営業が必要な商材というのは、ただ待っていても全く売れないから、わざわざ売り歩かねばならないような種類の商品である。営業にも宣伝にも当然それなりのコストがかかるのだから、そういうものなしに黙って売れていくのであれば、それに越したことはない。

同様の物を売っている所はいくらでもある商品、あったら便利だが必要不可欠とはいえない商品、ごく限られた人々にしか求められない嗜好品的な商品…どちらかといえば、そういう商品が世の中において圧倒的多数を占めており、とにかく無理矢理にでも売りつけて、何とか暮らしの糧を得ているのが、資本主義の姿である。

「最後の最後まで絶対にあきらめず、何としてもお客様に買っていただきたいという気持ちが大事だ!」
「10回通ってダメなら100回通え、100回通ってダメなら1000回通え!」
「商品を売るためには、まずは自分を売り込め!」
などと、ゴリゴリの精神論を聞くと、筆者は内心反発を覚えると同時に、だからと言って完全には否定できないもどかしさがある。究極的には、別に自分の会社の商品を買ってもらえなくても、相手が困る理由はないのである。しかも、死ぬほど営業しても、売れる可能性はほんの数%かもしれない。だが、こちらがあきらめた瞬間、売れる可能性は完全にゼロになる。精神論を完全に否定してしまうと、最早営業という仕事自体が成立しないのだ。

職業の貴賤を考える上で、安定高収入とか、組織の大きさとか、社会的ステータスとか以外に、扱っている商品(又はサービス)に営業の必要がなければないほど、憧れの職業と見なされるのではないかと思ったりする。医者、弁護士、公務員、マスコミ、航空会社、大手銀行…これら定番の人気職業は、黙っていても客が来るかのようで営業とは一見無縁のようだ(一般人が気付かないようなところで、実はそうでもなかったりするのだろうが)。厳しい営業努力が必要な仕事ほど、敬遠される。飛び込みセールス、保険、住宅リフォームなどの営業職は、不況に拘わらず、常に求人がある。きっと、定着率も低いのだろう。

精神論はうっとうしい。できれば、誰だってそんなものとは無縁に生きて行きたい。気合いとド根性が何より求められる営業など、敬遠されて当たり前かもしれない。だが、戦略や実効性、効果や必然性といった合理的な尺度だけでは、世の中は回らない。言ってしまえば、「つらく厳しい世の中で何としても生き抜くのだ。」という決意そのものが、既に精神論である。矛盾と不条理だらけの世の中で生きていくためには、独善的で根拠薄弱な精神論を受け入れるしかないのかもしれない。

雑用をどう考えるか

2009年07月25日 | ビジネスの雑談
どんな仕事についても、新人は当面雑用をやらされるものである(あるいは、「ものであった」、と言うべきか。様々な職場で「新人」そのものが消えているのだから)。かく言う筆者も、コピー、届け物、買い物、メモ係、物探し、書類整理、カバン持ち、ゴミ捨て、運転手…ありとあらゆるパシリ役をやらされてきた。

一番苦々しい思い出は、パソコンもまともに使えない上司が書いた、殴り書きのような書類をワープロで「清書」させられることだった。「読む」というよりは、便所のネズミのクソのような字を「解読」しなくてはならなかった。「何と読むのか」などと上司殿に問うと、キレて血迷うので、その上司の過去の殴り書き原本をアーカイブにしておいて、何十分もかけて「過去例」から判読したりしていた。こういう上司連中のほとんどは高学歴で自信過剰であり、自分の汚い字が唯一無二の「素晴らしい」個性の現れと信じ込んでいたので、直そうとするわけもなく、本当にタチがわるかった。あまりに非効率なので、書類の決裁を電子化しようかという話も出たが、結局立ち消えになった。大方、ああいう上司どもが強硬に反対したのだろう。

日本社会の新人育成方法は、とりあえずパシリをさせて、側で先輩の仕事を見ながら仕事を覚えさせるというものであった。それは今も、それほど変わっていないのではないかと思う。日本の労働市場はガチガチに硬直しているので、新卒か第二新卒を逃すと、最早まともに就職するチャンスを失う。最初は小さい会社で仕事を覚え、実績を重ねるにつれて、より大きな会社に転職し、キャリアアップしていく…などというのは、終身雇用と年功序列バンザイの日本社会では、おとぎ話の世界に近い。結局、新卒のド新人に雑巾がけからやらせて飼いならす以外、人材の育成方法はない。

これまでは、そんな方法でもそれなりに機能してきた。なぜか。毎年、新しい雑用係、パシリ役が入ってきたからだ。いまは奴隷状態でも何年か我慢すれば、雑用から解放される。もっと我慢すれば、哀れなド新人クンをパシリに使える立場に回れる。そう自分に言い聞かせ、みんな我慢してきたのである。我慢に我慢を重ね、過労で倒れたり、鬱で自殺に追い込まれるのは、人も羨む人気の花形職種に多い。辞めてしまうと、それ以上の地位は望めそうにないから、我慢するより他ないのである。

そして筆者の世代は、そう信じ込んで我慢してしまった、最後の世代にあたるのではないかと思う。新規採用の抑制で、雑用を引き継ぐはずの新人クンたちがパッタリと入ってこなくなってしまったのだ。筆者は、いつまでたっても、30歳を過ぎても、雑用係&パシリ役から解放されなかった。仕事内容の余りのむなしさに耐えかねて転職もした。その甲斐もあり、多少責任ある仕事に携わるようになったが、やはり雑用やパシリからは今なお解放され切っていない。

苦い経験を味わった人生の先輩として言いたい。雑用は全く無意味であると断じてよい。自分がすべき雑用を他人にやらせるような人間は、決して相手のことなど考えていない。都合よく利用したいだけである。理不尽な雑用をやらされそうになったら、「そんなことをやるために会社に入ったのではない」「ご自身でやるべきではないか」と、摩擦を恐れず断固として拒否すべきである。以前の仕事を中途半端な形で辞職せざるを得なかった筆者は、かつての数々の無意味な自己犠牲が苦々しく思いだされる。我慢したところで、いつの日か雑用から自然に解放される時代はとうに終わっている。

これは、社会に出て間もない若い人たちだけでなく、部活動などで用具の手入れや玉拾いをやらされている学生や少年少女諸君も同様である。まともな指導も受けさせてもらえず雑用ばかりさせるような部活で我慢するより、有料のレッスン・スクールに入ってプロのコーチにキッチリ指導してもらうほうが良い。時間と才能を浪費してはいけない。若い時間は極めて貴重である。「若いうちの苦労は買ってでもしろ」などというゴリゴリの昭和的価値観のお題目に騙されず、厳しくも長い人生を乗り切るための、強力なスキルを身につけることに専念してほしい。

モチベーションの欠如にどう対処するか?

2009年07月18日 | ビジネスの雑談
人間には、やりたくなくても、やらねばならない時がある。

と、書くと何やらカッコイイが、あまり気乗りのしない仕事というのは確かにある。費やさねばならない労力の割には、ほとんど具体的な成果がないとか、それに対する報酬が少な過ぎるといった場合に多い。

筆者の場合で言うと、「資料作りのための資料作り」がそれにあたる。何か目的があって資料を作るのではなくて、立派な資料を揃えることが目標のようになっているケースがある。そう言えば、パワーポイントの表現レベルが高いほど、プレゼンの内容レベルは低いという笑えない話もある。苦労して資料を書き上げても、読む人間は1.5人(書いた本人1人と、作成を命じた人間が斜め読みするので0.5人)だったりする。要は、内容はどうでもいいのである。こういった類の非生産的な仕事は意外と多く、気乗りがしないものだ。

以前の仕事では特にひどかった。1.5人どころか、書いた本人以外だれもまともに読んでいないような資料が大量に作成され、膨大にコピーされ、関係があるのかどうかわからない部署にまでバラまかれていた。そして、シュレッダーがオーバーヒートするほどのゴミと化していた。幸い、後に電子化されてパソコン上で見られるようになったが、相変わらずヴァーチャルではゴミを大量生産しているのだろう。

その他にも、心血を注いで取り組んできた案件が、結局水泡に帰すような結果になると、それ以外に取り組んでいる課題のモチベーションまで損なわれる。例えば、長い間懸命になって営業をかけて来たのに、何とか取引成立に至りそうになったところで、全く想定外の状況が発生し、提案してきた商品では役に立たなくなり、話が流れるなどということがある。こういう状況が続くと、徒労感に陥るとともに、別に進めている案件までモチベーションが損なわれる。

モチベーションが湧かない、あるいは損なわれてしまった時、つまり、やる気がないのに何かをせねばならない時、どうしたらいいのだろう。いろいろ対処法はあるが、それぞれ点検してみたい。

1.精神主義に走る
中高年は、コレが大好きだ。やる気がでないなら、気合いとド根性を奮い立たせろという訳だ。「失敗も、次の成功のための必要な経験だ。」「辛いことに耐えることで、成長できるのだ。」「結果ばかりじゃなく、努力の過程にも大事なことがある。」「キミも○○の一員なんだから、それぐらいできるはずだ。」とか、それはそれは有難いご宣託を垂れ流していただける。「頑張るためのモチベーションが湧きません」と言っているのに、「よし、それならモチベーションが湧くように頑張ろう」と返すようなものだ。

要は、成果や報酬を問わず、苦行それ自体が素晴らしいという考え方だ。どちらかというと、宗教に近い。(本当に存在するかわからない)来世の幸福に比べれば、現世の苦労など大したことはない、それがわからないのは信心が足らないのだという訳である。こういう輩にいろいろ文句はあるのだが、まともに反論するモチベーションも湧かないので、もう放っておくことにする。

2.ペナルティを作る
達成感や報酬の得にくい仕事に対しては、逆の報酬、すなわち、やらなかったら罰を与えることにしてやらせてしまうという、これまた良くあるケースである。世の中全体としては、これを対策にして回っていると思う。罰則を作ることによって、義務化してしまう。やりたくないが、やらないともっと嫌な目にあうので、仕方がないからやる、という風に強制するのだ。

実際に罰則がなくても、ある仕事をやらずに放置した場合のシュミレーションを頭でしてみる。結局は、更にいろいろと面倒な事態(実質的にペナルティのようなもの)が発生してくることが思い浮かぶ。仕方がない、やらざるを得ないか…という考えに至り、重い腰が上がる。

この方法の欠点だが、仕事をすること自体よりも、ペナルティを回避することが目的となるので、仕事をしぶしぶする以外にペナルティを回避できる方法があると、そっちに行ってしまう虞がある。罰を逃れる方法ばかり考え出し、新たな罰則とのいたちごっこ、などというのは、よくある話だ。

3.独自に報酬を作る
達成感や報酬が乏しく、モチベーションの湧かない仕事をするに当たって、一番有効なのがこの手段ではないか。つまり、ここまでやったら一服しようとか、コレを買おうとか、アレを食べに行こうとか、「自分にご褒美」というやつである。

外回りの営業マンらしき人が、昼間よくサボっている姿を目撃することがあると思う。陸橋の下や公園の木陰に営業車を停めて、シートを倒し居眠りしている人、スーツ姿でパチンコしている人、カフェや喫茶店で延々時間つぶししている人、マニアックな商品の売り場で見入っている人…これらの人は、決してサボっているばかりではないと思う。営業は、労力の割に成果が出にくい仕事である。労力と成果は正比例していないと、人間はモチベーションを奪われてしまうものだが、なかなか現実にはそうはいかない。一見サボっているだけのように見える彼らは、自分なりの「報酬」を自分で設定して、モチベーションを充填しているのでる。

自分も営業をしてみて、その気持ちはよくわかる。そうでもしないと、本当に自分が擦り減っていくばかりである。まじめ過ぎるのは、モチベーションを維持する上で必ずしも得策ではないのだ。モチベーションは、長く維持することが重要である。一時モチベーションの炎が燃え上がっても、すぐ燃え尽きてしまうようでは、結局成果はでないものである。

そんなわけで、筆者も前向きにサボってみようと思うのだが、生来の気まじめのため、なかなか上手にサボれない。サボっても、あれやこれやと仕事のことが思い浮かび、モチベーションではなくて、妙な罪悪感が湧いてくるばかりだったりする。どうやら前向きにサボるのにも、頭の切り替えとか、割切りとか、時間配分の見通しとか、いろいろと技術がいるのかもしれない。

つらい仕事か、むなしい仕事か

2009年07月04日 | ビジネスの雑談
城繁幸氏のブログ記事「ホワイトカラーの生産性が低い理由」を読んで、自身の経験とも照らし合わせてふと考えた。世の中には、「つらい仕事」と、「むなしい仕事」の二種類の仕事しかないのではないかと。

(本ブログ「雑談の達人」の)筆者は転職を経験している。以前の勤め先でも、関係する相手先を訪ね、非常に多くの仕事の現場を見てきたが、全く違う業界に転職した後でも同様である。今の勤務先で営業マンになり、大企業から中小企業、家族経営の工場まで数多くの仕事の現場をまわり、いろいろな仕事を見てきた。そうした経験の上で、自分自身に語りかけてくる直観が、先ほど述べた悲しい現実なのである。

確かに、多少の語弊はありそうだ。こんな反論が聞こえてきそうだ。

…確かにつらい仕事やむなしい仕事はあるかもしれないが、そんな仕事ばかりではないはずだ。実際、私の仕事は基本的には楽だ。面白いこともある。決してつらいばかりでもないし、むなしくなどはない…

もちろん、筆者も仕事には楽な種類のものもあることや、一定の面白さがあることを否定しない。ただ、程度の差こそあれ、仕事に伴うつらさや、むなしさは必ず存在する。ただ、無我夢中なので「つらさ」を忘れているだけか、思考停止故に「むなしさ」に鈍感になっているか、そのどちらかに過ぎないのだ。

「つらさ」とは、仕事をめぐる精神的、肉体的な労苦を意味する。徹夜の残業を強いられる膨大な事務作業や、激しい肉体労働、上司や客先からの罵倒、遠隔地への出張、転勤…これらすべては、「つらさ」のカテゴリーに定義される。対義語は、「楽(らく)」ということになろうか。

これに対し、「むなしさ」とは、仕事の意義や充実感の欠如に関するものである。誰でも出来る単純極まりない作業の繰り返し、不本意な専門外の仕事の強制、上司や客先の面子のためだけの儀礼的な仕事、別の方法があるのに、わざわざ非効率な方法で行うことを余儀なくされる作業、かつての意義が薄れ、最早無駄なのは明白だが、どういう訳か継続される仕事…この類の仕事が、「むなしさ」のカテゴリーに入る。対義語は、「面白さ」ということになるだろう。

どんな仕事も、「つらい」か、「むなしい」でしかありえない。ただ、「つらさ」を「面白さ」で忘れるか、「むなしさ」を「楽」でやり過ごすかのどちらかである。例えば、プロのスポーツ選手などは、きっと面白く、むなしさとは無縁の職業のように思える。だが、その精神的、肉体的な労苦は計り知れない「つらい」ものであろう。ベンチャー企業の社長業なども、そうかもしれない。彼らは、「つらさ」を物ともしないタフさがあるからこそ、ああいった職業が務まるのだ。

一方で、現場の一線から退いた大企業の管理職、公務員全般、かつての栄光の看板だけでそれなりにやって行ける会社の社員、競争原理がなく、旧態依然の年功序列で人事が回されていく組織など…これらの仕事には、必ず「むなしさ」が伴う。そのむなしさを、収入の多さ、身分の安定さ、世間体のよさ、すなわち「楽」であるが故に、思考停止して毎日をやり過ごしているに過ぎないのだ。

仕事とは一過性のものでなく、一般には長く続ける性質のものである。そのため、仕事を選ぶ時は、「楽さ」「面白さ」を判断基準にしてはいけない。世の中には、「楽」且つ「面白い」仕事などない。だとすれば、逆に自分自身が、どこまで「つらさ」または「むなしさ」に耐えうるかを基準にして、判断すべきである。「つらさ」に耐えられそうになければ、「面白そうな」仕事を選んではいけない。逆に、「むなしさ」に耐えられそうになければ、「楽そうな」仕事を選んではいけない。

筆者自身の場合で言うと、筆者は「つらさ」にはそこそこ耐えうるが、「むなしさ」に対しては、ほとんど耐えられないようだ。以前の勤め先は、それなりに名の知れたところで、世間体は良く、福利厚生もしっかりしていて、仕事も全体として見れば「楽」な方であっただろう。だが、仕事の内容が余りにむなしすぎた。徹底した年功序列型組織で、仕事のための仕事、結果よりも努力、とにかく一生懸命であることが素晴らしいという、組織の文化自体に馴染めなかった。今の仕事は、なかなかつらいところも多いが、それなりに続いている。前の仕事のような「むなしさ」が少ないためであろう。

しかし、最近の日本では、老いも若きも「むなしさ」よりも「つらさ」を避ける傾向が強いような気がする。仕事が「楽」であるのならば、そこに意義などなくてもかまわない、といった具合だ。「鈍感力」などという言葉が一時流行ったが、思考停止で「むなしさ」をやり過ごしてばかりいるような国には、あまり明るい未来は待っていなさそうな気がするのだが…

仲良くなり過ぎることの是非

2009年06月11日 | ビジネスの雑談
営業をする上で、客先と仲良くなるに越したことはない。が、仲良くなり過ぎることについては、賛否両論あるのではないかと思う。

例えば、特段の用件がなくても、更にはアポなしでフラッと訪ねていき、ひとしきり雑談を楽しんで帰る。あるいは、接待といった気の張ったもてなしをしなくても、仕事帰りに気軽に飲みに付き合ってもらえる、休日も、テニスやゴルフといったスポーツを一緒に楽しむ。その他私生活においても、何かと便宜を図りあったりする…

それぐらいの間柄になると、もはや単なる仕事上の関係を超えている。相手が商売上のキーパースンであるなら、仕事がやりやすいのは間違いない。ある意味理想状態と言える。また、仕事から始まった関係で、そのような得難い友人を得られたのは幸運であり、人生を豊かにするものだと思う。

しかし、である。あくまでビジネス上の観点からは、仲良くなり過ぎることのマイナス面も無視しえないだろう。

まず、そこまで仲良くなるには、相手との関係構築に相当なエネルギー(時間やお金)をつぎ込まなくてはならない。その関係を維持するためにも、付き合いを減らすわけにはいかない。すると当然、他の客先に対するケアが手薄になる。そうなると、やりにくい客先へ足が向かなくなったりする。仮にその辺りも抜かりがないスーパー営業マンであったとしても、人間が使える時間は一定だとすると、例えば新規開拓が手薄になる。更に言えば、仲良くなった人物が転勤になったりすると、せっかくの努力が水の泡である、親密さ故に立場を超えて癒着に至ってしまう虞もある…

ところで、このようなどちらかと言うと現実的な理由以外でも、仲良くなり過ぎることは望ましくない、というか、仲良くなり過ぎる必要はないのだと筆者は思うようになった。つまり、仕事上の関係は、利害関係を基本とするべきだと思うのである。

利害関係というと、何やら殺伐としているようなイメージだが、利害が絡むからこそ、ある種の緊張感が生まれ、互いに真剣に向き合えるのだ。相手を信じ過ぎず、かと言って、疑ってばかりでもはじまらない。でも、お互い譲れない一線がある。そんな中で、交渉が決裂しないよう巧みに舵取りし、思惑をうまく一致させなくてはならない。そうした緊張感を伴う人間関係は、仕事ならではのものであり、独特の面白さがある。利害が思わぬ人と人を結びつけることもあれば、利害ゆえに関係の見直しを迫られることもある。そうした現実の人間ドラマからは、学べることも多いと思う。

何より、利害関係が基本だと思えば、むしろ心が軽くなる。残念ながら今回は相手に受け入れられなくても、自分に魅力がないからとか、問題があったからとか思い悩まなくてもよい。単に、今回は利害がかみ合わなかったのである。状況が変われば、きっとチャンスは巡ってくる。そう頭を切り替えて、また新たな出会いに向かうことができる。利害関係も、決して悪いものではない。そんな風に感じている。

続・リーダーシップは如何にして育つのか?

2009年06月08日 | ビジネスの雑談
今回は、前回のブログ記事の続きである。

筆者は、一介のヒラ営業マンに過ぎないが、それでも懇意にしていただいている客先では、社長さんや役員の方々とお会いする機会が結構ある。客先も中小企業がほとんどすべてなのだが、それでも従業員を何十人、何百人と抱えるまでに会社を成長させた方々には、普通とはどこか違うものを感じてきた。

色々な方々のお話を総合すると、最初は社長ご本人とご家族だけで始めた会社が、どうにかこうにか軌道に乗り、少しづつ人を増やしていくのだが、その中で極めて優秀な人、いわば社長の右腕的な人の参加により、会社の成長に弾みがつくことが多い。社長はそこで初めて、日常の実務的な仕事を全面的に任せることが出来るようになり、将来における会社の更なる発展に向けた布石を打つことに専念できるようになるのだ。

そうした経験をしているので、上司のすべき仕事、部下のすべき仕事について、確固とした信念のようなものを持っているようだ。多少の失敗は恐れずに部下に任せるべき仕事は任せる、また、経営者として会社の将来のためやらねばならぬと判断したことは、現場を支えている部下の反発を恐れず、持論を貫き通すこともある。他方で、組織がまだ小さかった頃の経験から、優秀な人材が突然抜けることの痛手も良く知っているので、部下の気持ちに対する配慮にも絶妙なものがある。

中小企業の社長さん、役員さんたちは、小さな組織が段々と拡大、成長していくにつれて、多くの人間の力を有機的且つ効率的に生かせるよう、リーダーシップに磨きをかけてきたのである。こういう力は、後付けで勉強したりして、簡単に身につくような種類の能力ではないと思う。

しかし、今の日本で組織が段々と成長していく現場など、ほとんどないのではないか(そもそも、新規採用の抑制と非正規雇用の増加で、若い世代にリーダーシップが求められる機会自体まれである)。だとすると、日本社会は今後益々リーダーシップ不在の負の連鎖へと落ちていくような気がする。

例えば、日本を代表するような大企業であっても、組織の成長を経験した世代は次々と定年を迎え、せいぜい残っているのは組織をリストラして生き残った人たちばかりであったりする。たまたま回ってきた管理職ポストに、これまた、たまたま人事の巡りあわせで配属されてきた部下たち… そんな部下の教育や、彼らの失敗に対する上司としての管理責任など、いちいち取ろうという気すら起きないのも仕方がないことだ。彼らは、既に出来上がった組織に乗せられただけであって、成長に伴って拡大した組織を、うまく機能させようと懸命にマネージメントした経験などないのだ。

筆者の過去の勤め先での苦い経験は、決して特殊なものでないと感じている。実のところ、リーダーシップ不在の病は、日本社会を相当に蝕んでいると思う。そうした危機感から、企業においては、日産自動車のゴーンCEOや、ソニーのストリンガーCEOのように、外国人をトップに招いたりしているほか、政界においても、東国原宮崎県知事や、橋下大阪府知事、河村たかし名古屋市長といった、これまでにないタイプの地方公共団体の長が登場したりしている。しかし、これらの人々は、停滞気味の既存の組織がある中で、そこに突然トップに就いた方々である。しがらみとは無縁なので組織のリストラはできるかもしれないが、将来の展望を描き、良きリーダーシップを発揮できるかどうかは微妙ではないだろうか(実際、改革路線のトップと事務方の対立は激しさを増すばかりで、当の国民もそれを他人ごとのように面白おかしく見守っているだけけのように見受けられる)。


リーダーシップは如何にして育つのか?

2009年06月07日 | ビジネスの雑談
筆者はかつて、組織がうまく機能するには、すぐれたリーダーが必要だと思っていた。

筆者の昔の勤め先では、リーダーシップの欠如には散々苦労させられた。例えば、ある問題が起こって、対応策について班長に相談すると「課長に相談して」。課長に相談すると「部長に相談して」。部長に相談すると「班長や課長ともっと議論してから来なさい」。そんなことをしている間にも、時間は過ぎていく。結局、もし失敗したら上司たちに「ボクはそんなことをしろとは一言もいっていない!」と非難されるのを覚悟の上で、自分で決断するしかなかった(例えうまくいっても、結果オーライで評価されるどころか、「もっと良い方法があった」と難癖付けられるのが常だった)。

経営層とはほとんど接点がなかったのでなんとも言えないが、中間管理職たちのマネージメント力のなさはひどいものだった。筆者の提案を味噌クソにこき下ろし、企画書を全面書き直しさせておいて、ところがそれを一個上の上司に却下されると、また一個上の上司の意向に沿うように書き直しさせられることもざらにあった。

こんなこともあった。なかなか有力だが、所によってはあまり評判の良くない取引先候補の会社があった。取引を始めれば、大きな商売につながるかもしれないが、その取引先と関係の良くない方面との摩擦を引き起こす可能性がある。

いろいろ考えた結果、その取引先候補とは付き合うべきでないとの意見を上司に伝えたが、この上司殿の判断には本当にあきれた。正確には、「判断しない」というのが、上司殿の判断であった。何のことはない。取引しないと決断することで、商機を逃したという責任が発生するのもイヤ、かといって、問題のある取引先と商売を始めて、もしトラブルが起こったらその責任をとるのもイヤ。結局出てくるのが、「その取引先に対しどういう付き合いをしているか、同業他社の動向を調べろ」という指示である。調べても調べても、「もっと詳しく」と重箱の隅をつつくようなことまで調べさせる。延々と不毛な調査をしている間に、その上司殿は目論見通り異動していった。

そんなこんなで、良きリーダーシップに飢えていた。このまま会社にいても、ああいう上司に生涯コキ使われ続けるか、またはそういう上司になるしかなさそうだったので、結局退社することにした。それでは、今の会社では、理想の上司にめぐり合えたのか、というと、必ずしもそうではない。が、商社の営業として、いろいろな人と出会う機会に恵まれ、リーダーシップに対する考え方がすっかり変わってしまった。人がリーダーシップを身につけるには、単に高いポジションに就くだけでは不十分で、ある条件が必須ではないかと思うようになったのだ。すなわち、自身の手で組織を成長、拡大させた経験が必要なのではないかと。次回は、そのことについて書いてみようと思う。

「弱者の論理」からの逆襲

2009年06月06日 | ビジネスの雑談
前々回のブログで、弱者は強者の論理に乗せられてはいけない、むしろ弱者の論理をしたたかに打ち立てるべきだ、ということを書いた。今回は、その続きである。自由競争、成果主義、能力重視、自己実現、自己責任、個性尊重、経済的自立、最先端技術…時代を引っ張っているかのように思われるこれらのキーワードは、よくよく見てみるとすべて強者の論理の派生形である。

私たちは、こうした価値観が尊いものであるということを、教育やメディアを通じて刷り込まれているので、俄かには反論し難いところがある。しかし、筆者は、中小企業の末端の一営業マンという典型的弱者として悪戦苦闘して生きる中で、ある結論に至った。つまり、「こうしたキーワードは正しいのかもしれないけど、自分の暮らしを少しでも豊かにするか否かという実際的な観点からみると、何ら役にたたない」と。日々の苦労に押しつぶされそうになる中、「強者の論理」方面からは、「まだまだ努力が足りない」「自分の可能性を信じて」「夢はあきらめなければ必ずかなう」「もっと自分らしく」とか、疲れるメッセージばかりが聞こえてくる。

そうは言っても、強者・弱者は絶対的概念ではなく、相対的なものだ。ある時は弱者であっても、別の時には強者であるかもしれない。自分は弱者のつもりでも、他者からはそれなりに強者に見えるかもしれない。(特に若いうちは)いつか強者の側にまわれるかもしれないという淡い期待もあり、弱者として生き抜く覚悟を決められることは、極めてまれだろう。

しかし、これからは日本も諸外国と同じように、少数の強者と、おびただしい数の弱者という二種類の階層で構成され、それが固定化されるようになるはずである。そろそろ弱者の側からの反撃(というか、離反)があってもいいのではないか。いや、弱者の論理の構築は、既にもう始まっていると思う。流行だろうと最先端だろうと夢があろうと、人々は無駄な物を買わなくなってきている。雑誌は売れず、新聞も読まれず、テレビの視聴率は落ち、メディアにも無関心になりつつある。官民挙げて必死に「ハイブリッドカー」なるものを無理矢理盛り上げて買わせようとしているが、どう見ても最後のあがきというやつで、その内息切れするに違いない(そもそも、何故弱者の我々が「環境に優しい車」を買う必要があるのか?)。

なるべく競争をしない、能力以上の無理はしない、ほどほどで満足する、自分の力を過信しない、ありもしない「本当の自分」を探したりせず、与えられた環境の中で出来る限り居心地の良い場所を見つける…

強者の誘いに一切乗らない、そんな弱者の私たちに向けて、自称強者の彼らは「敗北主義者」とのレッテルを張ってくるかもしれないが、心配はいらない。不安になる必要はまったくない。他ならぬ彼らの方が、時代遅れの「勝利中毒」なのだ。

弱者は戦ってはいけない

2009年06月03日 | ビジネスの雑談
「百年に一度の危機」とは、誰が最初に名付けたのか知らないが、確かにひどい不況である。筆者の勤務先は、派手さはないものの堅実な経営を続けてきて、50年前の創業以来、一度も赤字決算を迎えたことがなかったのが、ささやかな誇りであった。が、さすがに今期は売上が激減し、赤字決算の可能性もあるという。そういう意味では、少なくとも50年に1度の危機ではあるのだろう。

既存の客先への売上が減る一方なので、何か新しいことをしなくてはならないが、人員も資本も限られている中小企業では、大胆なことを行うのは難しい。しかも商社である。製造業ではないので、独自の技術やアイデアで何かヒット商品を生み出して、巻き返しを狙うこともできない。不況になると価格破壊が叫ばれるが、商社はあくまで仕入れ先の意向を踏まえて成り立つ商売なので、勝手に激安販売などできるわけもない。

いったい何ができるのか、一営業マンとして、日々いろいろ考えていたのだが、結局「人が気付かないことに気付く」しかないと思うようになった。まだ誰も商売のタネになると全く考えていないもの、更に、それが商売になったとしても、他社が敢えて参入しようとまで思わないようなもの、そういうものを見つけて、コツコツと利益を積み上げるしかないのではないか。将来の市場拡大が見込まれる有望なビジネス分野へ参入したとしても、どこかと競ったりすれば、負ける可能性がある。仮に勝ったとしても、厳しい競争の過程で消耗し、いずれ利益が減っていく。

それでも、弱者が強者に伍して果敢に戦う姿は、どんな分野であっても傍目には痛快であるので、ついついそれを狙いたくなるが、それはワナである。希少な成功例を派手に喧伝し、強者が弱者に同じ土俵で戦うよう誘いをかけているのだ。まんまと乗せられるとまず間違いなく叩き潰される。グローバル化が進んだ大競争時代では、強者に勝負を挑むことすら避けるべきだと思う。まずは生き残ることが第一なのだ。

「ライバルはいない」のが最強の強者だとすると、「ライバルをつくらない」のが、最善の弱者である。

「欲しいものは、すべて手に入れる」のが強者の理想ならば、「手に入らないものは、欲しがらない」のが、弱者の知恵である。

現代は、格差社会だと言われる。至るところで強者の論理がまかり通っていると言われる。「だから、弱者に救いの手を差し伸べよう」、という人は多いが、それもまた強者の側にたった見方に過ぎない(弱者に施しができるのは、結局強者しかいない)。強者の論理がまかり通るならば、それに負けない弱者の論理をしたたかに打ち立てるしかない。

続「お客様第一主義」の弊害

2009年05月24日 | ビジネスの雑談
前回のブログ記事では、日本の多くの会社が重要な経営理念として掲げている「お客様第一主義」が、実のところ万能ではないということを書いた。いわゆる「クレーマー」の登場のほか、商社のような仲介業務の場合、顧客側にべったりではビジネスは成り立たないのである。その他にも、筆者のような一介の中小企業の営業マンであっても、お客様第一主義の弊害を痛感するような事例をよく見聞きする。筆者が特に問題視しているのは、以下の二点である。

1.製品のスペックが過剰になりがちである

「お客様第一主義」を徹底すると、個々のクレームに真摯に対応することよりも、クレームの発生そのものを封じてしまおうという発想になる。そこで、ありとあらゆる問題を事前に想定し、製品の品質を限界まで高め、文句のつけようがないものを作ろうとする。お客の立場を踏まえているようで、実は面倒な客との対話を放棄しているのだ。

そうすると、当然ながら製造・管理のためのコストがかかる。しかも、多くの客がそこまで求めていないようなレベルの機能がついていたりする。その結果、必要最小限の機能を持ち、そこそこの品質を備えている手ごろな価格の製品に敗れたりするのだ。日本のパソコンや携帯が、海外市場においてはあまり売れていないのは、その典型である。

2.「目の前のお客様」第一主義に陥りやすい

お客様第一主義の「お客様」とは、いったい誰なのかということが重要である。もちろん、販売する製品の最終消費者のことを指すはずであるが、日頃接触している目の前のお客様が、最終消費者であるとは限らない。製品の卸先は、家電量販店、スーパーなどの小売店であったりする。他にも、たとえば自動車部品メーカーの場合は、直接の客先は自動車のエンドメーカーであり、車のユーザーではない。

目の前の客への対応を優先すると、更にその向こう側にいる人々のことは後廻しとなる、そうなると、最終製品の消費者はニの次になり、「スーパー様第一主義」「家電量販店様第一主義」「エンドメーカー様第一主義」になる。最終消費者からの満足を得られなかったとしても、とりあえず目の前の客先がこれでよしとしてくれるのであれば、それで十分だということになりやすい。また、最終消費者にとって必要なものなのに、販売店やエンドメーカーの都合で市場への投入が却下されるなどということも起こりうる。

食品の産地偽装や賞味期限の改ざんなどは、最終消費者よりも小売店の便宜を図ったものであり、まさに「目の前のお客様第一主義」が生んだものだと言えよう。

今のところ、「お客様第一主義」に反対するような声はあまり聞かれない。これまでの日本の企業の目覚ましい成功は、「お客様第一主義」によるものが大きかったためだろう。過去の成功体験を否定するのは難しい。しかし、国家にせよ企業にせよ個人にせよ、過去に繁栄をもたらした要因と同じ要因で没落していくことが多いのは、歴史の示すとおりである。

人気ブログランキングへ ←応援クリックお願いいたします。