雑談の達人

初対面の人と下らないことで適当に話を合わせるという軽薄な技術―これがコミュニケーション能力とよばれるものらしい―を求めて

「弱者の論理」からの逆襲

2009年06月06日 | ビジネスの雑談
前々回のブログで、弱者は強者の論理に乗せられてはいけない、むしろ弱者の論理をしたたかに打ち立てるべきだ、ということを書いた。今回は、その続きである。自由競争、成果主義、能力重視、自己実現、自己責任、個性尊重、経済的自立、最先端技術…時代を引っ張っているかのように思われるこれらのキーワードは、よくよく見てみるとすべて強者の論理の派生形である。

私たちは、こうした価値観が尊いものであるということを、教育やメディアを通じて刷り込まれているので、俄かには反論し難いところがある。しかし、筆者は、中小企業の末端の一営業マンという典型的弱者として悪戦苦闘して生きる中で、ある結論に至った。つまり、「こうしたキーワードは正しいのかもしれないけど、自分の暮らしを少しでも豊かにするか否かという実際的な観点からみると、何ら役にたたない」と。日々の苦労に押しつぶされそうになる中、「強者の論理」方面からは、「まだまだ努力が足りない」「自分の可能性を信じて」「夢はあきらめなければ必ずかなう」「もっと自分らしく」とか、疲れるメッセージばかりが聞こえてくる。

そうは言っても、強者・弱者は絶対的概念ではなく、相対的なものだ。ある時は弱者であっても、別の時には強者であるかもしれない。自分は弱者のつもりでも、他者からはそれなりに強者に見えるかもしれない。(特に若いうちは)いつか強者の側にまわれるかもしれないという淡い期待もあり、弱者として生き抜く覚悟を決められることは、極めてまれだろう。

しかし、これからは日本も諸外国と同じように、少数の強者と、おびただしい数の弱者という二種類の階層で構成され、それが固定化されるようになるはずである。そろそろ弱者の側からの反撃(というか、離反)があってもいいのではないか。いや、弱者の論理の構築は、既にもう始まっていると思う。流行だろうと最先端だろうと夢があろうと、人々は無駄な物を買わなくなってきている。雑誌は売れず、新聞も読まれず、テレビの視聴率は落ち、メディアにも無関心になりつつある。官民挙げて必死に「ハイブリッドカー」なるものを無理矢理盛り上げて買わせようとしているが、どう見ても最後のあがきというやつで、その内息切れするに違いない(そもそも、何故弱者の我々が「環境に優しい車」を買う必要があるのか?)。

なるべく競争をしない、能力以上の無理はしない、ほどほどで満足する、自分の力を過信しない、ありもしない「本当の自分」を探したりせず、与えられた環境の中で出来る限り居心地の良い場所を見つける…

強者の誘いに一切乗らない、そんな弱者の私たちに向けて、自称強者の彼らは「敗北主義者」とのレッテルを張ってくるかもしれないが、心配はいらない。不安になる必要はまったくない。他ならぬ彼らの方が、時代遅れの「勝利中毒」なのだ。


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