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僕がすごく気に入っている文章があるので、それを少し紹介します。
芹沢俊介という評論家がいます。この芹沢さんの書いた文章で「イノセンスの壊れる時」という文章があります。
もともと彼は教科書の編者になっていて、その教科書に入れるために書かれた短い文章なんですが、僕はこの文章がとっても好きで、なかなか含蓄の深い文章だなと思っているんです。
それをもとにしながら話をしてみたいと思います。
◆ ◆ ◆
芹沢さんは子どもというのはイノセントだと言います。子どもはイノセントだというと、子どもは純心無垢であるとか何とかという言い方になってどこか凡庸な感じがするのですが、
ここで芹沢さんはそれを純心だとか無垢だとかという情緒的な含みで言っているのではなくて、ものすごく乾いた意味で使っている。
◆ ◆ ◆
イノセンスというのは、その文字通りの意味でいえば「罪がない」ということです。つまり、無罪だということ。芹沢さんが言っているのは、子どもはみな無罪である
―つまり、自分の責任がないんだと言っているのです。
これは、具体的に言えば、「何で私に文句言うのよ、お母さんに生んでくれって頼んだつもりはないよ」と子どもが親に言うことと関係があります。
つまり、子どもというのは―もちろん子どもだけではなくて、オトナでもそうですが―実は人間は、
この世界に自分が存在しているということに関して、責任がないということです。
自分の存在を自分で選んではいないからです。
だから当然、自分が生まれたがゆえに、自分がこの世界に存在しているがゆえにやってしまったこと、やらざるを得なかったことに関して責任がないわけです。
いちばんもともとのところの責任がないわけですから。
だから、子どもはもともと好きで生まれてきたわけでもなんでもないので、この世界に耐えられなくて嫌になって文句を言っても、そのことに関して子どもを叱ることはできない。
◆ ◆ ◆
人間はこの世界に生まれてくる。しかも、多くの性質を与えられて生まれてくる。
人種的な特徴をもったものとして生まれてくる。あるいはある特定の共同体の中に生まれてくる。そのほかいろいろな性質を持って生まれてくる。最近は男とも女とも言いがたい両性具有者の存在もクローズアップされている。
そういうことすべて本人には責任がない。
そうであるとすれば、人間はそもそも責任がない。
それがイノセントであるということです。
◆ ◆ ◆
ここで言いたいのはこういうことです。
責任がないということは、自分は選んでいないということです。
人が自由に生きるということは、これは自分が選択したことだ!と言えることですから、自由であるためにはイノセントのままでいるわけにはいきません。
イノセントでいるということは、自分のやったことに関して自分に責任があるとは言えないということです。
◆ ◆ ◆
そうすると、人間が成長するということは、イノセントな状態を何らかのやり方で克服・消去することです
―これが「イノセントの壊れる時」という芹沢さんの言葉の意味です。
つまり、本来はイノセンスなんです。
これを書き換えなければいけない。
責任がありませんよというところを消して、自分に責任があるんだと書き換える。
そいういうことをするのが大人になることなんだというのが芹沢さんの言っていることです。
◆ ◆ ◆
では、どうやってこんな書き換えを人間は行ってきたのか。
その書き換えメカニズムを考えてみよう。
それが芹沢さんの短い文章の基本的な趣旨です。
大澤真幸「もうひとつの<自由>」『MD』朝日出版社の序文より抜粋
僕はこの文章を10年ぶりに読みなおした。そして気づけば子どもの立場ではなく、親の立場で読んでいることに驚く。どちらの立場から読んでも深いなあ、と今でも思うわけです。
芹沢俊介という評論家がいます。この芹沢さんの書いた文章で「イノセンスの壊れる時」という文章があります。
もともと彼は教科書の編者になっていて、その教科書に入れるために書かれた短い文章なんですが、僕はこの文章がとっても好きで、なかなか含蓄の深い文章だなと思っているんです。
それをもとにしながら話をしてみたいと思います。
◆ ◆ ◆
芹沢さんは子どもというのはイノセントだと言います。子どもはイノセントだというと、子どもは純心無垢であるとか何とかという言い方になってどこか凡庸な感じがするのですが、
ここで芹沢さんはそれを純心だとか無垢だとかという情緒的な含みで言っているのではなくて、ものすごく乾いた意味で使っている。
◆ ◆ ◆
イノセンスというのは、その文字通りの意味でいえば「罪がない」ということです。つまり、無罪だということ。芹沢さんが言っているのは、子どもはみな無罪である
―つまり、自分の責任がないんだと言っているのです。
これは、具体的に言えば、「何で私に文句言うのよ、お母さんに生んでくれって頼んだつもりはないよ」と子どもが親に言うことと関係があります。
つまり、子どもというのは―もちろん子どもだけではなくて、オトナでもそうですが―実は人間は、
この世界に自分が存在しているということに関して、責任がないということです。
自分の存在を自分で選んではいないからです。
だから当然、自分が生まれたがゆえに、自分がこの世界に存在しているがゆえにやってしまったこと、やらざるを得なかったことに関して責任がないわけです。
いちばんもともとのところの責任がないわけですから。
だから、子どもはもともと好きで生まれてきたわけでもなんでもないので、この世界に耐えられなくて嫌になって文句を言っても、そのことに関して子どもを叱ることはできない。
◆ ◆ ◆
人間はこの世界に生まれてくる。しかも、多くの性質を与えられて生まれてくる。
人種的な特徴をもったものとして生まれてくる。あるいはある特定の共同体の中に生まれてくる。そのほかいろいろな性質を持って生まれてくる。最近は男とも女とも言いがたい両性具有者の存在もクローズアップされている。
そういうことすべて本人には責任がない。
そうであるとすれば、人間はそもそも責任がない。
それがイノセントであるということです。
◆ ◆ ◆
ここで言いたいのはこういうことです。
責任がないということは、自分は選んでいないということです。
人が自由に生きるということは、これは自分が選択したことだ!と言えることですから、自由であるためにはイノセントのままでいるわけにはいきません。
イノセントでいるということは、自分のやったことに関して自分に責任があるとは言えないということです。
◆ ◆ ◆
そうすると、人間が成長するということは、イノセントな状態を何らかのやり方で克服・消去することです
―これが「イノセントの壊れる時」という芹沢さんの言葉の意味です。
つまり、本来はイノセンスなんです。
これを書き換えなければいけない。
責任がありませんよというところを消して、自分に責任があるんだと書き換える。
そいういうことをするのが大人になることなんだというのが芹沢さんの言っていることです。
◆ ◆ ◆
では、どうやってこんな書き換えを人間は行ってきたのか。
その書き換えメカニズムを考えてみよう。
それが芹沢さんの短い文章の基本的な趣旨です。
大澤真幸「もうひとつの<自由>」『MD』朝日出版社の序文より抜粋
僕はこの文章を10年ぶりに読みなおした。そして気づけば子どもの立場ではなく、親の立場で読んでいることに驚く。どちらの立場から読んでも深いなあ、と今でも思うわけです。
生かされている、を、生きる、に書き換えてることはなんとも過酷に思います。
私の中では、イノセンスとは無罪であり、責任がないこと、というのが非常に広い解釈であるように思いました。
そうですね。イノセンスということばは芹沢さんにとってはずいぶん特殊な意味合いで捉えられているようですね。
僕としては、その特殊な意味でのイノセンスであっても、わざわざすべて書き換えることもないんじゃないか。
そもそも人なんてそこまで自由になんてなれるのだろうか?
そういう疑問がまだまだあります。
僕の中で、イノセンスという言葉はプラスでもマイナスでもあって、ふわふわとして、とらえどころのないものに思うのです。