http://youtu.be/Ix2Wd7If0rw
http://youtu.be/cIlRQVobNQY
人間の生きがいとは何か (1970年) (講談社現代新書)
橋本 凝胤 (著)
死ぬという現象
そこでまず知っていただきたいことは、死ぬという事件です。
われわれはこのお釈迦さまの涅槃のことを
円寂(えんじゃく)とか入寂(にゅうじゃく)といっています。
われわれのほうには死ぬということばを使っております。
まあお互いに一度は必ず死ななければなりませんから、
死の実情というものを、よく認識しておく必要があると思うのですが、
いろいろの古い本に死の現象ということが細かく書きあらわされています。
死というものは、いつどうして起こるか、
そしてもう一つはわれわれ人間の最も根本になっているものは何か、
われわれは何で生きているのかという問題です。
われわれはどうして生きているのか、
何が生かしているのか、これは大切な問題です。
われわれが死ぬという現象は一体、どういう現象かといいますと、
それは心と肉体とが離れるということです。
われわれは肉体と精神との調和の非常によいとき、
肉体と精神とがキチッと合っているときは、生きています。
これがバランスを欠いてくると病気になるのです。
この二つが遊離してしまうと、身体のほうは腐ってきます。
心があって、われわれの体をたもってくれるのです。
心が、「もうあんたみたいなもの、やめや」といって
どこかへ行ってしまうと、あくる日から身体が腐ってくるわけです。
心のある間、人間の身体は腐りません。
心が身体からシュッと抜けると腐りはじめる。
いやなにおいがして、くずれていく。
こうなるともう捨てにいくよりしかたがない。
葬式なんてものは心の抜けがらを捨てるのですから、
金をかけるのは無駄なことなのですが、
このように人間には心と肉体があります。
それから、人間が生きている姿というものを、
寿(じゅ)、煖(なん)、識(しき)といいます。
寿というのはいのち、煖といえばぬくみのこと、
それにこのほかに識という心があるわけです。
人間の根底をなすものは寿というものでもなければ、
煖でもない、識というものです。
われわれの身体、
あるいはわれわれの環境を静かに保持しておるものは何かというと、
心というものです。
心があってわれわれの身体を腐らぬようにたもってくれているのです。
こういうふうにわれわれ人間は
寿、煖、識というこの三つがよく調和している身体が健康ということです。
生きている間は、
環境と自分の身体とそして心との三つが渾然一体となって身体を保っているのです。
われわれは人のために生きているのではない
人間性とはいかなるものであるか。
われわれは人のために生きているのではない。
社会のためにでも世界のためにでも、
世界人類のために生きているわけでもない。
それを世界人類のために生きているような考え方を
持たなければならぬように訓練されてきているわけです。
よく人道主義、ヒューマニズムといことをいいます。
これは人間と共に暮らすときの人間の道を説いているのです。
つまり、人間生活のひとつのルールを考えるのが人道主義です。
しかしこういうものに、われわれは左右されてはいけないのです。
いつでも一人のときに、一人の生活の中に、
道というものが厳然となければならないのです。
ところが、いわゆる理性的な判断といものが中心になってきている。
対外的に、あるいは大衆的に、社会的にと、こうなってきますと、
この良心、一人の生活というものが、だんだんお粗末になってきます。
一人の生活ほど重要なものはないのですが、
対外とか社会的とかいう考え方がだんだん強くなればなるほど、
一人の生活が自堕落になってくるわけです。
孔子や孟子が「一人を慎む」ということをおっしゃっております。
一人の世界がいちばん重要だという考え方です。
http://youtu.be/s8iagenglQA