不整脈のトラウマに打ち勝って明るく前向きに生きる男の顛末記

明るく前向きに生きることで
不整脈とQOLをコントロールした男の生きざまを描く

超えられる身の程と超えられない身の程

2024-06-16 20:48:33 | 人間学


自分の撮った写真を売ろう。
撮り貯めた数々の作品をフォトストック(写真販売サイト)に登録し始めた。
ブログにしてもYouTubeにしても時間を使う割にお小遣いにもならない。
どうせ時間を使うのであれば一文にもならないことに時間を浪費するより、
少しでも収入につながるかもね的なことに時間を使おう。
まあ、そういうことである。
しかし売れないのはわかっている。
理由は簡単だ。
すでに1億点近い作品が登録されており、クリエーターの数も40万人超え。
ガチガチのレッドオーシャンであり、ぽっと出の後発組が入り込める隙間はほとんどない。
検索に引っかかるのも一苦労であろう。

だが、売れない原因はそれだけではない。 
そもそも人様に評価されるような身の程ではない。
それが売れない最大の要因である。


人様に評価されない身の程とは?

 ★人様に評価されるのが大嫌い
   他人に評価されるなんてまっぴらごめんだ。
   おまんまを食うために欠かすことのできない会社で評価されるだけでお腹いっぱい。
   他人に評価されるのが心底嫌な男が人様に評価されて作品を買ってもらえる道理がない。

 ★流行りを追うことは断固拒否
   流行りのヒト・モノ・コトには全く興味がない。
   流行りに乗らなければ人様が欲しがる作品を出せるはずもない。

 ★一生懸命とか必死とか努力するなんて考えられない
   何の努力もせずに中の上辺りにいれたらいいなぁ~というクズ。
   努力しても成功するとは限らないが成功した者は皆すべからく努力している。
   努力が嫌なヤツが成功するはずがない。

 ★権威に媚びるなんて死んでもイヤ
   この世でのし上がるには「寄らば権威の影」が手っ取り早い。
   親の七光り・虎の威を借る狐の言葉通りで
   実力があるヤツだと錯覚させる着ぐるみを着れば無能がバレることはない。
   被写体の威を借りれば写真が下手くそでも評価される。
   権威の威を借りれば実力如何にかかわらず評価される可能性が高くなるのは事実。
   ヒト・モノ・コトを利用しないヤツの作品が売れることはないだろう。

 ★性根が腐りきっている
   いじわる・あまのじゃく・口も性格も悪い・狡賢い。
   出世欲のあるヤツが狡賢いのは出世につながるが
   出世欲のない私のようなヤツが狡賢いのは救いようがない。
   性根がねじ曲がっている者の撮るものが人の心を打つことは、まあないだろう。

 ★出不精でめんどくさがり屋
   いい写真が撮れるかどうかは、まず下手な鉄砲の数を撃たねば話にならない。
   出不精でめんどくさがり屋はそれだけで機会を失っている。
   マメに通うものが売れるとは限らないがマメに通わないものが売れることはない。

 ★持病持ち
   腎臓保護の薬で頻尿・多尿のためトイレがない場所では活動ができない。
   身体的制限・ハンデのある者は相当の覚悟がないと健常人と同じ過程を踏むことは難しい。
   いける場所、やれること、これに縛りがある時点で健常人相手は相当厳しいだろう。

人は経験を積むと価値観が変わることがあり己の身の程が改善されたり改悪されることがある。
だが自分の本質の部分はどんな経験をしようが変えられない変わらない。
どんなに意欲を持とうが身の程にも超えられるものと超えられないものがあるのだ。

さて、そんな超えられない身の程で写真が売れない哀れな身ではあるが、
実は狙いも大博打である。
即ち、
 ★需要はあるがリッチなジャンルの熾烈な競争の世界で勝負するか?。
 ★需要ゼロかもしれないがニーズがあれば確率大のニッチなジャンルで勝負するか?。

需要はないかもしれないが競争も少ないニッチなジャンルで勝負することにした。

まあ、あまり下調べをすると絶望感しか残らないかもしれないので、
私が思ったジャンルがニッチなのかは知らんけど。

知らぬが仏という言葉もある。
期待せず、粛々と売れないであろう作品の数を増やしていきますか🤣


ボッチは強いのか?弱いのか?

2024-06-04 05:48:24 | 人間学


モンキチョウ


ボッチ。
ここでいうボッチとは?。
コミケ力はあるが好き好んで独りになりたがるヤツ。
コミケ力はあるが集団の中に居ると疲れるので結果的に独りになるヤツ。
また、日常のほとんどのことは自己完結できる能力のあるヤツのことを指す。
無能者や変質者のように周囲から拒絶されるヤツらや、
親のすねをかじって引きこもって一人という輩はボッチではないので注意されたし。

あと、ここはビョウキブログデスカ?。
という疑問が湧くかもしれないが、
病いという足かせが外れると病のことをぼやく必要がなくなり、
病以外のことが考えられるようになるので自由闊達になれる。
そのように解釈していただければ幸いである。


ボッチは強い。
災害に遭って周りに誰もいないとき、無人島に一人でほっぽり出されたとき、
生き残れるのはスマホという外部記憶装置ではない、
己の脳みそに豊富な知識と経験を蓄えたボッチである。

ボッチは弱い。
社会生活を集団で過ごさなければならなくなったとき。
皮をかぶり続けるのに疲れるのでやがて自分勝手に動き出し、
いずれは集団から脱落してボッチに戻る。
もし集団生活から逃げることができなくなったらボッチは実質的に死んだも同じだ。
集団の和をかき乱すやっかみ者か孤立して後ろ指をさされる爪弾き者となる。

呂布は一騎当千と言われたが、たとえ烏合の衆であっても1万人いたら呂布でも勝てない。
数は力、人の和は足し算、人の縁は掛け算である。


最近、ボッチ好きのワタクシに会いたいと
遠方からわざわざ会津に来てくださった方がいる。
この方、腰が低く自身は低能であると事あるごとに言ってくるのだが、
こういう方は要注意である。

今回の来訪は、とあるイベントの下見も兼ねていたのだが、
イベント時の宿泊先に挨拶がてらお土産を渡し、
条件が合わず宿泊予定をキャンセルした宿泊先にもお土産と謝罪の挨拶をし
今宵の宿泊先にもお土産を持参し、お世話になりますと渡す。
私も過大なほどのお土産をいただいた。

イベントで夜間複数人で撮影をやることになるわけだが、
イベント会場近くの道路わきの待避所や、国立公園の展望所などの使用許可を取るのである。
あ~いうのって使用許可とれるんだ
(もちろん誰もいない夜だから約束事を守れば使ってもいいよ的な意味である)。
さらにドローンを飛ばせるか否か?、飛行許可の必要性有無の確認まで、
ありとあらゆることをテキパキとこなしていく。
聞けば市町村や県や国の機関に電話しまくって管轄権者を探し交渉するのだそう。

自分は何でも自己完結させようとするボッチである。
この方は人の和と人の縁を巧みに使う集団型の人であると推測されるが、
行動力・実行力の差でボッチ力でも大きく負けている。
自分ボッチは人の和、人の縁をほとんど使えないので人間力では大差がつく。

身の程という言葉がある。
あまりいい意味で使われない言葉だが、実は大切な言葉だ。
これは己の価値感やこだわり、好き嫌い、持って生まれた行動力(行動範囲)、
体力や持久力、持病による制限、財力、
仕事や家族によって自由に使える時間の多い少ないなどを足し合わせたものが、
己の身の程となる。

人の和を図り、
人の縁を構築し、
それを巧みに使いこなす方にボッチオンリーの人間は勝てない。

世の中に自分よりすごい人間は五万といるが、まあこういう理屈故である。

ボッチは強いのか?弱いのか?
食うに困らない能力や自主自立性を持ち、
己の狭い世界に閉じこもっても一人で生きていけるボッチであれば強い。
周囲からの影響を受けず独自路線を歩めるからね。
ただ、行き過ぎると深い闇に堕ちて、
自死を図ったり、無敵の人になって他人様に迷惑をかける恐れが大きくなる。

あまり個に深く沈みすぎず、適度に集団と付き合いながら生きるのが吉である。


命の儚さを知ると自然が好きになる

2024-05-28 09:00:16 | 人間学

そして人間が大嫌いになります。

もちろん大半の人は普通、
いい人も大勢いるけど、
あまりにもクソな人間が多すぎて帳消し。



命に係わるかどうか別にして、

 病気の世界にもマウントってあるんですかね
 カメラの世界では金額や性能でマウントとる人いますけど
 軽い病気だと、その程度の病気で騒ぐな・・・みたいな

痛みや苦しみで死というものを意識すると、
健康のありがたみや普通に生きれることがとても貴重なのだと感じれるようになる。

孫娘が生まれて本当の愛情というものを知ったということもありますが、
最近は特に小さな世界の命の儚さが愛おしく思えるようになりました。

1cmに満たない生き物にも命があり、
人間よりはるかに生きることに真剣です。
(適当に生きてたら死んじゃうからね)

写真のクモは、どちらもハエトリグモという種で、
目がとてもよく、頭がよく動くので仕草がとてもかわいい。

しかし、一瞬の油断が命取り。
自然は多くの命を育みますが、同時に命に対してとても厳しい。

健康のために歩き回り、自然をくまなく見て回ると
自然の儚さがわかって自然に優しくなれます。

好き勝手わがまま放題に生きてエネルギーの無駄遣いをし、
そのしっぺ返しで災害で家を失ったり命を失ったり。
それでも自分には関係ねぇ~と、どんどん我儘ぶりが増長しまくり。

もう少し地球に対して謙虚に生きませんか?。
言ってもわからんか・・・。
せめて病に苦しんだ人には、そこに気づいてほしいけどねぇ~。


人が人を必要としない世界をせっせと作る いよいよ滅びへのカウントダウンが始まった

2024-05-16 08:24:05 | 人間学


【カタバミ】葉がレッドタイプ
ただの雑草/そこら中に普通に見られる/ヤマトシジミ(蝶)の幼虫の食草/
花は小さいが可憐で綺麗/種は手りゅう弾のように弾け飛ぶ/

カタバミは葉が青いタイプと赤いタイプがあるのは知っていたが、
花に微妙な違いがあるところまでは見てなかった。
葉が赤いタイプは花弁内側に鮮やかなレッドリングがある。
生物の進化とは実に不思議なものだ。
赤と青に分かれた理由はなんだろう?。
自然は実に奥深い。



昨今、AI(人工知能)が目覚ましい発展を遂げている。
ここで主導権を握れば莫大な富が得られる。
例によって欲の亡者(=人間)は恐ろしい勢いで開発を進めている。
AIが人を滅ぼすか否か?。
滅びるをどう定義するかによって見方は変わるだろう。

例えば、人が生きているか死んでいるかの定義。
筆者は人間らしい活動ができなくなった時点で人の死と定義している。
人間らしい活動とは?。
自分の意志で何かを成せること。
それができなくなる、あるいは大きな制限によって多大な労力を必要とする時点で、
人の死と考える。(つまり、自分はそのような状況下で生きるのはまっぴらごめんということ)



カメラで話を進めよう。
現時点の最新の高性能機は、
 被写体の高精度な自動認識機能
 高精度なAF機能
 高精度な被写体の追尾能力
 プリキャプチャ機能(シャッターを押す前から記録を開始している)
 著しい連写・記録機能
それを可能とする処理能力を有している。

SNSを見ればわかるが、かつてはプロ、あるいはハイアマチュアの領域だった
カワセミの飛び込みなども、高性能機さえ持っていれば
にわか野鳥カメラマンでさえ撮れるようになった。(必ず撮れるとは言ってないよ)

ここで問題です。
 人がシャッターを押す前から裏では記録されている。
 人が到底制御できないスピードで連写し記録している。
 ピントを合わせるモノ、ピントを合わせる位置を人が制御していない。
この状態を人が撮っていると定義できるか?

カワセミの飛び込みをこのような高性能機で撮る場合、
人が介在している撮影プロセスは何か?と考えると、
 その場にいた。
 必要な設定をカメラに施した。
 カワセミを追ってカメラを向けた。
 シャッターは押した。
せいぜいこのくらいである。

人間が写真を撮っているか否かを筆者基準でいえば、
「まあギリギリ人が撮っていると言えなくもない」である。
撮るプロセス、どう撮られたかを写真の価値とみなす筆者にとって、
こういう撮り方をされたものは、もはや写真として見る価値はない。
ちなみに商売としてなら話は別だ。
これはあくまで撮ることが趣味でぇ~すと言ってる輩が、
自分が撮ってるか否かを主張していいか悪いかの話です。

ここで一気に話を進めよう。
生成AIが著しく進化した未来。
人間がせっせとSNSなどに投稿した画像やEXIF情報、日時や位置情報から、
パソコンの前で撮影位置・方角・時間帯・気象条件などを指定してやれば、
生成AIは、まるで人が撮ったかのような素晴らしい画像を生成するだろう。

その頃の人間は多くのことを自動実行されるタスクとしてAIに実行させているだろう。
その頃にSNSが存在意義を持ち続けているか、甚だ疑問ではあるが、
AIは承認欲求を満たし続けたい依頼主の要求に応え、せっせと画像投稿をし続ける。
あるいは画像だけでなく、依頼主の特徴をLLM(大規模言語学習モデル)によって掴んだAIは
まるで、その人間が書いたかのようなキャプションやコメントを書き続けるに違いない。
もちろん返信も!である。
そして、それはその人間がある日突然死んだとしても続けられることになる。
(銀行口座、アカウント、本人が死んでも存在し続けている現在を見れば改善される見込み薄だ)
これは実に恐ろしい話だ。
これが100人1000人なら、まだいいが、
実在する人間の数を大きく侵食することになったら?。

私たちは人が発信していない画像や情報に日々晒され続けることになる。
で、睡眠欲と食欲以外のタスクをAIに任せて暇を持てました人間は何するか?
まあ、自堕落した生活を送るんでしょうねぇ。

ちなみに、国・企業などが、この手の問題の解決策を打ち出すのでは?とお考え?。
まあ、メタの詐欺広告に対する対応を見ればわかるだろう?
金になるのであれば何でもやるのが企業である。

だって~、自らの存在価値をなくす方向に人類自らせっせと舵を切っているんだもの。
バカとしか言いようがないよねぇ。

ちなみに筆者はAIが人類にもたらす恩恵も重々理解している。
だが、私、あるいはあなた個人に存在価値がある未来かというと、
まあ、ゴミ・クズ・カスみたいなもんだろうね、個人としての人の価値なんて。

ただ、自分が死んでも自分に成り済ましたAIが
せっせと自分らしい発信を続けてくれるんだから、
承認欲求厨にとっては自分が存在しなくても本望と言える未来なのかもしれない。

ちなみに、今現在も人の欲が絡んでいる情報は一切信じていない。
(動画やキャプション付きの画像も含めて)

なるほど、だから人を遠ざけ自然と向き合うことに走るのか俺は。


病気になったからこそ見える世界がある

2024-05-10 07:24:31 | 人間学


【カタバミ】ただの雑草/そこら中に普通に見られる/ヤマトシジミ(蝶)の幼虫の食草/
花は小さいが可憐で綺麗/種は手りゅう弾のように弾け飛ぶ/

Nikon Z 7ⅱ+TTArtisan 100m T/S 2×Macro


死ぬまで人工透析にならないように塩分制限や適度な運動(減量)が必要になった我が人生。
病気にならなければ自宅周辺に限らず、あちこち歩き回ることはなかっただろう。
(退職してジジイになったら暇を持て余して歩いたかもしれないが)
自宅に閉じこもって1日中パソコンの前に座ってポテチをほおばりながらペプシゼロを飲む。
出かけるときは車でピュ~~ッ。
世界のほとんどが見えず、何も知らない人間で終わったであろう。
(ちなみに自転車でもダメ、歩くのに比べて圧倒的に触れる情報量は少なくなる)

ただし、距離を稼ぐために歩くことがメインになると視界は大幅に狭まる。
道端の草、雑草の花など、あらゆるものをじっくり見ながら歩こう。

病気にならなかったら決して見ることのなかった世界が見えるだろう。
自然をじっくり見て歩くのも悪くはない。


追伸
ただし、病気にならずに酒池肉林で人生を終えられた方が個人的には良かったがね(-_-)