板垣退助1837-1919は土佐出身の政治家で、名を正形といい退助は通称である。1837年土佐藩の武士・乾正成の子として生まれ、吉田東洋の影響を受けて藩内で頭角を現すようになる。 土佐藩では武市瑞山、坂本龍馬、中岡慎太郎といった有能な人材が維新まで生き残れずに、それに代わって登場した人物である。 乾家は220石取りの馬廻役(上士身分)であり、同じ土佐藩士後藤象二郎とは幼な馴染みである。また、後に板垣家と坂本家は親戚関係となる。 藩主・山内容堂の側用役から始まり、藩の要職歴任後、倒幕運動に参加し、武力倒幕を主張する。 土佐藩が大政奉還論に傾く中、薩摩の西郷らと倒幕の密約を結ぶが、土佐藩は後藤象二郎の主導により薩土盟約を締結するが、両藩の思惑の違いにより短期間に破綻し後藤・容堂主導により大政奉還の建白がなされ慶喜がこれを受け入れるが、薩摩藩を中心とした討幕派はこれに飽きたらず、反撥する旧幕府側の兵により鳥羽伏見の戦いが勃発する。
戊辰戦争(維新政府軍と旧幕府側との間で戦われた内戦)では、新政府軍の参謀として活躍し、維新後は土佐藩の大参事となり、1871年には参議となる。 しかし、西郷隆盛らと征韓論(武力で朝鮮を開国さる考え)を唱え、やぶれたため政府から退く。 その後1874年、後藤象二郎らと民撰議院設立建白書を政府に提出し愛国公党や立志社を設立する。 その後、自由民権運動が盛んになると、自由党の総理となった。 1882年、岐阜での演説中に襲われ負傷した際に叫んだのが、「われ死すとも自由は死せん」という有名な言葉である。 1884年自由党を解散し、1890年立憲自由党を結成後、第2次伊藤内閣の内務大臣を務め、1898年には大隈重信と共に憲政党を結成し、大隈内閣の内務大臣を務めた。
高知城内にある板垣退助像 作者・本山白雲(高村光雲の弟子)は退助の親族