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孝明天皇崩御

2010年01月28日 | 幕末

 1866年12月孝明天皇は天然痘にかかり小康状態のあと急死する。 実はこの崩御には砒素中毒説、つまり毒殺説があり岩倉具視下手人説が流布しており今日でも謎である。 孝明天皇が反慶喜派の列参に対して逆鱗し、かえって岩倉具視を黒幕とする中御門経之ら公家の立場は悪化した。 天皇は攘夷論者ではあったが慶喜らを信任し、慶喜が15代将軍に宣下されたのは孝明天皇崩御の20日ほど前のことである。 孝明天皇が仮に健在であったら、たとえ岩倉具視と薩長が連携したとしても天皇を奪取する宮廷クーデターは無理であった。 新天皇は中山忠能を外祖父とする明治天皇である。新天皇の登場によって岩倉、中山忠能ら処罰を受けていた公武合体派や尊攘派の公家たちは赦免される。 岩倉具視は5年にわたる隠棲生活から、月一度の入洛を許される身となった。 そして大久保利通、坂本龍馬、中岡慎太郎など討幕派武士と急速に結びついた。 島津久光と松平慶永、伊達宗城、山内豊信の4大名が上洛したのは1867年5月、久光が兵700を率いて上洛し朝廷の人材登用を摂政に要求した。 前の22人列参中心人物である中御門経之、大原重徳の登用である。 朝彦親王、二条斉敬、鷹司輔煕、九条道孝を含めて薩摩の縁家であった近衛忠房も慶喜を支持し、薩摩藩側にはつかなかった。 こうして徳川慶喜は孝明天皇という後ろ盾はなくしたが、摂家・親王によって構成される朝議を完全に掌握し、薩摩藩は追い詰められた。 薩長同盟の合意に従い、大久保利通は兵力を備え、6月長州藩と薩摩藩との間で武力討幕が合意された。

 討幕派の戦略は長州藩の木戸孝允が坂本龍馬に送った書簡にあらわれているという。 西郷隆盛を躍起責任者として天皇を奪取することが目的である。 こうして薩長の討幕派発起準備が進む中、これに対抗して武力によらない政治改革の計画が立案される。 土佐藩が工作し6月に結ばれた薩土盟約は幕府が大政奉還をするというもので、土佐藩の手による大政奉還建白書に受け継がれ、武力発起の薩摩藩は土佐藩を討幕に引き込むために盟約に加わった。 この薩土盟約の構想は坂本龍馬が作成した船中八策をもとにしたものであり、諸候会議・人民共和を趣旨とした。 土佐藩は大政奉還を慶喜に建白し、10月には慶喜による英断がなされた。 坂本龍馬が中岡慎太郎とともに河原町三条の近江屋で暗殺されたのは、この一月後の1867年12月10日のことである。 

 実は、大政奉還と同時に「討幕の密勅」が岩倉具視から薩摩藩と長州藩へ密かに渡された。 中御門経之、中山忠能、正親町三条実愛の三人の公家により作成されたが詔書の体裁は整っていない。 幼帝祐宮に討幕の意図を聞けるわけはなく、天皇による記載が何もないのである。 つまりこの密勅は岩倉具視による偽勅なのである。 王政復古のクーデターが起こったのは1867年12月9日であるから坂本龍馬が近江屋で襲われた直後で、岩倉具視が王政復古発令の文書をもって御所にはいり 中御門経之、中山忠能、正親町三条実愛の三人の公家とともに幼帝を擁して王政復古を宣言した。 西郷隆盛は討幕派と土佐藩らを指揮して宮門を固め軍事制圧を行い、土佐や越前藩などは自藩の存続をはかり参加しているが、計画の詳細を知っていたのは岩倉、西郷のほかには木戸、大久保らほんのわずかな者だけであったという。 王政復古の大号令では徳川慶喜の大政奉還、将軍職辞退を認め、摂関・幕府を廃絶して、総裁・議定・参与を置くと宣言された。 それぞれには公家5名と藩士が5藩から3名ずつ選ばれた。 5藩は薩摩、安芸、土佐、越前、尾張藩である。 討幕派だけで極秘に準備されたこの臨時政府と幕府の軍事力とが対決する戦いが、翌1868年から始まる鳥羽伏見の戦い・戊辰戦争である。

孝明天皇が眠る後月輪東山陵は京都・東山、泉涌寺の裏山にあります

 

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