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お龍の実家・楢崎将作宅跡

2010年01月03日 | 幕末

 北辰一刀流剣術開祖・千葉周作 (水戸藩に仕え、水戸三流の一つとして北辰一刀流師範をした。) の弟の千葉定吉の娘に千葉さな子がいる。 婚約から9年後に暗殺の訃報を聞いたさな子は、竜馬が実は結婚していたことを知らなかった。 その相手はあまりにも有名なお龍と呼ばれる青蓮院宮に仕える内・外科医者・楢崎将作の長女である。 お龍には父母のほか弟妹が4人もいたが、家事を任されることもなく華道・香道・茶道などのおけいこごとに専念できたようです。父在世中は良家のお嬢様として裕福に暮らしていたようです。

 1862年、父は安政の大獄で捕らえられて獄死しており、貧窮にあえぐ一家を支えるためにお龍は旅館・扇岩で働いた。 お龍とは別行動をとった母貞と末妹の君江は、洛東大仏方広寺南門前の河原屋五兵衛の隠居所に居住し、土佐亡命志士の賄いのため住み込みで働きます。ここに龍馬が住んでいたため龍馬とお龍の出会うきっかけとなります。龍馬はお龍を紹介した姉乙女宛ての手紙に,さまざまな彼女の個性を記し、誠におもしろき女と評しています。

京都柳馬場通三条下る東側にある楢崎龍・実家跡碑は現在居酒屋となっています。看板が石碑にかぶっていて楢崎家跡の文字が隠れていましたのでずらしておきました。

 この頃お龍は尊皇攘夷派の賂いとなっていた。 この天誅組(公卿・中山忠光を大将とする志士集団であるが、幕府の追討を受けて壊滅する)が幕府の追討を受けると、各地を放浪するようになっていた。 そして龍馬の愛人となり、寺田屋に奉公することとなった。 1866年、薩長同盟成立前に、新撰組(反幕勢力の弾圧活動を行う)によって寺田屋が包囲され、このときお龍は風呂に入っていたにもかかわらず、飛び出して龍馬に危機を知らせて救った事件が有名である。その寺田屋事件直後に龍馬はお龍と結婚し、小松帯刀の誘いで温泉旅行を楽しんでいる。 1867年の龍馬死後、お龍は土佐の坂本家で龍馬の姉・坂本乙女に身を寄せたり、西郷隆盛や海援隊士を頼ったりと、転々としながら横須賀へ流れ、商人西村松兵衛と再婚し松兵衛との間に男児を出産するも、その息子は17歳で死去。 以降、酒をあおった無理からか1906年に死去。墓には「贈正四位阪本龍馬の妻龍子」と刻まれている。

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