平安時代の歴史紹介とポートレイト (アフェリエイト説明 / ちょっと嬉しいお得情報を紹介)

古代史から現代史に至る迄の歴史散策紹介とポートレイト及び、アフェリエイト/アソシエイト登録方法と広告掲載説明

多くの長州藩士を失った池田屋事件

2010年01月08日 | 幕末

 池田屋事件、それは幕末の1864年7月15日、京都三条木屋町の旅館・池田屋で会津藩・京都守護職配下の治安組織・新撰組が長州藩・土佐藩などの尊皇攘夷派を襲撃した事件である。 八月十八日の政変(文久の変)で京都を締め出された長州藩は、祇園祭の宵に御所を焼き払った混乱に乗じて、孝明天皇を長州に連れ出し、京都守護職ならびに所司代を討ちとり一橋慶喜・会津の松平容保らを暗殺するという過激なものであった。 一方、新撰組はこの不穏な空気を察知し内偵を強化し、古高俊太郎(四条小橋で炭薪商を経営する枡屋)を拷問し、京都焼き討ち計画の陰謀を白状させた。

 近藤勇は京都守護職・松平容保に報告すると、長州藩の捜査を開始しやがて長州藩定宿池田屋で密会(古高逮捕をうけて襲撃計画の実行・中止について協議する会合)している長州・土佐・肥後の浪士を発見する。 近藤勇、沖田総司、永倉新八、藤堂平助の四名が池田屋に突入し、やがて騒ぎを聞きつけた土方隊や井上隊が加勢し、二時間足らずで、倒幕浪士七名を斬殺、二十一名を捕縛します。 この成功により新撰組の名は全国に轟き、一躍、歴史の表舞台に立つことになります。 逆に尊攘派は吉田稔麿・北添佶摩・宮部鼎蔵・大高又次郎・石川潤次郎・杉山松助・松田重助らの実力者を失い、大打撃を受けた。

 長州藩はこの事件をきっかけに挙兵・上洛して、7月19日の禁門の変を引き起こすこととなる。 池田屋主人・池田屋惣兵衛は尊攘派志士をかくまっていたとしては捕らえられ獄死。 現在この地には居酒屋「海鮮茶屋 池田屋 はなの舞」がありました。


コメント